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字が小さいのと、漢字が多い上、同じことが繰り返されている気がして途中で読むのを中断。
後半は法然、親鸞の念仏について書かれていて興味を誘うが、もう少し読みやすい本を探してみよう。
自分の日本語能力の低さが悔しい。
【2008年6月12日中断】
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08/12/29、何か今までと違った趣向の本が読んでみたくて、神保町・村山書店の店頭で売られていたのを購入。
戦時中、西洋文化との対峙の中で日本の日本的なるものを剔抉しようと苦闘している様子が、まだ緒言しか読んでいないながらも伝わってくる。少なくともこの著作っていわゆる「日本文化論」の系譜に入るんじゃないのかな?と仏教に疎い自分ながら考えた次第。
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戦前戦後の仏教学の第一人者だった著者の代表作。大学の恩師に著者の思想を紹介されて、興味を持ち読んでみました。
序盤で霊性を「宗教意識」だと定義した著者は、その上で興味深い論を展開していきます。すなわち古代日本に霊性と言えるようなものは存在しなかったこと。それが初めて自覚されたのは鎌倉時代に入ってからであること。その粋は、浄土思想と禅に見出すことができること。などなど。私は本書を読んで浄土思想のとらえ方を180度改めさせられたように感じます。浄土を求めることはつまり現存在の否定であり、そのプロセスを経てさらに自己を超越し「超個己」にならなければ霊性は得られないとする著者。頭でっかちな私はその主張を理屈でしかなぞろうとすることができませんでしたが、親鸞のいう「ただ一人(いちにん)」という言葉になぜか涙が出そうになりながら、ああ、悪人正機とはそういうことだったのか、と、すこし納得できたような気がしました。
そもそも「霊性」とななんなのか。霊性という語は一般にspiritualityの訳語として用いられます。WHO憲章の健康の定義にも含まれるほどに重要視されるこの概念は、どうも私も含めた日本人にはぴんと来ないイメージがあります。しかし、本書を通して著者が伝えるメッセージは、それが、個人が個人を超えたところで得る強烈な体験であることを教えてくれます。最近よく使われる「スピリチュアル」という言葉よりもずっとしっくりとした、馴染みやすいもののように思えるのです。そして本書の最後で紹介される市井の仏道求道者、浅原才市の歌の数々には圧倒されるばかり。彼のいう「あなたのこころがわたしのこころ わしになるのがあなたのこころ」とは、どんな心境なのでしょうか。「ただ一人」という独我論的体験と、彼のいうような自らと世界と仏とが一体となる体験が同居する世界。本書の後半はそれをわずかでも感じることができます。
著者は現代の神道には霊性がまるでないと批判を加え、神道が霊性を持ちうる可能性として鎌倉時代の伊勢神道を挙げています。地に足のついた宗教意識ははたして神道でも実現できるのか。私はその可能性を信じたいところですが、どうでしょうかね。
(2008年9月入手・2009年1月読了)
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日本における霊性(国内で大衆により育成された独自の宗教意識)を持つ宗教として真宗と禅宗を上げ、此の書では真宗を中心的に取り扱う。
浄土宗は善導教学の発見及び享受であるが真宗は善導教学を基盤としたうえで独自の宗教体系を築き上げる。
ここにおいて真宗を日本的霊性を内包する宗教であるとする。
そういった真宗の日本的霊性という点を絞っていく書。
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尖閣・サンデル教授の政治哲学・そしてこの地震ときて、時間があったのでひとまずいろいろ振り返ってみると、ここまで自分の気持ちを揺り動かしているのは人間愛的なものよりも「日本」に対する不気味な執着なんじゃないか、と結論したんで読んでみました。読み辛くて理解は半分にも満たないかもしれないけど、日本元来の神道と中国から渡ってきた仏教、それが鎌倉時代になって日本人の「霊性」として定着した、とする著者の説が、ひたすら繰り返すような形で展開されていた。『禅とはなにか』 同様にいや~に宗教臭いところもなく、単純に知識として頭に入る。今後も信仰に目覚めることは無さそうだけど、自分は無宗教であると断定した場合、付きまとうようにして生じてしまう隙間が少し埋められた気がします。
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やっぱりプロの世界の人でしかなかったようだ
何しろ持論を体系付けたがっているのだから
ただの偉い人でしかない
何も言うことなし
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日本的霊性について。感性、情性、知性、といったものの底であるような霊性について。霊性は徹底的に個のものでありながらそれゆえ超個的であること、大地との結びつきに由来すること、禅宗と浄土宗において日本的霊性が顕現するに至ったことなどを説く。ヌミノーゼとの関連性。インドやシナとの比較文化論が紋切り型で面白い。論理を追えなくても記述がすっきり落ちてしまうのは何でだろう。それだけ基底的なのだろうか。でも読み直す気はしないかも。
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甲は甲ではない、故に甲である―そんな一見論理的に破綻している「即非の論理」をその思想の根本に置く仏教思想についての代表的書物。仏教では西洋哲学の主体たる客観的知識に対してそれはあくまで主観から捉えた一つの認識でしかないという立場をとっており、主客の区別なくものの真実を直観する「般若の智慧」の取得を第一とする。難解な仏教的用語が頻出する上に1944年に執筆されたという時代性についても考慮を払う必要があるが、それでも日本において「宗教的なものとは何か」について考えていく上で避けて通れない本だと思う。
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平安時代は、あまりに人間的であった。鎌倉時代は、霊の自然•大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめたと言ってよい。鎌倉時代になって、日本人は本当に宗教、即ち霊性の生活に目覚めたと言える。
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即非の理論について書かれていた解説の部分を何度も読み返した。
AはAである → AはAでない → それを踏まえた上でAはAである
という理屈は厳密に展開すると…
AはAである → 実は気付かなかったがAにはA´という要素が追加もしくは削除されうる → Aは本当はA+A’or A-A’となっている…´
とAの改造がいつの間にかされている。
個々人がもっている概念を自身の手で改造していくことは、内面の深化につながると思う。
解説の死の捉え方は分かりやすかった。
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ずっと昔に読んだが、意味が分からなかった。
いったい霊性ってなに?
オレ、霊のことなんか考えたこともないし、言わんとするところが把握できない。
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霊性とは宗教意識のこと。「日本の仏教徒には仏教という文化財を世界に伝える義務があると考え」書かれたらしいが、冒頭でいきなり「趣を解せぬものに、いくら説明しても解るものではない」とか言ってる。戦中に書かれたことを考え合わせると、どちらかといえば神道に対する仏教の有利を主張したかったんではないかと思われる。正直なところ、さっぱり解らなかったので、絶対そうだとは言えないけれど。
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キリスト教のは全くの他力である、自他を対立させておいて、その上に他の力のみを打ち立てんとするのである。仏教では、自他の対立は対立であるが、そこに対立を絶したものが動いていることを直覚し(これを霊性的自覚という)、この直覚から、対立の世界を見直すのである。
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日本的霊性につきて
第1篇 鎌倉時代と日本的霊性(情性的生活;日本的霊性の自覚―鎌倉時代)
第2篇 日本的霊性の顕現(日本的霊性の胎動と仏教;霊性;日本的霊性の主体性)
第3篇 法然上人と念仏称名(平家の没落;浄土系思想の様相;念仏と「文盲」;念仏称名)
第4篇 妙好人(赤尾の道宗;浅原才市)
著者:鈴木大拙(1870-1966、金沢市、仏教学)
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日本人に備わっている霊性を解説。
親鸞や浄土系の仏教が日本に根付いた流れがわかる。
かなり難しい内容だったので、理解できない部分多し。だけれど、刺激的でした。