紙の本
理不尽な苦しみ
2018/12/24 00:56
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投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
神に対する悪魔のたわいない讒言によって、高潔な善人ヨブが突然に財産も家族も名声もすべて奪われる。そればかりか見ることさえ憚るような疫病にかかり人から忌み嫌われる存在に転落。そんなヨブにかつての友人たちが非情な言葉の数々を浴びせる。ヨブは弁明の中で、友を非難し悲惨な境遇を嘆き、病苦と屈辱感から死を願い、見捨てた神を呪い、それでも自分は正当性を信じ神に挑もうとさえする。激情の激しさ、全能の神への不信、呪いから熱烈な信仰まで包みこむスケールの大きさ、「叫び」の痛切さ。後世の処世術めいた思想も、古代に書かれたこの最高の知恵の文学の迫真の前には色褪せてしまう。最後にはヨブは神によって許された。何によって許されたのか。しかしその結びは簡潔で静かな感動を呼ぶ。
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投稿者:にっくねえむは変更できまっしぇん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ついにヨブは苦しみにおいても歓喜した。
なぜならヨブは神のものだから。
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盲信といえるくらい神に敬虔なヨブ、試練を与える神、そそのかすサタン。どの立場も主体的にとらえることができる。その着眼は聖書がただの箴言ではなく、テキストとして読むことを可能にする。
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YHVHさんがヨブを許したんじゃなくて
ヨブがYHVHさんを許したんだと思います。
きっと正面から文句を言ってくる人がいてくれて、
YHVHさんもうれしかったと思うのです。
でなかったらどうして、ヨブだけがYHVHさんにあんなにごほうびをもらえたんでしょうか。
YHVHさんは神棚にすえられておがまれるだけなのがさびしくて、
人とかかわりたかったんじゃないかと思うのです。
それがものすごく不器用なやり方で、人を殺すようなやり方しかできなかったとしてもです。
昔の人がYHVHさんをおがまないといけなかったとしたら、
それはYHVHさんが偉大かつ全能だからではなくて、
私たちと同じくらいにアホでまぬけで不器用で乱暴でさびしがりやだからじゃないかと思うのです。
世界の神様が人類に自分の全能性を強要したがる姿は、
私には子供がおかあさんにほめてもらいたがっている姿に見えるのです。
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【090211】律儀者の子沢山
:::::::::::::::::::::::::
「わたしは神を信じます。」
と、女は言った。
私は、
破廉恥な女が赦せず
酷く打ち据えた。
打ち据えても、
打ち据えても、
心は穏やかにならなかった。
女は涙して
神のみ名をほめたたえた。
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全き者ヨブさんの信仰の話。
信仰とはなにか、
信仰すると言う事はどういうことなのか、
という話か?
注と照らし合わせて読んだので
随分時間が掛かった。。。
聖書になじみがないので
言葉や表現の意図するところがわからなかったり、
注はあるのだけれど
その注が本文自体より難しい。
しかし訳書である限り
どこか限界があると思うし、
またこのような古書、文体、表現方法では
たとえ原文で読めたとしても
解釈がわかれるのは仕方ないかもしれない。
そう考えればあまり難しい事に
気をとらわれず素直に読み進めても
良いのかも。。。と思った。
他の出版社のも読んでみたいと思う。
追記
随分前に読んだ作品
ヨブ記を読むきっかけは
重松 清さんの「疾走」を読んだから
何故そう思ったのか?
思い出せない
「疾走」は2度と読みたくないので今後もわからない
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私がキリスト教徒ではないからだろうが、とにかく憤ることが多かった。
応報思想は様々な宗教で見られる考え方だが、これはとくにひどいのではないか。
「神を信じない(もしくは行いが悪い)から、ひどい目にあう」というのは、「暴力に屈せよ」ということに限りなく近いと思える。
これ読んでキリスト教にを信仰する気持ちは到底理解できない。
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ツラかった…!どんな苦行!?
「声に出して読みたい日本語」じゃなくて「声に出さないと意味の取れない日本語」。
以下なんの予備知識ナシで、ナイ頭最大限使って読んだ感想。
ヨブ…可哀そうヨブ。
てか友達!友達…!?なんだよね君たち?皆ヒドくね!?
加虐心と優越感が見え隠れして、イヤ。
ヨブの悪、ヨブの咎とは何だったの?
ヨブはどうしたらよかったの?
黙って耐えて死ねばよかったの?
私から見たら当然の、ヨブの血を吐くような神への問いかけに、神がどう答えるのか、楽しみに読み進めたのですが。
…ごめんなさい、分かんない。
ねえ、なんであれでヨブは納得できるかな?
神の為に神を信じられるか…。
もう、ダメ、本当分かんない。
ただひとつ分かったコトは、私は絶対にクリスチャンにはなれない、ってことです。
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「神様なんていんの?」というレベルの無信心者にとっては、「神様はなぜこんなことをされるのか」という問いかけそのものが存在せず、いやたまたまだろ、で終わってしまう。でもキリスト教の文化圏ではそういうわけにいかない。どう考えても変だろ、きっと何か理由があるんだ、とみんなが頭から湯気が出るほど考えたんだろうな。その結果が勢い余って、いろいろな哲学や芸術に結晶したと考えるのは考え過ぎだろうか。
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資料番号:010845766
請求記号:193.3/キ
『仙台市荒浜地区の図書館員による、あのとき役に立った本』
※今回、ゆうき図書館3月のイベント棚では、仙台市荒浜区で被災した図書館員の方に、ご協力頂いています。
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それでも神を信じるのか。信仰というものの究極の問いの一つである。いわれなき理不尽、不遇、不幸。それらに見舞われながらも信仰を続けることができるのか。
心に絶対的なものをもつとはどういうことか。
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(2012.10.01読了)(2012.07.27購入)
先日読んだ「夢よりも深い覚醒へ」大澤真幸著、で「ヨブ記」が紹介されていたので、この機会に読んでしまうことにしました。
2011年3月11日の東日本大震災で、被災した人たちが、なぜわたしが、なぜあの人が、こんな目に合わないといけないのか?という疑問が、ヨブの置かれた状況と同じ、ということです。
本の帯には、以下のように記してあります。
「神の義と人間の義の対決として旧約中著しい特色を有する「ヨブ記」。いわれなき試練の苦しみをつきぬけ真の信仰に至るヨブの物語。」
ヨブは、何も悪いことをした覚えがないのに、息子や娘、財産まで悉く奪われても、神への信仰は揺るぎませんでした。さらには、自分も体中腫物で侵されても、神への信仰は変わりませんでした。
ヨブの身に起こった不幸を聞きつけた友人たちが、ヨブを慰めに来て、「何か罪を犯したために、不幸が訪れたのだろう」というのです。ヨブは、何も罪は侵していない、と言います。
女は汚れており、「女から生まれた者がどうして清かろう」とまで言われます。
キリスト教の信者ではない、僕なんかには、お手上げです。
【原罪】(『大辞林』より)
キリスト教で、人類の祖が犯した最初の罪のこと。蛇にそそのかされたイブとともにアダムが神にそむいて禁断の木の実を食べたことが旧約聖書創世記に記されている。アダムの子孫である人間は生まれながらに罪を負うとされる。
神様は何もしません。ただ見ているだけです。どうしたらいいかは、自分で決めてやっていくしかないのです。誰かに相談したとしても、最終的に決めるのは自分です。
とでも考えるしかないのだと思います。
キリスト教徒は、「ヨブ記」をどのように読むのでしょうか。
(先日読んだ「旧約聖書入門」三浦綾子著、の「ヨブ記」の章を読み直してみました。「神の力は偉大なので、すべてを受け入れなさい」ということのようです。)
【目次】
序曲
第一回討論
第二回討論
第三回討論
ヨブの最後の弁論
エリフの弁論
神の弁論とヨブの答え
終曲
註釈
解説
●解説より(223頁)
イスラエルにおいては単純な因果応報ではなく、神の律法に従ったものには幸いが、それに違反した者には災いが臨むということが確固たる信念になっていた。ヨブ記は少なくもその本論において律法の厳格な遵守を規準にしても義しい人であったヨブに甚だしい苦難がふりかかり、ヨブはその理由を理解するのに苦しみ、神の世界支配の義しさを疑うようになる。三友は伝統的な応報思想にかたく立ってヨブの悲惨な現状から推してヨブが何か隠れた罪を犯したに違いないとの冷たい判断を下し、ヨブに悔い改めを迫る。ヨブはもちろん自分に全然罪がないと考えているわけではないにしても、彼だけに臨んだ特別な苦難に応ずるような罪を犯したことは絶対に考えることができず、応報思想を盾にとって彼を責める友人たちに烈しく抗議するだけでなく、彼を不当に苦しめている神に向かってもおのれの義を主張し、反抗し、最後には自己の潔白を誓いつつ、神に挑戦するにいたる。
●神と���う(34頁)
人が神と争おうと望んでも
人は千に一つも答えることはできはしない。
彼は心賢く、力強く
誰か彼に挑戦して無傷であり得よう。
彼は知らない間に山を移し、
怒りをもってそれをくつがえされる。
●笑う(37頁)
わたしは言う、
全き者も悪しき者も彼は滅ぼされる、と。
大水が突然人の命を奪っても
彼は罪なき者の困窮を笑っている。
●その手中に(46頁)
すべて生けるものの生命はその手中にあり、
すべての肉なる人の霊も同じ。
☆関連図書(既読)
「創世記」旧約聖書、関根正雄訳、岩波文庫、1956.05.06
「出エジプト記」旧約聖書、関根正雄訳、岩波文庫、1969.01.16
「旧約聖書入門-光と愛を求めて-」三浦綾子著、カッパ・ブックス、1974.12.20
「新約聖書入門」三浦綾子著、光文社文庫、1984.11.20
「聖書物語」山形孝夫著、岩波ジュニア新書、1982.12.17
「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎・大沢真幸著、講談社現代新書、2011.05.20
(2012年10月6日・記)
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作者不詳。紀元前5世紀から紀元前3世紀頃のパレスチナに於いて成立したとみられる。
神への信仰篤く、その善に従って生きてきたヨブに、神は次々と過酷な試練を与え、ヨブは「神が在りながらなぜこのような災厄に見舞われるのか」と生の意味を喪失してしまう。しかしここには、信仰に於ける実利主義・応報思想・「幸福の神義論」(ヴェーバー)、則ち人間中心主義――人間は、神の神たるゆえに神を信仰するのではなく、所詮は自己の利益の為に信仰するのだ、という構え――が大前提として横たわっていると云える。そもそも、神をしてヨブに理不尽な苦難を与えるように仕向けた敵対者(サタン)に次のように云わせることで、作者は信仰とその"根拠"の問題、そこにある人間の傲慢(ヒュブリス hybris)を本書の主題としている。
「ヨブといえども理由なしに神を畏れたりするものですか」
こうして『ヨブ記』に於いて神義論・弁神論(世界に悪や苦難が存在することと神の全能性・絶対的善性とのあいだにある矛盾を整合的に捉えようとする議論、世界が悪と苦難に満ちていながらなお神を信仰するのかという議論)に対する一つの答えが示される。
不条理であるにもかかわらず、不条理であるがゆえにこそ、信仰する。この点にこそ、信仰というものの独自の機制があると云える。神の絶対的超越性ゆえに、信仰を哲学的に基礎づけようとすることを根本的な錯誤と見做して「不合理ゆえにわれ信ず」と云ったテルトゥリアヌス(2世紀のキリスト教神学者)の思想に通じるものがある。
神は人間を超絶した存在であり、人間如きの理性では神の義を解することはできない。これは、一方では、神という絶対者への人間の絶対的屈服・隷属を意味する。しかし他方で、理性を超越した存在への信仰は、人間理性それ自体からの自由、人間の自由性の証しに通じるのではないか。なんとなれば、人間は人間理性そのものを自らの意思で放棄するほどの自由性の内にあるということなのだから。人間は人間自身から自由である。則ち、人間は自己否定が可能なのだ。『ヨブ記』自体がそれを証しているのではないか。それが遂には、自身が信仰している当の絶対者たる神をも人間自ら否定する"自由のニヒリズム"へと到るのではないか。ヨブの最後の科白は以下のとおりである。
「それ故私は自分を否定し/塵灰の中で悔改めます」
そうした人間の、あらゆる概念的規定を超越しうる可能的否定的存在としての「実存」という在りようを、『ヨブ記』は逆説的に予見しているかのようだ。旧約聖書は、予め自らの内に、未来のヴォルテールを・実存主義的無神論を、胚胎していたと云えないか。
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岩波文庫から出ている日本語訳(所謂「関根訳」)旧約聖書の『ヨブ記』。ビブリア・ヘブライカ(1937年版)を底本としており、詳細な注釈を施している他、一部文意が通るように節を入れ替えたりしている。
本書は「義人の苦難」、あるいは神義論をテーマにした旧約聖書中でも重要な書物である。「人は理由なしに神を畏れることができるか」という神と敵対者の賭けの中で、神はその証明として「全くかつ直ぐ」な義人ヨブに苦難を与える。常に神に従い、それ故に神の恵みを受けてきたヨブは、この唐突で理不尽な災いの前に苦悩し嘆くことしかできない。因果応報の立場から彼を悪人と断罪する彼の友人たちとの討論の中で、ヨブは(己の限界を認めながらも)自己の義を力強く主張、遂に自らの義と神の義を対決させるに至るーー。
このスリリングな内容は古代の高度な信仰論を如実に示している。何故「全き義人」たる自分が災いを受けねばならないのか? 神は善悪それぞれに相応の報いを与えるものではないのか? 己の不幸の理由を問うヨブに対し、神は逆に問いを発し自らの創造の業を語るのみで答えようとしない。だがこの意味深な神の言葉には、因果応報を超克した信仰の姿が描かれている。人が神を崇めるのは結局は自己の幸福追求のためではないのか? 人は見返りによってではなく「神ゆえに」神を信じることができるのか? 自己中心から神中心への信仰という考えは、(必ずしも腑に落ちるものではないが、だからこそそれ故に)自分にとって衝撃的に感じられた。
本書の注釈は単語を解説するとともに、(訳者の)解釈を詳細に論じている。全体として非常に分かりやすいので、初めて『ヨブ記』に触れるにはお勧めの一冊といえるだろう。
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2015/3/13読了。
元々旧約聖書に惹かれているので購入した。中身がなんとなく壮絶というか、何故ヨブさんはここまでされなきゃならないのか?そしてなぜヨブさんはここまでされて信仰を失うことがないのか。
ただ、自分が理不尽だと思うコトにはしっかり立ち向かっているところを見るとそういう部分を読み取れということなのか。
なんにしても宗教モノは簡単ではない。