紙の本
「まとまりはないが調和がある社会」を目指して
2002/12/10 13:04
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Helena - この投稿者のレビュー一覧を見る
姉妹編の『民族という名の宗教−−人をまとめる原理・排除する原理』(岩波新書、1992年)と合わせて読んでほしい。
どちらも、昔読んだ本だったけれど、特に、権威というものと権力というものに関心があって、また、読み返した。
権威は自発的にいうことを聞くこと、権力は無理にいうことをきかせること。おおまかにはこう押さえておけばOK。でもって、自発的だから権威はOKなのかというと、そうではない。
理想的な社会は、権力も権威もない、「まとまりはないが調和がある社会」。そのためには、私達一人ひとりが、権威を感じないようにすることが大事。
そもそも権威とは、自分自身の判断や決定を放棄すること。つまり、権威を感じ、いうことをきく人間は、依存者の心理を持っている。そうではなく、本当の意味で自立・自律した個が構成する社会は、権力も権威もない、「まとまりはないが調和がある社会」、ということである。
私の中にも、権威主義的な部分ってあると思う。が、それを自覚しているだけでも大事なことではないかと思う。
それから、権威と権力について、組織論との関わりで述べているところは面白かった。
組織には目的も理想もない。そして、組織は権威も権力も持たないということ。全員がそれだけ自立していて、どんな権威にも支配されない、そういう構成員である組織づくりが大切ということ。組織があっての自分ではなく、まず、自分があるということ。
私の周りでも、権力が「発動」しているような組織があると思う。そして、それが、少数者の側の組織である場合、なだが指摘するように、団結が強調され、そのために、権力的な性格が強くなっていってしまうことが、リアルにイメージできる。
ただ、自分は、どんな権威や権力にも支配されない内面を持って、組織に関わっていきたいと改めて思う。自立・自律した個として。「まとまり」を求めるのではなく、自立・自律した個の「調和」がある社会。
今、私は、「まとまり」を求められ、同一の課題を科せられるという渦中にいるのだが、どんなに「善」なことであっても、そのこと自体に、耐えられなくなっている。そうではなくて、一人ひとり、個性的に活動していくことが肯定的に捉えられる組織・社会を考えていきたいと思っている。
「まとまりはないが調和がある社会」を目指して。
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わかりやすい!読みやすい!
これくらいの重さは中学生とかで少し考え始めたころとかに読んだら、きっと考えることが楽しくなると思う。
権威と権力。英雄。先生も医者も昔も今も変わっていない。だめなまんま。変わったのは周りが変わったんだ。
現代社会は判断できるような能力をつけてきたが故の弊害で悩んでいるのだろうか?
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人生の節々で迷ったときに読む、まさに私にとってのバイブル。
「なんでこんな世の中になつてるんだろう?」という思いが浮かんだら、一読をおススメします。
対話形式なので、最初は戸惑うかもしれませんが、難しいことを平易に語ろうと努力した結果だと思います。
自分の中の権力志向とか、権威主義とかに気付きました。
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■政府の権威は薄まりつつある。広告が利かない。テレビの権威も薄まってきた。
国家権力としての検察の力。ここまで出来るのか、と思っている人が大半だろう。
■なだいなだが描いた精神科医と高校生と対話『権威と権力』は
1974年初版の書籍だが、いまも輝いている。いまこそ、権威と権力の秘密を
僕らが熟知して、どう構えるべきかを考えるべきだ。
■民際学を考える上でも、たいへん刺激的、かつ参考になる。
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○「権力は組織に属する人間に、組織のしくみに沿って働く。
しかし、権威は、その外側にも働く」(P36)
○「個人的な権威の場合には、権威を持った者と、それを感じるものが
直接に触れあっていた。地位の権威の場合には、二つのあいだに権力が
割りこんで来て、権威を遠ざける。権力は常に背中に背負った形をとる」(P46)
■国家という権力機構が、人と人との関係で形成されていた権威を遠ざけ、
自発的に、内在的に発生する権威の畏怖をかすめさせた。
○「権威とは、命令とか服従とか、信じるとか信じないとかの、
そういう人間関係を支えているなにかなのだね」(P53)
○「《いうことをきく》のは、《いうことをきかされる》のではないんです。
《いうことをきかせる》というのは、《いうことをきかない》連中に、
《いうことをきかせる》のです」(P58)
○「《いうことをきく》のは権威によるので、《いうことをきかせる》のは、
権力だということになるかな」(P58)
○「権威も権力も、いうことをきき、きかせる原理に関係している。権威は、
ぼくたちに、自発的にいうことをきかせる。しかし、権力は、無理に
いうことをきかせる。そして、今のぼくたちの社会は、少し、それが
くずれかけてはいるけれど、この権力と権威が二重うつしの一つのイメージを
作っていて、それがぼくたちにいうことをきかせ、まとまりを作らせている」(P62)
○「権威とは・・・権威を感じるものの内部にあるものが投射されたものだ」(P68)
【反抗期の構造:子供と大人の関係】
○「子供と大人の人間関係が出発点です。力のないものと、あるもの、
知識のないものと、あるもの、依存するものと、されるもの、
そうした関係がはじまりです」(P69)
○「依存的な人間関係が出発点にあって、その影が次第に薄れて行くことで、
次第に対等な人間関係に近づく」(P69)
■子育ても、OJTもこれが基本だ。近づくにつれて、大人の扱いをしないと、
反抗期になる。この時期のコミュニケーションって大事だね。
○「権威を持っていたものが、それを失ったのではなく、権威を感じていたものの
成長がそれを感じさせなくなったということ」(P73)
■これは納得!!自分の経験からしても、そうだった。
○「今の社会の権威もそれを持っていたものが失ったのでなく、
人民が支配者と本質的に変わらないという自覚を持つように
なった必然的な結果」(P73)
○「権威には内部的な不安が、権力には外側からの恐怖が対応する」(P80)
○「自分と同じような人間に判断されたくないのだね。自分たちを越えた
ところにある権威の判断でなければならないわけだ。だから権威というものは、
常に最高のものを指向する」(P106)
○「いちばんいい選択の手段は、人の意見をきくよりは、自分で飲んでみて
自分の好みにあうかあわないか、自分でためすことだ。それで判断を
下したらいい。ところが、その自信がないから、他人の、しかも自分より
たしかだと思う人の判断を求めるのだね」(P116)
○「どんな判断も絶対的なものではないという条件で、判断すればいいのだよ。
だが、絶対的な判断を求めてしまうから、ぼくたちは権威主義的になる。
広告なんてものを、絶対的な判断の根拠にしないで、単なる目安と考えて
おけばいいのさ」(P118)
○「自分と同等の人間の判断だと思ったら、信じられない。自分より上の、
自分の能力を越えた人間の判断だというように信じたい。そこで、そう
思わせるものが持ち込まれる」(P121)
○権威に頼る人たちのことに触れた上で・・・
「自分の目でたしかめるということを忘れ、直接に現実にふれようと
しなくなることの結果のもつ、こわさですね。
そうだよ。ベルクソン6の影響を強くうけたミンコウスキーは、人間が
妄想を持つようになるのは、人間が《生きた現実との接触を失う》からだ
ということを発見した。ぼくたちが、現実に触れずに権威によってものを
判断しようとする時、妄想的になっていくことはたしかだね」(P127)
○権威の発生:
「無知であると、強制的に認識することで、知っているものの権威を
認めさせようとするのです」(P140)
→「この論理はね、また、自分の権威を認めさせようと思う権威主義者たちが
いつも用いる手段でもあるんだ」(P140)
○「もう1つの点を見つけて、三角形を作ることだね。三角形を作れば距離が
はかれる。これならば、自分が無知のままでも、一つの権威だけに
従うことはない」(P146)
○「脅迫は物理的な力で、��まり暴力で相手を従わせるのだし、
命令は権力という機構の力で従わせることです」(P152)
○「自我の確立というのは、他者と対等の自分を意識することです」(P168)
■こどもの自我は、親と対等である自分を意識することなのか?
○「今の専制に対する民衆の怒りが、いつの間にか、未来の理想社会の中に
救いを求めさせた。つまり、すりかえられたといってもいい。むしろ、
革命を考える時、革命理想よりも、民衆の専制に対する抵抗の方に、
目を向けるべきではないのか」(P194)
○「民衆をかりたてたのは、革命の情熱じゃなくて、現実に対する抵抗なのだ。
ただ、その抵抗の無目的な性格が、とかく、ぼくたちをばらばらにさせる」(P210)
■現代日本の政権交代の構造もこの視点で説明できる。民主党のマニフェストではなく、
反自民党政治だったということ。
○「権力を否定するのなら、非権力主義者あるいは反権力主義者にならねばならない。
権力を奪おうとするのは、すでに権力支配を認めることになる。権力を奪取しよう
とする人間も、さけがたく権力主義者にならざるをえないのだ。そこに革命が
永久に繰り返されねばならない出発点があるんじゃないか」(P195)
○「非暴力の抵抗は、ただ自分が、どれだけ、権威にも権力にも屈しないかを、
たしかめようとするだけのことです。権威なき世界、権力による支配なき世界を
理想としていますが、そうした世界を自分たちが作ろうとするのではありません。
その理想は、自分のものじゃない。はるかなところにあるのです」(P221)
○「権威という、人間が他の人間に、自発的にいうことをきかせるものが力を失い
権力がその埋め合わせをして、力で人間をまとめようとしている時代だからね」(P224)
○「防衛の意識によって、権力支配は、いつも正当化される」(P225)
○「とかく、もとの岸へもどりたくなるのさ。人間が持つユートピアというものは、
はるかなところにあるから、そこにたどりつこうとするよりも、もと来た方向に
ひきかえすことの方が、現実的に見える」(P238)
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[ 内容 ]
権威とか権力といわれると、われわれは国家とか裁判所とかを連想しがちだが、これらはそうした巨大な機構にのみ関わるものだろうか。
人間の在るところいつもつきまとい、われわれの生活を根元から規定している権威と権力。
著者は、日常身近な諸事象の分析からその正体をつきとめ、自律的人間の条件とは何かを問おうとする。
[ 目次 ]
[ POP ]
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☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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http://ex-libris-digital-native.blogspot.com/2011/11/blog-post.html
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「権威」や「権力」という後ろ盾によっていうことをきかせようとしたり、また、いうことをきいてしまうニンゲンの心理を、精神科医でもある著者が全篇会話形式でつづった本です。
権威・権力による集団の「まとまり(結束)」よりも、それらに影響されないヒトたちによる、まとまることは難いけれども「調和」のとれた集団であるべきだという筆者の意見は、私の日ごろからの考えに近く、共感します。
折しも、わが国の総理大臣が2代続けてシゴトを投げ出し、その「権力」を巡った周辺の右往左往ぶりで、「国政」という「権力」が完全に「権威」を失いつつある時期だけに、なかなかオモシロく読めました。
全篇会話形式というのも、私のような読書初心者には読みやすかったです。
テーマが大きすぎて、さいごは尻切れトンボ気味だったけど。
要は、「肩書きに惑わされんな」ってこと。
http://blueskyblog.blog3.fc2.com/blog-entry-1235.html
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20120712 今の各政党は内容を参考にした方がよいのでは。革命や天皇制についても考え方が分かる。できたら若いうちに読んで貰いたい。
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人をまとめる力としての権威と権力の違いについて述べている。対話形式なので、すぐ読める。難しい内容を簡単にするよう筆者が努力したように思えて、このような伝える技術も身につけなきゃなあとしみじみ思った。
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私にとって、対話形式であることがより分かりやすく読み進められるポイントとなりました。実はこの本は、大学一年の時課題図書として他の本と一括購入したものです。当時は『権威と権力』というタイトルだけで”難しい”と決めつけて、おもしろそうな章のみ読んで感想文を書いたのですが、その章が殊の外忘れられずにいて、10年後に読み返したらスラスラと読めました。そしてなにより多くの気づきと視点を与えてくれたと思います。1974年初版ということですが、30年以上たった今でもまた読みたいと思わせてくれる一冊です。
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筆者とある高校生Aの対談形式。話が効率的できれいにまとまっているため実際にあったのではなく創作だろう。初版は1974年。
権威とは強制せずにいうことをきかせるもので規則を必要としない。一方で権力は強制力をもっていうことをきかせるもので規則を必要とする。最近権威が失われて権力がむきだしになっている。権力は権威が二重うつしのイメージになっている。権威が失われたのは権威を感じていたものが成長して権威を持っていたものと対等な関係になってきたからではないか。権威が生まれるのは人が知らないことの判断をそれについて詳しい人にゆだねることから生じる。現実に自分で接して判断すればいい。または知らないものは知らないままでもいい。そうすることで権威を遠ざけられる。
私たちは「まとまりもなくなり、調和も得られないという、宙ぶらりんなところで生きていかなければならない。ユートピアはみちびきの星のようなもの。みつめるべきものでたどりつくべきものではない。
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http://t-tanaka.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html
ある日のことである。一人の高校生が私を訪ねて来た。そして、私に、こんな質問をした。
から始まる高校生と医者のやり取り。
高校生は学校でクラス委員をしているが、みんなまとまりがない。まとめるにはどうしたらいいのか。と医者に相談する。なんで、学校の先生じゃないんだ?ま、いいか。
クラスでまとまりがない状況。ちょっと目線を外に向けた時、まとまりがないのはクラスだけじゃなく、大人の世界だって、社会全体だってそうだという話になる。そして、その原因は
さまざまな点で、これまであった権威が失われたこと、そこに問題があるのではないでしょうか。
という仮説から、権威だの権力だのという話が広がっていく。とーっても面白い。
この本の副題は「いうことを聞かせる原理・きく原理」となっている。
個人が生きていく上での姿勢、そしてそれらが折り重なって出来上がる社会がみえる。
「あー、あの人の言っていたことはこれか」と思うシーンもしばしば。僕自身は権威も権力もあんまり気にしていない人間なんだなぁとか、根本的には権威を感じてほしがる人や権力を振りかざす人間をうさんくさいと思っている自分と、でもたまーにそれを使ってしまいたくなる自分もいて、その理由がわかりました。あーあ、知っちゃった…って感じ。まぁ、そんな程度のことしか思い浮かばない。
この本は1974年初版のもの。40年も前の本。そんなことみじんも感じさせない本。読み終わって、とても重たい気持ちになれるのは、根本的に40年前も今も、社会の構造も人も変わってないんだなぁってことが感じられたから。もっと言えば、人類が集団をつくり営むことが生まれてから、根本は変わっていないんじゃないか…とすら感じられて…。時は流れ、人も変わり、環境も変わり、、、、しかし、それらが変わっているだけで、根本はまったく変わっていないのだな、と。その構造の中で、クルックルックルックルッ、回っているだけなのか?という。それが、いいのか悪いのかもよくわからん。。。
もし、それが世の常なんだとすれば、自分が学校教育で子供たちに何をどう教えていくのがいいのか、とっても複雑で考えさせられる部分がでてくるなぁ。悩む、悩む。
「まとまる」ことと「調和する」ことの違いが、議論が展開されていく中で明らかになってくるんだけど、北星余市で展開されているクラス集団作り、学校集団作りというのは、「調和」なんだな…と思えたな。過程の中で、ときに権力を振りかざして「まとまろう」としているように見える部分があるけれど。
うーん、5年後、また読んでみよう〜。
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一人の高校生の相談から話が始まる。
「ぼくのクラスはまとまりがない。どうしたらまとまるのでしょう」
ここからじゃぁ、なぜまとまりがという状態に陥るのか、という話につながっていき、教師や親の権威がなくなったからだ、となる。権威ならばまだよいが、ルールや規則でしばる権力的な支配もあるという話になる。
以下は気になるフレーズだ。
権力は組織に属する人間に、権威はその外側にも働く。
北大の前身の札幌農学校の初代校長となったクラークは「規則はいらない。規則で教育ができるか。≪紳士たれ≫この一語で充分だ」と言ったらしい。規則で人をしばるのは権力での支配ということになる。個人的な権威の場合には、権威をもった者とそれを感じる者が直接触れ合っていた。地位の権威の場合には、二つの間に権力が割り込んできて、権威を遠ざける。権力は常に権威を背中に背負った形を取る。
権威も権力も、言うことをきき、聞かせる原理に関係している。権威は、ぼくたちに自発的にいうことをきかせる。しかし、権力は無理に言うことをきかせる。
権威は決して権威者の内部では自覚されない。だから権威ある人間としてふるまおうとする人間は権力的になる。
多数の意見は決して常に正しい意見ではない。しかし多数がいつも間にか権威になるのだ。権威をぐらつかせることは、実はそのまわりにある人垣と、たたかうことになる。
権力を否定するのなら、非権力主義者、あるいは反権力主義者にならねばならない。権力を奪おうとするのは、すでに権力支配を認めていることになる。
人間はばらばらのままでは生きられないからこそ、ある程度しか、ばらばらになれない。生きられる限度で必ず調和を見つけねばならなくなる。
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個人的には人間はやっぱり、権力をもってしかまとまらないように思う。ルールは多勢の個体を、少なくとも問題を起こさないように設定されるべきものだからだ。そもそもまとまり得ないと思う。
権力の無い状態でまとまることが、ユートピア的発想といっているが、その通りで現実的にはあり得ないと思う。なぜなら人間は欲望の動物だから、と個人的に思う。
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精神科医の筆者・なだを訪れた高校生・Aはまとまりのないクラスの相談を持ち掛ける。なぜまとまりがないのか、どうすればまとまりが取り戻せるのかについて権威と権力をキーワードに、なだとAが議論を展開する。
ボクは権力や規範などについて扱う教養書を期待していたので、文章がほとんどがなだとAの対話形式である本書を開いた時は面食らった。なぜなら教師と学習者の対話形式を取る本でよく起こる悲劇は学習者が教師の言葉にいささか従順でありすぎるところにあるからであり、この本にも同じ疑いを向けたからだ。しかし、この本がテーマとする権威と権力はメタ的な議論を可能にする装置としてこの問題を見事に回避している故に、この本は優れている。
また、なだの描くAは批判的思考を欠かず終始議論を動かし続けるが、それはロボットのようなストイックさを持たず、また、恣意性を感じる流れもなく、純粋にな知的欲求を持つ活き活きとしたキャラクターとして顕現する。このようにこの本の対話形式はひとつの表現手段として成立し、魅力を感じながら読了できた。
内容の妥当性に関しては正直なんとも言えないし、判断の下しようがない。そもそも「権威」「権力」を定義しようとするときも、広辞苑のような辞書の定義を引くのはなぜか、人間の言葉の後にできた辞書になぜ権威を感じられるのかという問題意識から、フルスクラッチで権威と権力を定義している。こういう議論できたらいーよね。
参考になったし、完成度たけーなと思うので☆5で。
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権威、権力など自分にはそう身近でない言葉だと思いきや、読むと自分がただ盲目なだけだったとわかる。
人が他者に従うとき、その人は何によって従うのか自覚しているだろうか。権威か権力か、それとも理か。
突き詰めると一人の人間がすべての生きた現実に触れることは実質不可能であるから、一定の権威、権力に付き従うことはやむを得ないように思う。何によって従っているのかを自覚することがまず必要なのだ。逆に、何によって従わせようとしているのかについても同様。