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哲学者の中村雄二郎と野家啓一が、往復書簡形式で「歴史」をテーマに語りあっている本です。
野家は、科学哲学と現象学に造詣が深く、また『物語の歴史』(岩波現代文庫)で「物語り」(narrative)という概念を軸にした歴史哲学を構築していることで知られています。本書では、野家が歴史をテーマに中村に問いを投げかけ、中村が野家の問いかけに対するヒントになるような、いくつかの興味深い論点を示すというかたちで、議論が進められています。
野家の歴史哲学に対しては、本書中でも触れられているように、「語りうるもの」のみに依拠して歴史を叙述することは、記憶の抹消という「完全犯罪」に加担することになるのではないかという高橋哲哉からの批判があります。高橋の批判の背景には、アウシュヴィッツという記憶することのできない悲劇を抱え込んだパウル・ツェランやアドルノ、そしてみずからの権利を語ることのできない人びとの存在を教えたガヤトリ・スピヴァクといった、20世紀後半以降の哲学に向けられることになった大きな問いが控えています。また、本書中では触れられていませんが、大橋良介が『聞くこととしての歴史』(名古屋大学出版会)で、存在の歴史からの呼び声に耳を傾けるというハイデガーの後期思想からの示唆を受けつつ、おそらく高橋とは異なる政治的スタンスに立ちながら、同じような問題を野家に対して投げかけています。
野家は、これらの批判を念頭に、みずからの向けられた疑問を中村へと向け変えるかたちで問いかけをおこなっています。これに対する中村の答えは、「ことばには、言うことによってかえって隠す働きもあれば、言わないことによってかえって表す働きもある」というものです。この答えは、これ以上くわしく敷衍されてはいないようですが、野家が「これは私にとってはまさに虚を突かれたような御指摘で、見事に三遊間を抜かれた思いがいたしました」と語っているように、非常に深い知恵が含まれているように思います。
一回分の書簡が短いこともあり、一つひとつのテーマについて十分に掘り下げられていないという不満はありますが、そこから哲学的な思索を広げていくことのできるようなさまざまな論点が示されていて、興味深く読みました。