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“カルチャーとクラッブド”より抜粋。
家を離れ、古代のウィルダネスへ探索に出発する。
だがそこは、危険で恐怖に満ち、獣や敵でいっぱいの場所だ。このような形で他者と出会うには、内面的にも、外面的にも、安心感と安全性を投げ捨てて寒さと空腹を受け入れ、何でもためらわず食べることを要求される。二度と家に戻れないかもしれない。孤独が食パンだ。
自分の骨が、いつの日か、どこかの川岸の泥の中から出てくるかもしれない。だが、この探検には、自由、心の広がり、開放感がある。
すべてから解き放たれる。拘束もない。しばらくは狂気でもいい。タブーなどぶち壊し、罪の一歩手前だ。しかし、それが謙虚さを教えてくれる。
出かける-食を断って-ひとり歌い名がら-種の垣根を越えて生き物と語り合い-祈りながら-感謝をささげながら-帰ってくる。
これほど美しく、トレイルを歩く以外の目的で、山に入るものの心を代弁する文章に出会ったことはありません。
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思っていたほど難解ではなく、けっこうすらすらと読めた。もちろん、そう感じさせられるのは訳者の力に負うところ大であろう。
下段の訳注は、いちいち頁を繰らなくて済んだのがよかった。こういう些細なことも、本文通読を容易ならしめる大きな要素と思う。
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野生、ではなく野性。
意識をして使い分けている人あんまりいないような気もするが、野生はそのまま「自然に山野で育つこと」であり、野性は「自然のままの本能的な性質。洗練されていない粗野な性質」。
つまり本書は、野生の獣のように社会の決まり事を破壊して生きよ、という話ではなく、今ふうに言えば持続可能、自己破壊的な羊の群れ(資本主義の暴走、右に倣えの記号的消費社会の突進)とならないように、一人ひとりが自分の中に野性を飼い、「動物としての人間」の性質を意識的に忘れないように生きよ、ということを主張している、ように読めた。
ユヴァク・ノア・ハラリは人間が大繁栄した理由、つまり人間にあって他の生き物になかった特性として、ナラティブ、物語、道徳規範としての宗教や、社会の流動性を高めイノベーションを加速するための資本・貨幣という、いわゆる“共同幻想”を持つことができたことだと言ったが、「野性の実践」では、そうした人工的な社会の枠組み(共同幻想)のなかで正気を、バランスを保つために、ナマの自然と接点を持ち、動物としての自分を生かしておけ、とミクロな視点の実践を勧める。
たとえば、なんとなく「オフグリッド」って、「野性的」なのかなと思う。もちろん、自然エネルギーを使用可能電気エネルギーに変換する装置は人工物だけれど、人工的なつながれた網、ネットワークに依存するのでなく、ナマの自然から直接エネルギーを取り出す部分に自分で責任を持つ、という意味で。
すべてでなくてもいいが、自然から価値を切り出す接点、その現場に関われば、なんらか意識の変容が起きるはずだから。
社会的な存在としての人間、野性的な動物としての人間。あるいは都会と里山(人里と“野生”の境界)、後者に手を伸ばせば二本足で立つことができ、一方の社会的な存在としても自由になれる。どちらかにとらわれてしまうと、行き詰まる。
だからこそ、実際に人は山に歩き、瞑想し、動植物を育ててバランスをとっている。その体験から得るものの解像度は人それぞれだけれども。
色々併読しながら、足かけ2年くらいかけてじっくり読んだ。
ゲーリー・スナイダーの著作を読むと、おこがましいけれど、なんとなおぼろげにつかんでいた真理のようなものの理解を補強してもらったような、再確認したような、背中を押してもらったような、そんな気分になる。こうした一見当たり前、普遍的なことをであればあるほど、ちゃんと商業ベースでテキストにして残すということは難しいと思う。山と渓谷社は本当に偉大。
自分なりの野性の発見と実践を続け、表面の人工社会でなんらか利他の営為を、胸を張れるなにかをひとつ形にして、裏面の野生の中に紛れて人知れず死んでいけたら本望であるな、とずっと思っている。
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「昔ながらのやり方」で生きている社会は、素晴らしい技術をいくつかもっている。採集狩猟によって生活している人々――本来の植物学者・動物学者――にとって、ジャングルは豊かな供給源である。繊維、毒、薬、酒、麻薬、解毒剤、容器、防水剤、食物、染料、膠、香料、娯楽、仲間、霊感、それに刺し傷、かみ傷。こうした原初の社会は、人間の歴において、ちょうど原生林にあてはまり、同様の深みと多様性(それと同時に「古代性」かつ「処女性」)をもっている。野生の自然の伝承は人間の定住文化の広がりとともに、失われつつある。文化は、それぞれ、腐植土のように肥沃な習慣や、神話や、伝承をもっているが、それもいまや急速に失われている――これは我々すべてにとって悲劇だ。
p.260
伝統的な芸術や工芸の世界では、どの分野でも、見習い修行の習慣があった。一四歳ほどの年頃になると、男の子と女の子も、陶工、大工、織物職人、染物屋、薬師、鍛冶屋、調理職人などのもとへ、丁稚奉公に出された。若者たちは、家を離れ、仕事場の裏部屋で寝泊まりし、ひとつの仕事だけを与えられた。たとえば三年間、土をこね続けるとか、また、大工見習いだったら三年間、ノミをとぎ続けるのだ。これは、しばしば辛い仕事である。丁稚見習いは、師匠の個人的なくせやひどい意地悪に対して辛抱し、文句を言ってはならない。ただそこには、師匠に辛抱強さや意志の強さをずっと試されている、という自覚はある。だから、丁稚も、家に帰ろうなどと思わず、そのまま受け入れ、さらに自分を深め、他へ気持ちをそらせない。見習い中の身には、ただこの一本道しかないのだ。そして、次第に、無駄のない身のこなし、手本となる技、さらには代々の秘伝へと導かれてゆく。そして、そのとき、「仕事と一体になる」こともまた体験しはじめるのだ。弟子は、仕事の技術を学ぶだけでなく、何か師匠のもつ力量、マナ――普通の意味での理解や技をも超えた力――を吸収しようと考える。
p.266
我々が本当に知っているのはモモやアンズの風味は、世代から世代へ、時を経ても失われることはない。机上の学問では、この風味は伝わらない」ということ――いまだにこれだけだ。これ以外はすべてうわさである。自分の置かれた環境について習熟した住人には、力、自由、持続力、そして誇りが備わっている。自分が何を知っているか分かっているからだ。知ることには2種類あがる。
その一つは、現実の状況の中で、自分の位置、基礎をはっきり知ることである。北と南の判別、モミとマツの区別、どの方向に新月が見えるか、水がどこから来るか、生ごみはどこへ行くか、握手の仕方、ナイフのとぎ方、利率の変動する仕組み。こうした誰でも知っている知識そのものが、人間の生活を豊かにし、また絶滅の恐れのある種を保護することになる。これは文化を復活することで得られる知識であり、再居住と同じで、すたれて半ば忘れ去られた地域に戻って住み、木々を植えてなおし、セメントで固めた水路をこわして自然の姿に戻し、アスファルト舗装を砕いて元通りにすることだ。誰かが言うかもしれない。もしも「文化」がすっかりなくなっていたとしたら? しかし、文化はいつでもある。いつでも(どこにでも)場所と言葉があるようなものだ。文化は家庭にあり、共同体にある。文化は輝き出すのは、誰かといっしょに何か本物の仕事を始めたり、あるいは遊びをしたり、話をしたり、変わったことをしたり、また、誰かが病気になったり、死んだり、赤ん坊が生まれたり、さらには感謝祭のようなもの人の集まりがあるときだ。文化は、隣��所や共同体の一つの連絡網であり、土地にしっかり根づき、育てられたものだ。それには、限界もあり日常的なものだ。「あの女性はとても教養がある(Cultured)」というのは、彼女がエリートだということではなくて、「肥沃な(Fartirized)」という意味により近い。
別の種類の知識は、戸外へ踏み出ることによって得られる。ソローは、クラブアップルについて、こう書いている。「我々の野生リンゴは、たぶん私そっくりの野生だ。多分ここに自生した種類に属さず、栽培植物の群れから離れて森の中へ踏みこんだのだから」。ジョン・ミューアは、この考え方を受け継いだ。ミューアは『野生の羊毛』の中で、友人の農夫が語った「文化は庭園のリンゴだ。自然はクラブアップルだ」という言葉を引用している(野生に戻ることは、酸っぱく、ピリッとした、ごつごつしたものになることだ。施肥も、剪定もされず、固くて、弾力があり、春になれば、いつも「驚くほど」に美しい花を咲かせる。実際、現代人はみんな飼育動物だが、森の中へ踏みこみ帰ってゆくことはできる。
家を離れ、古代のウィルダネスへ探検に出発する。だがそこは、危険で、恐怖に満ち、獣や敵でいっぱい場所だ。このような形で他者と出会うには、内面的にも外面的にも、安心感と安全性を投げ捨てて寒さと空腹を受け入れ、何でもためらわず食べることが要求される。二度と家に戻れないかもしれない。孤独な食パンだ。自分の骨が、いつの日か、どこかの川岸の泥の中から出てくるかもしれない。だが、この探検には、自由、心の広がり、解放感がある。すべてから解き放たれる。拘束もない。しばらく狂気でもいい。タブーなどぶち壊し、罪の一歩手前だ。しかし、それが謙虚さを教えてくれる。出かける――食を断って――ひとり歌いながら――種の垣根をこえて生物と語りあい――祈りながら――感謝をささげながら――帰ってくる。
p.325-327