紙の本
「活字のエロは不滅。僕はもともと映像や写真じゃそんなに感じないもの」とのたまう著者による、とびっきり官能的で妖しい短編小説集。
2001/08/24 12:54
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投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
沢田研二が光源氏を演じる『源氏物語』のTVドラマ化のとき、久世さんが演出を担当した。そのときに「その青筋が浮いたふくらはぎが美しいから撮らせてほしい」と久世さんがいしだあゆみに請うた…という話を聞いて、私は、そりゃ相当な人だなと思った記憶がある。
久世さんのことは、雑誌「BRUTUS」でエッセイを連載していたときから気になっていた。忘れられた人を艶のある文章で紹介したりしていた。神戸で死んだ夭折の詩人・久坂葉子を知ったのもそのエッセイである。久世さんは、女の名なら「葉子」「お葉」が断然いいとも書いていた。
その「お葉」という名が、本書の最後の作品に使われている。 女を売り買いするだけでなく、買ってきた親元と廓の主の間に面倒が起こらないように気を配ったり、女に男を扱う心得や手管を教え込んだりする女衒の仕事と、性質の悪い客から取り立てを行う始末屋の仕事を兼ねた清蔵という男が、商売物にせずに家に置いてやってもいいと思ったのが「お葉」なのである。
その女がいなくなったあとに、腐敗の始まった大きな桃が残されていた。皿の上に「丸坊主の女の首のように載っていた」という表現にぞくりさせられる。この桃が肺病を病んで死期の迫った清蔵に、さまざまな女の幻影を見させるのである。
全部で8篇が収められているが、ほとんどに桃のイメージやそのものが素材として使われている。品のいい表紙装丁も桃の色のグラデーションや花をモチーフにしている。立ち昇るような官能的な桃の匂いを閉じこめた文体を象徴している。
本文には各篇ごとに中扉が設けられているのだけれど、そこには建石修志の鉛筆による丹念なイラストレーションがあり、リアルなのにシュールなような妖しげな雰囲気をたたえている。内容と装丁が、これほど見事に融合して世界を作り上げている本も珍しいと思った。
最初の「桃色」という掌篇は、わずか3ページしかない。3ページしかないのに、亡くなった父が母でない美しい女に入れ込み、腹上で心臓麻痺を起こし家に運び込まれたときの様子、女がそっと葬式に現われた様子、特異な喪服を身につけた女が暴漢たちに襲われるさまを少年時代の私が恍惚として眺めていた様子がきっちり描かれている。女と少年のその後については、読者の想像にどうぞとばかりに託されている。
「男女の機微というもの、どれだけ分かっているかな」−−久世さんの書く官能小説には、試されてしまう気がする。
このなかでは、震災のどさくさにまぎれ廓を抜け出した遊女ふたりが、お遍路の格好をして片方の故郷をめざす「同行二人」という話が私は好きだ。故郷に帰りたいという小春は梅毒に冒されている。ふたりには、共通の男性の思い出がある。
醜いもの、汚いものも出てくるのだが、修羅場と極楽がひとつのものの異なる位相であるように、すっと推移していくところにはまっていく。
「−−この世は、一人遊びの百面相である」
という記述が、最後の「桃 −−お葉の匂い」にある。遊びと本気の間をわたり歩いてきた達人が書けることだ。
紙の本
噎せ返るような桃の香り
2003/03/02 16:16
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投稿者:亜李子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
A5判の厚さに比べてずっしりとしたこの本の中には、腐る直前の最も熟した桃の香りが篭められている。
題名の通り『桃』を題材にとった短編集なのだが、どれもがどれも、一筋縄ではいかない物語ばかりである。
現代の作家の作品は消費されるばかりで、しっとりとした重みのあるものはない、と思っていたが、久世氏に出会いその考えは払拭された。
久世氏の文章は、そこはかとない官能的な香りが漂ってくる。初めて読んだ氏の作品は『陛下』だったが、それにも同じことを思った。
何の変哲もないような場面の文章なのに、目尻を赤く染めたような妖しさが含まれている。三文小説のそれとは一線を画す文章を綴っているというのに、何気なさでそれになかなか気付かせないのも魅力的だ。
猫のようなしなやかな優雅さが文章で現される奇跡をここで発見した。
脳内にまで侵入してくる桃の香に、狂わされる短編集である。
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頁の間から、爛熟した桃の甘やかで濃密な死臭が漂ってきそうな、官能的な短編集。久世さんは、穢れさえも美へと転化させてしまう。これだから、久世光彦はやめられない。
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『二匹の猫は空中でぶつかる度に激しく咬み合い、翻ってはまた横殴りに爪を走らせた。私は室町の屏風絵のような艶かしい風景をぼんやり眺めていた。何という血腥い長閑な眺めだろう。空の高みに、月は雲間に隠れては現れ、花びらはもどかしいくらいにゆっくりと庭に降り、猫たちは血を噴きながら盛りの春に踊っていた』―『囁きの猫』
久しぶりに久世光彦の文章を読む。堀江敏幸の古い書評を読んだせいである。「本の音」という書評集にも収められている一篇だが、鹿島茂が主催する「ALL REVIEWS」にも登録されていて、少し前に事務局のオススメで取り上げられていたものを再読したのだ。堀江は「久世光彦の小説にはいつも「不穏」の匂いが染み着いている」と記して書評を始める。確かに。ただしそれはどこまでも「昭和の」という枕詞が付く不穏さであるようにも思う。
堀江敏幸とはほぼ同世代なので、久世が手掛けた昭和のテレビ番組は同じ年頃に観てきた筈だ。それはお茶の間で家族が揃ってテレビを観た時代であり、放送の倫理規定も緩やかな時代でもあった。日曜日の夜はドリフターズを観て短い週末(土曜日は半日学校へ行った)の終わりをしみじみ感じていた子供時代。そんなテレビが娯楽の時代に、深夜に大人向けのお色気満載の番組はあったけれど、子供が辛うじて観るか見ないかの時間に毎回堂々と銭湯の女湯のシーンがあり、女性の裸が電波に載るのが話題だった「時間ですよ」。その演出をしていたのが久世光彦であることは随分後になってから知った。某新聞社の書評委員に久世が名を連ねていたのを切っ掛けに読み始めて知ったのだ。
昭和の価値観というものが確かにあるのかと問われると心許ないのだが、少なくとも今とは異なる価値観というものはあの時代にあったように思う。但し自分の言うそれは、もちろん「戦後の」ではある。それは「全員集合」や「時間ですよ」、あるいは「11PM」や「ゲバゲバ90分」に共通するものであり、ひょっとすると「安保」や「学生運動」にも共通するもの。終戦を機に大きく価値観が変化したことの結果がやや反動的に社会へ噴出するエネルギーとなった、なんてまとめて見ることもできるのかも知れない。久世光彦もまたそんな価値観を抱いていた、あるいは価値観らしきものを皆が抱いていることを認識していた人であったのだろうと思う。
これまた昭和を(しつこいようだが「戦後の」昭和を)代表する「寅さん」の決まり台詞の一つに「それを言っちゃあ、お終い(しめえ)よ」というのがある。何でもありの時代のようでありながら、この言葉に無意識の内に共感する気持ちというのが、実は、昭和の価値観なのではないか、そんな風に戦後生まれ(既に「もはや戦後ではない」と経済白書は宣言していたが)の自分は捉えてみる。少し言葉を変えて言うなら「言わずもがなの美意識」ということだ。
別にこの時代に固有の事ではないけれど、時代が変化した後の価値観というのは実は一つ前の世代の人々が担っていることが多い(因みに学生時代までを昭和で過ごした自分ではあるけれど、社会人としての活動のほとんどは「平成」だ。言ってみれば自分の価値観は「昭和」ではなく「平成」のそれと令和の人からは判断される��のなのかも知れない)。例えば明治を代表するような夏目漱石は江戸末期の生まれだし、大正を代表する芥川は明治生まれ。文化や様々な運動において戦後を代表する人々もまた戦前の人々が中心だ。久世は昭和10年の生まれ。父は陸軍少将だったのだから、それこそ戦前の価値観を嫌というほど浴びて育った筈だ。本書には八つの短篇が収められているがその半分はそんな時代の記憶と結びつく自伝的要素も塗された話である。
もちろんどれも「桃」という主題で創作された怪しげな短篇なのだが、それらの話の中にあるのは落し処のないもやもやとした感情の記憶であり、それを桃の持つ質感にすり替えて久世は筆を進める。少々禍々しさもあり今の時代にこの文章を是とする人ばかりではないだろうけれど、価値観の大きな変化を潜り抜けた人の中にある割り切れなさのようなものが滲み出た秀逸な文章だと思う。一方、更に時代を遡った設定で描かれた後半の四つの話では、主人公の女性たちにべったりと何か良からぬものを塗り付けたような物語の展開がある。その要素は前半の四つの話にもあるにはあるが、男性中心の価値観を押し付けられた主人公に今や共鳴する女性はいないだろう。言ってみれば「言わずもがな」で敢えて言わないでいることによって生じた「不定」の間や関係性を、一方的なものの見方で埋めて固定してしまった感がこちらには漂うのだ。平成も10年を過ぎた頃、自らが動かしているという自負が利いていた時代が去った後に書かれたこれらの文章を久世がどのような思いで書いたのか。聞くだけ野暮、という気もするが、滑らかな言葉遣いで自傷行為にも似た妖しさを醸し出すこれらの文章に込めた思いが何もない筈はないとも思う。
堀江は前述の書評の中で、自分が感じた違いのようなものを区別せずに、久世の選んだ「桃」という言葉の持つ妖しさを捉え「生と死の喫水線にあらわれる、まがまがしい性の悦楽と、その悦楽の裏の激しい悔恨」と記すけれど、そして確かに久世の文章にその要素はあるけれど、これまた、それを「言っちゃあ、おしめえ」なんじゃないだろうか、とも思う。それは、そんな風にきれいに言い表せないもの(とはいえ、堀江敏幸はそんな不確なものを言葉によってピン止めするのが上手い人ではある)。無理矢理言葉に落とし込むのなら、それは半分腐ったもやもやとした思いの記憶に対する屈折した郷愁あるいは愛情、とでも言い表せばいいだろうか。そんなものが久世の文章にはあるように感じられてならない。
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むらさきの、囁きの猫、桃----お葉の匂いがとても良かった。友人に読んで欲しいなと思う。
前に挙げた二作は、物語の展開に感動した。珍しい。大抵文章に心動かされることが多いから、今回のは読み終わって、これはずるい!という感じで気持ちを持ってかれた。
囁きの猫がいちばん好き。