紙の本
アウシュヴィッツの詳細な実態記述と、静かな人間考察。人間必読。
2010/08/01 18:38
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者はイタリア生まれのユダヤ人。化学者である。イタリアで捕まり収容所に送られ、生き残った数少ないユダヤ人の一人である。
これは彼のアウシュヴィッツでの生活を詳細に書き記した作品である。生還してまもなくに一気に書き記したものなので、時系列ではなく、著者の書きたい思いでまとめられてはいるが、創作はないとのこと。食事の内容や、衣服や規則の詳細までが淡々と記されている。
その淡々とした文章の中に、人間の精神のもろさやしたたかさが鋭く考察されている。少し長いが、中ほどの「良い一日」というところから引用してみたい:
「人間とはこうしたものだ。痛みや苦しみが同時に襲ってくる時、人はそれをすべて合わせて感じるわけではない。ある一定の遠近法の法則によって、小さな苦痛が大きな苦痛の陰に隠されてしまうからだ。これは神意によるもので、だからこそ収容所でも生きられるのだ。また、自由人の生活で、人間の欲望には際限がない、とよく言われるのも、これが理由だ。だが、これは、人間が絶対的な幸福にたどりつけないことを示すよりも、むしろ、不幸な状態がいかに複雑なものか、十分に理解されてないことを表している。不幸の原因は多様で段階的に配置されているが、人は十分な知識がないため、その原因をただ一つに限定してしまうのだ。P86」「私たちの肉体はなんと弱いことか!P88」「空腹がひととき満たされるとこころに余裕ができ、しばらくの間自由人に帰り、不幸な気持ちを味わえるのだ。p90」
著者はイタリアの大学で学位をとったほどの知識人である。「オデュッセウスの歌」という章では、フランス人の少年にイタリア語を教えるつもりでダンテの神曲の一部を語る。オデュッセウスの遭難のくだり「きみたちは自分の生まれを思え。/けだもののごとく生きるのではなく、/徳と知を求めるため、生をうけたのだ。P138」の一節に自分自身にも言いたかった言葉を著者は見つける。聞いている青年にもそれは伝わっていく。読んでいて痛みのような感動を覚えるところであった。
こんなときにも心を支える言葉を持っていること、それが教養なのだろうか。日本人ならこのようなときにどんな文章を思い出すのだろう。なんにせよ(たとえ流行の歌の一節でも)、そういうものが自分にもあればよい、としみじみ思った。
淡々と静かな言葉で語られるからこそ、心の奥まで静かに沁み込んで来る極限での人間の想い、生き方。日本の原爆被災者の言葉と同じように、辛いかもしれないができるだけ多くの人に読んで、読み継がれて欲しい一冊である。あえて「人間必読」と書かせていただいた。
戦争体験の迫力に圧倒される一冊であるが、こちらを読んだら是非著者の「周期律」もお薦めしたい。アウシュヴィッツ前後の自伝的な話であるが、化学的な要素も取り込み、より文学的に磨かれた作品である。
紙の本
抑制の効いた語りに滲む怒りや絶望
2017/06/16 17:28
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投稿者:phoebe - この投稿者のレビュー一覧を見る
「これが人間か」
原題であるこの文字列がページを捲る度に頭をよぎる。大学の講義で紹介された書籍だが、当時の教授に感謝したい。
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分類=現代史・ドイツ・ナチスドイツ・アウシュヴィッツ強制収容所。80年1月。アウシュヴィッツという人類の教訓を、形だけでなくその中身(精神)まで含めて活かす必要がある。
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アウシュビッツでは、あらゆる規範や常識や価値観までもが現代とは「真反対」になってしまうようだ。数々のおぞましい出来事には、いろんな感情がわき上がってくるが、生き死をかけた強制労働の環境下で筆者が言う『待つのはいつもうれしいことだ。古巣に巣食う蜘蛛のように、何もせずにぼんやりとしながら、何時間でも待つことができる』は、急ぎすぎる現代社会の一員として大いに考えさせられた。
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課題で必要で読みました。
でもその衝撃的な内容に、良い意味でも悪い意味でもショックを受けた作品です。
実際に体験した人の、本物の記録。
筆者の語りは本当に淡々と進んでいきます。
その感情を出さない描写によって、逆にその残酷さが強調されているようで、惹きこまれる様に読んでしまいました。
忘れたくても忘れられない。
そんな一冊です。
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アウシュヴィッツ生還者の体験記。
その他のプリーモ・レーヴィの著書。
「休戦」
「周期律」
「今でなければ いつ」
「溺れるものと救われるもの」
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アウシュビッツから生還したユダヤ系イタリア人の手記。『夜と霧』よりおもしろかった。収容所生活をはじめとする差別的経験によって、どのように人間性を破壊され、そして、生き延びたのか、という話。『夜と霧』にも「良い人ほど死んでいった」って書いてあったと思うけど、この本でも、人間らしさを保ったままでは生きていけない、ということが書いてある。
たとえば、将来に希望を持ったり、知りたいと思ったことを人にたずねたり、幸せだった過去を回想したり、という行為は、死につながるのだという。なんというか、実感を持って理解できない話なんだけど、理解できなくて幸せなんだろうな。これが理解できるようになる経験は、しなくていいよ。きっと、なったことのない人には分からないシリーズのひとつなんだろう。
そして、だからこそその恐ろしさが人類の共有するところではなくて、それ故に同じことが、残念ながら今も、そしてこれからも、くり返されていくんだろうな。
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収容体験を20代で経験したという著者。化学専攻という経歴もあってか描写は端的で、明確だ。
自身の感情が前に出過ぎることもなく、起きた出来事を坦々と記述している。戦後すぐに書いたというだけあってあいまいな部分が少なく一級品の資料として読むことができた。
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アウシュビッツ強制収容所に収容されるも、奇跡的に生還したイタリア系ユダヤ人による手記。
人間の狂気。本当におぞましい。
以下、はしがきより一部抜粋。
この本が書かれた1946年当時、ラーゲルで起きたことは、まだほとんど何も知られていなかった。たとえば、アウシュビッツだけで何百万人もの男、女、子供が周到に練り上げられた科学的方法で虐殺され、衣類や財産だけでなく、骨や歯や髪の毛まで「利用された」ことは知られていなかった。また、強制収容所全体の犠牲者が900万から1千万人にのぼることも知られていなかった。
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強制収容所を生き延びたイタリア系ユダヤ人の手記。
「歴史上の事実」として収容所を学んだことはあったけれど、その地獄の底辺の中に生きた人々の想いに触れたことは少なかったため、新たな気付きが多くあった!
手記ということで多角的な検証が為された内容ではないが、収容所生活の細かな規則やリアルな現状が垣間見える点で十分に読み応えあり。
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27歳の青年が著した手記である。彼はアウシュヴィッツを生き延びた。そして67歳で自殺した(事故説もあり)。遺著となった『溺れるものと救われるもの』を私は二度読もうとしたが挫折した。行間に立ちこめる死の匂いに耐えられないためだ。
http://sessendo.blogspot.jp/2014/05/blog-post_5124.html
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アウシュビッツ強制収容所から生還したイタリア系ユダヤ人である著者が、自身の収容所での生活と解放されるまでをつづったもの。その記すところは、怒りに任せてナチスを断罪したり、単純に戦争を批判したり、自身や民族の不幸をことさらに嘆いたり、といったことなく、自らが経験し、観察したものをその範囲において記している。そういった記述により強制収容所で、内側から見て何が起きていたのか、またその特異な状況で人がどのように行動するのかを通して、多くのことが語られている。
著者が強制収容所に着いた当初、殺された仲間が焼かれ、自らもそこに行くことになるかもしれない収容所内の焼却所の存在について考えを停止してか、そのことを拒否しようとどこか認めようとしないところもあった。それでも直ぐに、古参の収容者と同じようにそれを当然のものと感じるようになる。
閉塞的なシステムの中にいて、まわりで多くの人が次々と死んでいく中で、ここから出られるという希望が現実的なものでなくなると、明日以降の未来について考えることができなくなったという。徹底的な絶望の中では、判断がごく短期的になり、またちょっとしたことに期待や破滅の兆候を見ることになるという。たとえばシャツの配給が遅れたとき、それは戦線が迫ってきているためであり、解放が近いのではないか、などと想像することになったという。
強制収容所の中では、良い人と悪い人などの区別は明確でなくなるが、少なくとも溺れるものと助かるものの区別は明確になるという。その過酷な環境においては、適者生存の原則がよりあてはまるのだ。小さな囚人番号を持つもの、つまり古株の囚人、で生き残ったものは、たいてい普通の仕事をしていたものではないという。医師などの特別な仕事に就いたものか、囚人長やカポ(労働監視員、収容所監視員)となるか、よほど狡猾に立ち回ったもののみだと。だからといって、収容所の中でのそのような行動を非難することを外部のものはできない。十分なほど残忍にならなかったら、別のものがその立場につくことになるだけだった。「それに加えて、抑圧者のもとでは捌け口のなかった彼自身の憎悪が、不条理にも、被抑圧者に向けられることになる。そして上から受けた侮辱を下のものに吐き出す時、快感をおぼえるのだ」という。そうした中で生き残ったものは、その後他でもなく自分が生き残ったという事実について罪悪を感じることになるのだ。あるテレビのドキュメンタリーでも、楽団に選任されたことで生き残ったユダヤ人がそのことに罪を感じて生きてきたと語っていた。
著者が生き残ることができたのも、化学の知識を買われて化学工場の研究所に選抜されたからだ。著者は、最後の冬をそのおかげで乗り切ることができた。さらに、最後にソ連軍の進行を受けて収容所の撤収をしたときに、たまたま伝染病にかかっていたことで病棟に残されたことが結果として助かる原因となった(撤収のための列車に乗ったものたちの多くはその移送中に亡くなったという)。その経験は著者にどのような影響を与えたのだろうか。
「わたしたちの存在の一部はまわりにいる���間の心の中にある。だから自分が物とみなされる経験をしたものは、自分の人間性が破壊されるのだ」
『この世界の片隅に』の映画化で有名になったこうの史代が、その前に原爆について描いた名作コミック『夕凪の街 桜の国』で主人公がつぶやいた次の一節を思い出した。
「わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ。
思われたのに生き延びているということ。
そしていちばん怖いのはあれ以来本当にそう思われても仕方がない人間に自分がなってしまったことに自分で時々気づいてしまうことだ。」
信じられないことが、つい70年前に起こっていた。それは実際に起きたことであり、何が実際に起きていたかを知らずに、そのことを軽々しく批判することはできないようなものだ。それは、一人の特異な犯罪者がなしたことではなく、人間が作ったシステムの中で起きたことなのだから。原題の直訳は『これが人間か』だという。邦題の方が営業面では優れていると思うが、原題に込められた思いは汲まれるべきであろう。フランクルの『夜と霧』とともに、今でも読まれるべき本だと思う。
(※新版では原題通り『これが人間か』に改められた)
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『夕凪の街 桜の国』(こうの史代)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4575297445
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怒涛のレーヴィ第二弾。
おととい読み終わった。が、本当の意味でこの物語を読み終わることはないのだろう。
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自分自身の運命を知ることは不可能だ。だからもし理性的に考えるなら私たちは諦めてこうした自明の事実に身を委ねるべきだろう。だが自分自身の運命が危険にさらされているとき冷静になれる人はとても少ない。必ずや両極端の立場を取りたがる。悲観論じゃと楽観論者というこの二つの種族はさほどはっきりしているわけではない。大多数が物事を簡単に忘れ、話の相手や状況に応じて二つの極端な立場の間を揺れ動くからだ。
確実に死に近づいている中で一つだけ能力は残されている。同意を拒否する能力。
外国で、他人の手で作り上げられた思想体系を全て鵜呑みにすることほど無駄なことはない。
全く絶望的な状態にあっても殻を分泌し、周囲に薄い防御枠を巡らして巣を作り上げる人間の能力は目を見張るものがある。
人生を真剣に考えようってときに彼らユダヤ人の記述はいつも響く。
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私たちは寒さと渇きに苦しめられた。停車するたびに大声で、水をくれと叫んだり、せめて雪を一握りだけでも、と頼んだが、ほとんど聞き入れてもらえなかった。おまけに護送隊の兵士は列車に近寄ろうとする者を追っ払っていた。乳飲み子を抱えていた2人の若い母親は、昼も夜も水を求めて呻いていた。ところが飢えや疲れや寝不足は、さほど苦にならなかった。神経が高ぶっていたので、辛さが減っていたのだ。だがよるには絶え間なく、悪夢に責め立てられた。立派な態度で死を迎えられる人はわずかだ。それもしばしば予想もつかなかった人がそうだったりする。同じように沈黙を守り、他人の沈黙が尊重できる人もわずかだ。だから、私たちの寝苦しい眠りは、つまらないことで起きた騒々しい喧嘩や、罵り声にしばしば破られることになった。また互いに体が触れてしまうのが不愉快なので、突き放そうとやみくもに拳をふるったり、足で蹴ったりして、皿鉢になることもあった。