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〈関係〉の詩学 みんなのレビュー

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高い評価の役に立ったレビュー

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2000/08/18 10:29

亡命と流浪の思考に向けて

投稿者:こばある - この投稿者のレビュー一覧を見る

 世界中の端末がインターネットによって接続され、ありとあらゆる情報が、国境を超えてまたたく間に飛び交うようになった。一方でグローバル・スタンダードの名の下に、世界の隅々にまで市場経済化の波が押し寄せている。こうした情報テクノロジーの発達と経済のグローバル化によって、あたかも世界は、単一の構成原理へと統合・収束され、均質で一様なものへと変貌をとげつつあるかのように観念されている。
 そうした中で「世界市民」と称されるような、国家や民族間の矛盾や葛藤を超越し、すべてが共約可能なひとつの普遍的原理に個々人が統合されていく夢が語られたりすることもある。しかし、世界大に拡大した共同体を無邪気に夢想するこうした思考も、結局は国民国家を構成単位として構想された近代の世界観が、かたちを変えて繰り返されているに過ぎない。それは、《その運動が凝固し諸ネーションがみずからを確立した場所であり、いずれそれが地球上の全体に反響》することとなった西欧起源の世界観の延長上にあるものでしかなく、《この凝固、この言表、この拡張が、根という観念に、少しづつあの不寛容の意味をおびさせ》ることになるのに変わりはない。それは、ひとつの全体主義を結晶させるものでしかない。全体主義に抗するのは、それとは異なるもうひとつの根を指し示すことではない。根づくことから絶えず迂回すること、一般化・普遍化する原理への帰属を断念することのうちにある。
 問題は、単一の根によって自己のアイデンティティを希求する、その思考の形式にある。本書の著者グリッサンは、亡命と流浪の思考によって、《根の喪失がアイデンティティをもたらしうる》ことを示し、すべての同一性が<他>との関係に開かれてゆく、そうしたヴィジョンへと私たちを導き入れる。
 実際、世界は無数の世界像にあふれている。国民国家や市場経済といった普遍化原理が、その領土を拡大し、その境界線を再定義していく毎に、そうした秩序や統合原理に同化し得ない無数の亡命者や流浪者を生み出している。ちょうど、カリブ海域に近代の植民地主義が強いた過酷な条件の中から、普遍言語や国家言語に決して回収されることのないクレオール語が立ち上がってきたように。世界はひとつの原理に向かって収斂していくどころか、定住を拒み、国民国家の枠組みにおさまることのできない者たちのエネルギーによって、多様な方向へと絶えず変形・更新・拡散を繰り返していると言ってもいい。
 世界は、さまざまに生きられ解釈され想像/創造されるもの。私たちに求められているのは、そうした多様な世界像をたったひとつの原理によって括り上げていくことではなく、それらが時には共鳴し合い、時には対立・葛藤するものであることを前提としながら、互いの対話と理解を導くための補助線を縦横に張りめぐらしていくことではないだろうか。
 訳者の鋭敏な言葉をそのまま借りれば、グリッサンがここに示した詩学は、《まさに山から野へ、町から都会へ、島から海のむこうへ、首都へ、さらにはさまざまな首都たちとさまざまな周縁へと、投射と帰還、再出発と迂回にみちた果てしない流浪を続けながら、ついには単純に、ありのままに、「世界」と呼ぶしかない地球大の想像力の空間をさしめすところ》に到達している。そしてそうした著者の言葉に謙虚に耳を傾けてみて欲しい。《世界のどんなに小さな場所をとっても、そこには世界の他のすべての場所が響いている。世界のすべての言語には、そのままで世界の他のすべての言語が響いている。中継がわれわれの仕事であり、無数の同時多発的中継により網状組織が編まれてゆく。編み上げられ絶えず変容しつつある<世界というカオス>の<すべて>に、われわれはつねにあらかじめ関わっている》という自覚をみずからの中に生み出していくために。

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低い評価の役に立ったレビュー

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2000/07/18 09:15

こことよそ、あるいは《世界の響き》を聞き取るフォークナーの後継者

投稿者:服部滋 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 本書について語ろうとすれば、この10倍のスペースがあっても足りないだろう。だから、ここでは一つのことを語ろうと思う。「こことよそ」。

 「〈関係〉の詩学」とはなにか。まずは、訳者による簡にして要を得た解説に耳を傾けてみよう。

「グリッサンがここで構想しているのは、いわば『結び語り』の詩学、世界を編み上げる同時代的な関係性と報告すべき歴史的意識という二重の焦点をもつ詩学」である。詩学とは「世界の把握の仕方であり、さらには言語の新たな使用法の開発による世界の変形への意志なのだ」。

 ここには、世界とはテクストでありテクスチュアであるという、バルト以降のテクスト理論がエコーしている。外部に開かれ、可変的でハイブリッド(異種混淆的)でサブヴァーシヴ(転倒/破壊的)なテクスト。そうした《世界の響き(エコ=モンド)》を聞き取ること(以下、グリッサンからの引用は《》で示す)。

 《ウィリアム・フォークナーの小説、ボブ・マーリーの歌、ベンワ・マンデルブロの理論は、いずれも〈世界の響き〉だ。ウィフレド・ラムの絵画(合流による)やロベルト・マッタの絵画(引き裂きによる)、シカゴの建築、リオ・デ・ジャネイロやカラカスのバリオ〔スラム〕の混乱、エズラ・パウンドの『カントス』、それにソウェトの小学生たちの行進も、すべて〈世界の響き〉だ。》そして『フィネガンズ・ウェイク』もアルトーの言葉も。

 そうした響きを結び=中継し、語り=報告すること。どこへ?《つねに至高の〈ここ〉を称揚することにゆきつく、多様なる〈よそ〉へとむかって。》「クレオール化」とは、たんにハイブリッドであるのみならず《ここにいると同時によそにいること、根づいていると同時に開かれていること》だ。

 「カリブ海におけるフォークナーの後継者」グリッサンはこう記す。
 フォークナーの作品で《問題となるのはある明白な場所、つまりアメリカ合衆国南部のさまざまな根を探究することだ。けれどもこの根はリゾームの様相を呈し、確かなことは何もいえず、関係は悲劇的だ。源泉をめぐるいざこざ、聖なる謎、しかしいまでは口に出して語ることのできない根づきの謎が、フォークナーの宇宙を、現代の〈関係〉の詩学の、鋭敏な一例としている。》

 グリッサンは続けて《そんな宇宙が周囲にもさらに拡がらなかったことを、残念に思ったことがあった。つまりカリブ海域や、ラテン・アメリカ諸国に》と書いているが、なに、残念に思うことはない。「アメリカ合衆国南部」を「紀州」に置き換えれば、ここ、日本にそのエコーを確かに聞き取ることができるではないか?
 《よそで起きたことは、ただちに、ここに響く。》

(注記:クレオールについては、西成彦『クレオール事始』紀伊國屋書店、1999を参照されたい)  (服部滋/編集者 2000.7.11)

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紙の本

亡命と流浪の思考に向けて

2000/08/18 10:29

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投稿者:こばある - この投稿者のレビュー一覧を見る

 世界中の端末がインターネットによって接続され、ありとあらゆる情報が、国境を超えてまたたく間に飛び交うようになった。一方でグローバル・スタンダードの名の下に、世界の隅々にまで市場経済化の波が押し寄せている。こうした情報テクノロジーの発達と経済のグローバル化によって、あたかも世界は、単一の構成原理へと統合・収束され、均質で一様なものへと変貌をとげつつあるかのように観念されている。
 そうした中で「世界市民」と称されるような、国家や民族間の矛盾や葛藤を超越し、すべてが共約可能なひとつの普遍的原理に個々人が統合されていく夢が語られたりすることもある。しかし、世界大に拡大した共同体を無邪気に夢想するこうした思考も、結局は国民国家を構成単位として構想された近代の世界観が、かたちを変えて繰り返されているに過ぎない。それは、《その運動が凝固し諸ネーションがみずからを確立した場所であり、いずれそれが地球上の全体に反響》することとなった西欧起源の世界観の延長上にあるものでしかなく、《この凝固、この言表、この拡張が、根という観念に、少しづつあの不寛容の意味をおびさせ》ることになるのに変わりはない。それは、ひとつの全体主義を結晶させるものでしかない。全体主義に抗するのは、それとは異なるもうひとつの根を指し示すことではない。根づくことから絶えず迂回すること、一般化・普遍化する原理への帰属を断念することのうちにある。
 問題は、単一の根によって自己のアイデンティティを希求する、その思考の形式にある。本書の著者グリッサンは、亡命と流浪の思考によって、《根の喪失がアイデンティティをもたらしうる》ことを示し、すべての同一性が<他>との関係に開かれてゆく、そうしたヴィジョンへと私たちを導き入れる。
 実際、世界は無数の世界像にあふれている。国民国家や市場経済といった普遍化原理が、その領土を拡大し、その境界線を再定義していく毎に、そうした秩序や統合原理に同化し得ない無数の亡命者や流浪者を生み出している。ちょうど、カリブ海域に近代の植民地主義が強いた過酷な条件の中から、普遍言語や国家言語に決して回収されることのないクレオール語が立ち上がってきたように。世界はひとつの原理に向かって収斂していくどころか、定住を拒み、国民国家の枠組みにおさまることのできない者たちのエネルギーによって、多様な方向へと絶えず変形・更新・拡散を繰り返していると言ってもいい。
 世界は、さまざまに生きられ解釈され想像/創造されるもの。私たちに求められているのは、そうした多様な世界像をたったひとつの原理によって括り上げていくことではなく、それらが時には共鳴し合い、時には対立・葛藤するものであることを前提としながら、互いの対話と理解を導くための補助線を縦横に張りめぐらしていくことではないだろうか。
 訳者の鋭敏な言葉をそのまま借りれば、グリッサンがここに示した詩学は、《まさに山から野へ、町から都会へ、島から海のむこうへ、首都へ、さらにはさまざまな首都たちとさまざまな周縁へと、投射と帰還、再出発と迂回にみちた果てしない流浪を続けながら、ついには単純に、ありのままに、「世界」と呼ぶしかない地球大の想像力の空間をさしめすところ》に到達している。そしてそうした著者の言葉に謙虚に耳を傾けてみて欲しい。《世界のどんなに小さな場所をとっても、そこには世界の他のすべての場所が響いている。世界のすべての言語には、そのままで世界の他のすべての言語が響いている。中継がわれわれの仕事であり、無数の同時多発的中継により網状組織が編まれてゆく。編み上げられ絶えず変容しつつある<世界というカオス>の<すべて>に、われわれはつねにあらかじめ関わっている》という自覚をみずからの中に生み出していくために。

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こことよそ、あるいは《世界の響き》を聞き取るフォークナーの後継者

2000/07/18 09:15

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投稿者:服部滋 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 本書について語ろうとすれば、この10倍のスペースがあっても足りないだろう。だから、ここでは一つのことを語ろうと思う。「こことよそ」。

 「〈関係〉の詩学」とはなにか。まずは、訳者による簡にして要を得た解説に耳を傾けてみよう。

「グリッサンがここで構想しているのは、いわば『結び語り』の詩学、世界を編み上げる同時代的な関係性と報告すべき歴史的意識という二重の焦点をもつ詩学」である。詩学とは「世界の把握の仕方であり、さらには言語の新たな使用法の開発による世界の変形への意志なのだ」。

 ここには、世界とはテクストでありテクスチュアであるという、バルト以降のテクスト理論がエコーしている。外部に開かれ、可変的でハイブリッド(異種混淆的)でサブヴァーシヴ(転倒/破壊的)なテクスト。そうした《世界の響き(エコ=モンド)》を聞き取ること(以下、グリッサンからの引用は《》で示す)。

 《ウィリアム・フォークナーの小説、ボブ・マーリーの歌、ベンワ・マンデルブロの理論は、いずれも〈世界の響き〉だ。ウィフレド・ラムの絵画(合流による)やロベルト・マッタの絵画(引き裂きによる)、シカゴの建築、リオ・デ・ジャネイロやカラカスのバリオ〔スラム〕の混乱、エズラ・パウンドの『カントス』、それにソウェトの小学生たちの行進も、すべて〈世界の響き〉だ。》そして『フィネガンズ・ウェイク』もアルトーの言葉も。

 そうした響きを結び=中継し、語り=報告すること。どこへ?《つねに至高の〈ここ〉を称揚することにゆきつく、多様なる〈よそ〉へとむかって。》「クレオール化」とは、たんにハイブリッドであるのみならず《ここにいると同時によそにいること、根づいていると同時に開かれていること》だ。

 「カリブ海におけるフォークナーの後継者」グリッサンはこう記す。
 フォークナーの作品で《問題となるのはある明白な場所、つまりアメリカ合衆国南部のさまざまな根を探究することだ。けれどもこの根はリゾームの様相を呈し、確かなことは何もいえず、関係は悲劇的だ。源泉をめぐるいざこざ、聖なる謎、しかしいまでは口に出して語ることのできない根づきの謎が、フォークナーの宇宙を、現代の〈関係〉の詩学の、鋭敏な一例としている。》

 グリッサンは続けて《そんな宇宙が周囲にもさらに拡がらなかったことを、残念に思ったことがあった。つまりカリブ海域や、ラテン・アメリカ諸国に》と書いているが、なに、残念に思うことはない。「アメリカ合衆国南部」を「紀州」に置き換えれば、ここ、日本にそのエコーを確かに聞き取ることができるではないか?
 《よそで起きたことは、ただちに、ここに響く。》

(注記:クレオールについては、西成彦『クレオール事始』紀伊國屋書店、1999を参照されたい)  (服部滋/編集者 2000.7.11)

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