紙の本
L・Cブームの反復と差異
2003/10/17 18:24
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投稿者:脇博道 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ル・コルビュジエ(以下L・Cと略する)のブームは尽きることなく
続く。現時点でも、そのブームは十何回(何十回?)目の時期に当た
るといってもよいと思われる。磯崎氏の本棚にも、現在、L・C自身
の著作の原本及び翻訳が数十冊、研究書の類はその同数以上も並んで
いるという。20世紀を代表する建築家は、ほぼミースとL・Cにし
ぼられつつあると、本書にも記述されているが、まさしくその両極の
1人であるL・Cについて、氏が長年に渡り追跡してこられた成果が
本書に収録されている。
さて、幾多の研究書及び論考が存在するとはいえ、研究書の中で最も
重要かつ後代に大きな影響を与えたものは、おそらくコーリン・ロウ
という偉大なる建築史家が書いた「マニエリスムと近代建築」所収の
理想的ヴィラの数学、なる論考であると思われるが、1人の卓越した
建築家(勿論ここでは磯崎氏をさす)が、ずばり本質を見抜いた決定
的な論考としては、本書所収の、海のエロス、という文章であろう。
この文章は、磯崎氏が、自ら体験し、感知した、L・Cのラ・トゥー
レットの僧院、の空間的インパクトとその意味について書かれたもの
であるが、これほど、L・C建築の論理性と官能性という相対するイ
メージを、ひとつの文章に記述しつつ見事に昇華させた例は、ほかに
は存在しない。ぜひ一読して頂きたい名文である。
私にとってのアクロポリス、という素晴しい文章も収録されている。
L・Cに大いなる感動を与えたという廃墟としてのアクロポリスの
イメージと、氏が原風景として保持し続ける廃墟(これは必ずしも
アクロポリスに限定される訳ではないのだが)のイメージがスーパ
インポーズされて、これも他に類を見ない独創的な論考となってい
る。昨今の廃墟ブームの在り方とは一線を画すイメージが感得でき
る論考である。
L・Cの代表的作品のエッセンスを切取ったかのようなショットと
解説文が見開きに配された、ル・コルビュジエの仕事、と題された
最終章は、これだけでも、L・Cのデザインエッセンスを把握でき
うる、密度が非常に濃い章である。
本書をひもとくことにより、ル・コルビュジェとはだれか?という
難問に関する、ひとつの明解な答えが見えてくるおすすめの一冊で
ある。
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磯崎新によるコルビュジエ解説といった本。アクロポリスのパルテノン神殿が、コルビュジエ建築の核心に繋がっているとしており、三島由紀夫の「アポロ杯」にも影響している。日本では、1960年代以降からコルビュジエを忘却、あるいはアンチテーゼ的な建築が始まる。建築思想の破壊であり、フランク・ロイド・ライトの建築思想とも関連する。
近代建築の5原則はコルビュジエの本で知っていたが、別途、3原則があり、それは、緑、太陽、空間であり、都市建築における基本的配慮の3大テーマである。その都市の考えるべき構成要素として、はたらく、すむ、いこう、めぐるの4つだそうだ。コルビュジエは、パリにおいて、ニューヨークの都市建築の信奉者であり、アメリカにおいては、ニューヨークの都市建築の批判者であったとの解説が面白かった。
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建築家として著名な磯崎新氏がル・コルビュジエについて執筆したものをまとめたもの。同じ建築家から観たル・コルビュジエの作品への解説は具体性がありわかりやすい視座を提示してくれるが、それ以外の内容も十分に興味深かった。中でもアクロポリスの旅行経験から彼をヴァレリーと並列に語るそれはル・コルビュジエの近代性を明確に位置づけていると同時に、著者もまた彼の作品を経由して古典建築を位置づけていることが浮き彫りになっている。そして、近代と日本の接続の困難さも存在しているということに。
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磯崎新のルコルビュジェに対する愛情がこの本を書かせたように思える。
1960年前後 磯崎新は、写真家二川幸夫と、インドにはじまり、中近東、ヨーロッパ、アメリカとルコルビュジェの建築を見てまわった。
フランスのラトゥーレット修道院を見たとき、「崇高性などを超えた恍惚感にひたった。エロティックだった。これが、私の建築空間の理解の導きとなった」という。
コルビュジェに対して、エロスを感じる磯崎新。
建築を機械というルコルビュジェに対しての、エロスを解き明かそうとする。
それは、30年近い年月を経た今でも、変わることはなかった。
「学ぶということは、消費してつくることです」と磯崎新はいう。
丹下健三は、ルコルビュジェを消費した。その後を追う磯崎新。
建築家は今世紀に至って、大都市に敗北した。蛮勇をふるって大都市に挑戦したルコルビュジェの英雄的行動に対する愛着があった。
大都市(メトロボリス)、理想の未来都市、ユートピア。
海のエロス。
1965年晩夏 ルコルビュジェは、カプマルタンの海辺に死体となって発見された。
「私は空間の人間であり、それは精神的のみならず肉体的にもそうであって、私は飛行機や船が好きだ。私は海や海岸や平原を、山より以上に好きだ」
「建築は光線の中における巨大なフォルムの芸術であり、
建築こそは精神を表現する一つの系である」
ラトゥーレットの僧院は、空間が性的な交接を感知させるもの。
「輝ける都市」「緑と太陽と空間」を組み立てようとして、海に抱かれて死んだルコルビュジェのエロス。
磯崎新のルコルビュジェへの思いは、詩的であり、感傷的でさえもあるが、
建築を人間に例えるならば、エロスもあり、死もあるのだ。
機能主義的な都市の4つの構成要素 はたらく、すむ、いこう、めぐる。
ルコルビュジェを再構成する試みがなされている。
ルコルビュジェの「東方への旅」で
東欧をめぐり、コンスタンチノープルから地中海に出て、ギリシャからローマへと渡っていく。
「おお!光!大理石!モノクローム!ペディメントはすっかり失われてはいるが、それはまぎれもなくパルテノンだ。海を黙視するものの、もう一つの世界の表象。一人の人間をとらえ、万物の上に君臨するもの。願いをかなえ、品格を高めるアクロポリス。想い出すだけで歓喜が身体中に溢れる」とパルテノンとの出会いが、ルコルビュジェを歓喜させる。
磯崎新、三島由紀夫、そして 堀口捨己が、同じようにパルテノンをみる。
その共感が、コルビュジェの思いと繋がる。
「アクロポリスが、私を反逆者にした」というルコルビュジェを
足がかりとして、自分を飛躍させていく磯崎新。
日本建築思想史に堀口捨己を第1世代の代表にしていた理由がここにあったのかもしれない。
コルビュジェと西洋に折り合いをつけようとした精神的な取り組み。
堀口捨己は、パルテノンをみて、「柄にあった身についた道を歩め」と自覚する。
茅葺き屋根を持った郊外の田園的な独立住居。それを評価する。
そこには、建築の非都市的なものを追求する��極があった。
パルテノンの存在自体が、人の人生を変える。
パルテノン=機械=立方体。
エウパリノスの建築の基本的属性 用・美・強。
ウィトルウィウスの基本原理 機能・比例・構造。
シュムメトリアは、建築全体を貫く比例。
ルコルビュジェは、ル・モデュロールで、微妙な寸法を明らかにして、
空間を線と面と色彩の比例だけで構成しようとする。
基準寸法、人体寸法との適合、螺旋状に展開する黄金比。
1963年磯崎は 中山邸を作る。
ルコルビュジェは、中から外を見るという視線を大切にした。
視線というのは、ある意味でいうと、その中に住む人の欲望そのもの。
伝統的に日本の天皇、あるいは支配者は、高殿に登って見晴らしをした。
国見ということが、領土を確認できる行為。
高殿から前庭を見下ろす。縁側から前庭を見る。
視線を外に見る設計は、結構だけど困る。
外は、見えなくていい。見られると困るし、見る必要もない。
日本の建築は、視線を外に向けず、なかに向ける。
プライバシーという厄介な壁にぶち当たった。
再現、変形、崩し、ずらし、拡張、反転、否定、無視。
建築を建築から分離し、建築一般を個別の建造物と仕分ける。
ムンダニウムをめぐって。
カレルタイゲは、ルコルビュジェを「19世紀のブルジョア技術者で、アートパトロンとセンセーショナリズムと一握りの資本家のために働く流行作家に過ぎず、彼が作った建物は自分自身以外誰もすみたいなんて思うまい」と酷評する。
ルコルビュジェの美意識は、古典的基準に基づいて、リズミカルな空間分割、古典的な比例などがエレガントになる。
ハンネスマイヤは、建築における芸術の否定、機能主義の拡張、経済効率優先の実用主義。
ノイエザッハリッヒカイト(新即物性)が、冷徹なまでの合理主義と結合する。
ハンネスマイヤはいう。生活は機能そのものである。だから芸術ではない。
磯崎新のルコルビュジェへの深い愛が感じられて面白かった。
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ル・コルビュジエとはだれか
(和書)2010年03月01日 19:49
2000 王国社 磯崎 新
磯崎新ということで読んでみたけど、ル・コルビュジエの作品や文章を読んでみたくなりました。言説化することが得意という点では磯崎新と共通していて、最近磯崎新に嵌ってしまったのでル・コルビュジエにも嵌りそうです。ただ私は語学が全く出来ないので翻訳した本などがあったら読んでみたい。