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キリストが身代わりとなった囚人、バラバを主人公とした小説。
場面はゴルゴタから始まる。
バラバは自分の身代わりに磔刑となったキリストの死を眺める。
元々バラバはキリストと面識があったわけではない。それでも自分の身代わりになった男のことが気になり、キリストの信者たちに近づき、彼は何者であったかを知りたがる。
しかし聞けば聞くほどに、キリストのことが理解できない。
その後も、何人もの信者と交流を持つも、彼は死ぬまでキリストを信仰することはない。
またかなり深い仲になった(と少なくとも相手側は思っていた)人間とも、本当の意味で心の交流をすることはない。
誰にも救いを求めず、誰をも救うことがなかったバラバ。
それでも恐らく信仰と愛とについて誰よりも深く考え続けたバラバ。
著者から明確な結論は提示されない。また語り過ぎないくらいの簡潔な文体も相俟って、本書全体が問いかけのまま終わってしまう。
読者はバラバになって、自分が救われて生きていることの意味を考え続けることになる。
個人的に、最後の「おまえさんに委せるよ」の「おまえさん」はキリストではなく「死」=「無」なんじゃないかというような気もする。
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バラバ。イエスの犠牲によって直接救われたもの。非常に興味深く読みました。フィクションとは知っていながらも、それ以上に信仰とは何か、私の人生とは何かと、真剣に読み進めていきました。
最後まで信仰を理解できなかったバラバ。しかし死に際の言葉はイエスのそれと同一であった。著者の思いやいかに。あまり深く洞察していませんが、時間があればゆっくり思案にふけりたいと思っています。
10/6/27
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随分と以前(学生の頃?)に読んで、もう一度読んでみたいと思っていた本に久しぶりに巡り会いました。だからといって、イエスの代わりに放免された兇賊バラバという主人公のこと以外、内容は全く覚えていなかったけれど。キリスト教って、信仰ってなんだろうと考えさせられる内容でした。またいつか読むかも。
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これほどの短編を読むのに時間がかかるのは何故だろう?普段の自分は利己的な輩を許すことができなくて、小さな粗探しをして苛々してしまう。自分で火にかけてないのにお湯が沸くと一番に使う輩。窓側に鞄をおいて通路側に足を組んで座って平然としてる輩。ほんとに我ながら小さい。しかし!自分だけ助命されイエスやサハクが処刑されるのを見ているバラバの姿はそんな輩の比ではない。八つ裂きにされればいいのにと憎悪でも沸けば別だが、どうしてそんな気分にもならないのだろう?バラバの最後に信仰の力をみるのだ。キリスト教徒じゃないのにね。
再読。スウェーデンの作家なれどノーベル文学賞の真骨頂。祭りのとき群衆の恣意的な選択によって釈放され、代わりにイエスが処刑された極悪人バラバ。新約聖書に少しだけ登場する彼の物語。釈放されたのにイエスの事が気になりゴルゴダの丘までついていき、イエスの絶命を観とり、弟子が埋葬するのを見守る。バラバ自身は自分の罪を悔いてもいないし奇蹟も信じていない。しかし信者の口裂女が民衆になぶり殺されたのを怒って更に罪を犯してしまう。バラバの行動を矛盾として片付けることは誰にも出来ない。初期キリスト教を描いた紛れもない傑作。
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イエスの代わりに釈放された罪人バラバのその後を描くフィクション。
信じたいと思いつつも心を閉ざし続け、罪を重ね、絶望の中で死ぬバラバ。
しかし「おまえさんに委せるよ、おれの魂を」という不思議に安らかな最期の言葉に、わずかな光明を宿している。
彼はだれともいっしょにつながれていなかった。広い世界中のだれとも。
その一言が妙に胸に刺さった。
結局のところ、人は誰かに是認されることで自分の存在を確立することを願ってやまない。
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不勉強で、ラーゲルクヴィストという名前も、本書「バラバ」のことも知らなかった。著者はスウェーデンのノーベル賞作家。このバラバがノーベル賞受賞のきっかけとなった作品とのこと。
イエスの代わりに放免された死刑囚バラバが、キリスト教徒として処刑されるまでを描く。でも、読後に残るのは、バラバのいかんともしがたい孤独感だった。
(2015.4)
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ノーベル文学賞受賞作。
作中で貧しい人たちがキリストを信仰するのは、自分たちを困難な状況から救い出してくれる、都合の良い救世主を求めているだけにも見える。盲信と信仰心の区別はあいまいである。
一方、バラバはキリストに強く惹かれながらも、決して盲信しない。むしろキリストの無力さを知っており、兎唇女のために律法士を殺し、彼女を埋葬し、あくまで行動をもって示そうとする。
バラバは両親の愛を受けずに育った境遇からか、情がうすく、人に寄り添うことがない。ゆえに、周囲も無意識のうちに彼を拒絶する。しかし、兎唇女を埋葬し、サハクのために泣いたように、彼にも人間らしい情が残っている。
親近感を覚えるような主人公ではないが、彼のような人間がいても自然ではないだろうか。
キリストを信じない者にとっては、キリストに救われたことがほとんど呪いのようになるという悲劇。しかし、盲信する者たちに比べて、バラバが愚かだとは思わない。ただ、キリストを信じられなかっただけ。
もしキリストが真の神であれば、バラバが人たちから拒絶されていようと、キリスト教徒でなかろうと、彼の魂をも救うのではないか。信者だけを救うのが神とは思えないからだ。信仰とは何か、考えさせられる。
神を強く求めながらも、信じ切ることができない人間の姿は、『巫女』にも共通するテーマだと思う。
個人的には、『巫女』ほどの求引力は感じられなかったので星3つ。
ラーゲルクヴィストの作品がもっと日本で読めるようになってほしい。
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とても難しい小説です。「信ずることのできない、愛することのできない」、「ときどきのエクスタシィにしか信仰がもてない」バラバ。信仰に惹かれ続け、模索し続けながら、最後まで本当には理解できなかったのかと思います。
「細かい線まで手を入れていない」描写が非常に個性的で、まさに荒削りの石塊のようです。
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人を信じること、愛することとは何かわからない不器用な主人公にとって、生き残されても孤独で彷徨い続けなければならならず、もしかしたらそれは死よりも辛いことなのかもしれない。主人公にとって愛することは最後までできなかったのかなあと。あまり救いというものが見られないのは残念だった。読んでいると舞台の上で演じる役者が見えてくるような演劇的な作品だった。
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男がどうなったのか私はずっと気になっていた。
その男の名前は 『バラバ』
彼はイエスの身代わりに釈放された死刑囚。粗野で無教養な極悪人。
バラバのことは四福音書に記述がある。
ルカの福音書からその部分を引いてみる
---ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて言った。
「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れてきた。わたしはあなたたちの前で取り調べたが訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとて同じである。それで我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから鞭で懲らしめて釈放しよう」しかし、人々は一斉に「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと思って改めて呼びかけた。しかし人々は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。---中略---ピラトはバラバを要求どおり釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して好きなようにさせた。---
ピラトとは、総督。
祭りのたびごとに総督は民衆の希望する囚人をひとり釈放することにしていた。
イエスに罪を見出せなかったピラトは極悪人の死刑囚であるバラバを引き出し、民衆にどちらを処刑するべきか問うが民衆は祭司長や長老たちに説得されまるめこまれて、バラバの釈放を欲した。
バラバにしてみれば、死刑を待つ獄舍から民衆の前に突然引き出され、釈放されたのだから晴天の霹靂とはこのことである。
イエスはゴルゴダの丘で十字架に架けられるが、イエスが十字架で息絶える前からこの物語ははじまる。
バラバの聖書の記述は、上記の場面、すなわち、イエスの代わりに釈放された死刑囚がいたという部分に留まっている。バラバのその後は聖書には見当たらない。
したがって、この物語は、スウェーデンのノーベル賞作家、ラーゲルクヴィストの創作作品ということになるのだが、バラバの一生は本当にこのようなものではないかと思わせるようなすばらしい作品に仕上がっている。
思いかけず放免されたバラバは、鞭打たれたイエスが十字架を擔いで刑場の丘に上がっていくのも見ていた。擔ぎきれなくなったイエスの十字架を擔ぐシモンも見ていた。
バラバは尚も見ていた。磔刑になったイエスが死んでゆく樣を。
突然丘の上の空が闇に覆われる。
「神よ、わが神よ、なぜおん身はわたしをお棄てになったのですか」闇の中からイエスの声が聞こえ、また回りが何事もなかったように明るくなった。太陽は輝き、空は青く澄んだ。そしてイエスは死んでいた。
その後、バラバはイェルサレムの方に歩いて行った。
街で兎唇の女に会い、歩いていくと、ふとっちょ女に家の中に引き込まれる。
兎唇の女は去り、ふとっちょ女に酒を振舞われ、性欲に溺れた。しかし、それが終わるとバラバは自分の代わりに磔刑になったあのイエスという男のことを考えてしまうのだった。
バラバは街に集まっていたイエスの弟子たちと会う。
バラバは知りたかったのだ。イエスのことを。
兎唇の女はイエス���信仰に染まりつつあった。
女はイエスを救世主、神の子と呼び、裁かれ、石刑仕置場で石塊を投げつけられて息絶えた。
バラバは一番最初に女に石を投げつけた男を刺し殺した。
そして、みんなが去ったあと、兎唇の女を抱き抱えてある場所に向かいながら、イエスの言ったという言葉を思い出した。
「人を愛せよ」
バラバはある場所に兎唇の女の死体を横たえた。
そこには女が死産した子供が埋められていた。女の横で永遠に眠る。
バラバは年は三十くらいで皮膚は黄色がかって青白く、髭は赤味かかっていたが頭髮は黒かった。片方の目の下には髭で見えなくなっていたが、深い傷跡があった。
その傷をつけたのは、エリアフという男で、バラバはその男を決闘の末、断崖から突き落とした。
そのエリアフとは、バラバの父だった。母親は淫売屋に売り飛ばされたモアブ女で女は陣痛のうちにその子を呪い、天地の創造主に憎悪を感じつつバラバを道端で産み落として死んだ。
バラバはエリアフを突き落とした崖で思いにふける。
思い出すのは十字架に架けられた息子を見上げるマリアのことだった。
時を経て50歳くらいのバラバはまた捕らえられ、最も恐ろしい懲役である鉱山懲役に処せられていた。
そこで、バラバはキリスト教信者のサハクという40代のアルメニア人の男と知合う。
サハクの奴隷鑑札の裏には奇妙な文字が刻んであった。
バラバもサハクも字が読めないので何と刻まれているのかは不明だったが、サハクの説明によると救世主の名前が刻まれているということだった。バラバの鑑札の裏にもその文字(彼らには模様)を刻んだ。
バラバはサハクと祈りも捧げていたが、それを見られて打擲されてからそれもやめた。
それから彼らふたりは奇跡的に鉱山の懲役を逃れられ、ローマ総督の邸に送られる。
総官にバラバとサハクは信仰について聞かれる。
バラバはイエスへの信仰を否定しサハクは否定せず磔刑になった。
またバラバは十字架の上で人が死にゆくさまを見ていた。
バラバは街のたくさんの家に火を投げ入れ放火の罪で投獄された。
バラバはキリスト信者たちとその救世主を助けてこの世界に火をつけたつもりであったらしい。
しかし、イエスの代わりに放免されたバラバだと知ると彼らはバラバから離れて行った。
バラバは独りになった。ずっと昔からバラバは独りだったのである。
バラバはキリスト教徒とともに磔刑にされて死ぬ。
「おまえさんに委せるよ。おれの魂を」という言葉を残して。
バラバの生涯で不思議に思えていたものは「愛」「信頼」「信仰」不確かではあったかもしれないが、バラバはそれらをうすぼんやりと実感しながら、信じていくことができない。
「ミッション・バラバ」という集団があるそうで、「親分はイエス様」を合言葉に元ヤクザさんたちで構成される伝道集団なのだそうである。
活動の内容などは全く存じ上げないが、このネーミングの上手さに唸らされた。きっと良い活動をしてくださってることだろう。