紙の本
濃密で空虚な時代の讃歌
2001/05/14 10:59
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:呑如来 - この投稿者のレビュー一覧を見る
高校時代や大学時代というものは本当のところ輝かしくもなんともない。ただ、後になって回想したときに全てが眩しく思え、その二度と戻ることのできない広漠とした時代に激しい追憶を感じるだけだ。
まだ諦めも要領のよさも身についてない不器用な若者。それでいて妙に達観し、人生の何たるかを悟ってしまったかのような頽廃感をまとわりつかせている若者。そんな彼らを理解できなくなってしまったとき、人は「大人」になる。「大人」になれなかった者はアーティストにでもなる以外ない。中上健次は死ぬまで若者のささくれだった魂をくすぶらせていたアーティストであった。
学生運動華やかかりし頃を舞台背景とした「日本語について」、老成を気取りドラッグに耽る青年を描いた「灰色のコカコーラ」、自らの家庭背景を題材にしたかのような「鳩どもの家」、この3作品からなる本書の濃度はまるでウオッカである。
アメリカ陸軍の黒人兵と一週間一緒に過ごすというアルバイトを学生統一戦線の運動家に頼まれるという設定は、今でこそおとぎ話にもなるが、あの時代においてはありえないことではなかった。革命幻想を醒めた眼で傍観している主人公だが、その思考は右翼も左翼も知らない現代の「平和」な若者のそれと比べれば格段に生の実感を伴っている。軽く書かれているようでも、読後には梅雨のように沈鬱な影を落とす。
「日本語をまったく理解できない外国人に出会った時、あなたはいったい日本語をどの単語から教えるのだろうか?」
この問いは今でも読者ひとりひとりに発し続けられている。
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中上の初期小説については、鳩どもの家所収の「日本語について」をよく覚えている。この小説は初期中上の作品のなかでもうまく書かれているのではないか。ちょうど同時期にケルアック路上を読んでいて、主人公が黒人、ジャズに興奮するところなんか、共振するところがあるかな。中上のほうが冷静なところがあるが。
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無軌道な青春、倦怠と過剰。
毒を孕んだエネルギッシュな文学。
睡眠薬を常用するフーテン予備校生の姿を描く「灰色のコカコーラ」はひじょうに詩的。
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中上健次の初期の作品集。
15年ぶりぐらいで読み返してみる。
ここに収録されている短編の主人公は、いずれも現状に閉塞感を持っていて「世の中みんなクソだ」と思っている若者。
主人公がクスリで酩酊したり、JAZZを聞いてるときに浮かんでくる故郷の情景は、早くも「枯木灘」に繋がる、あの、匂い、熱までもが伝わってきそうで、むせ返るような描写で表現されている。
しっかし、学生時代に読んだ時より、今のほうが共感できるのはなんでやろ。
当時は余りにも世間や自己に対して無頓着やったんやろう。
今さら、俺の周りはFuckin'だぜぃ、ってな年でもないんだが。。
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まぎれもなく青春小説。
重力の都のような濃厚な大人の性愛もすばらしかったけれど
こういうエネルギッシュで危険な未成年を描いてもすばらしい。
中上健次は外れがない。
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初期作品集。猛毒を孕んだ文体は健在。読み終わりくらくらする。まるで「灰色のコカコーラ」の主人公のようにドローランでイカれた脳味噌をぶら下げて、何処へ行こうかと思う。
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『灰色のコカコーラ』が収録されている。
本作や『18歳、海へ』『十九歳の地図』は当時も今も好きだけれど、それ以上に、新宮や熊野を舞台とした小説を早く読みたかった。
2002年6月6日読了
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短編集
やはり『灰とコカコーラ』は秀逸。
マイルスデイビスや友人の為に睡眠薬を大量に摂取する主人公の絶望。
この短編がある限り、中上健次は永遠に死なない。
中上を思うと、胸が苦しくなる。
こんな小説家は他にいない。
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紀州サーガ三部作前の、荒削りながら圧倒的才能を感じさせる中上健次氏の初期三作品を収録。1970年代の熱気に満ちたザラザラとした空気感を言語化した中上氏独特の世界観を感じさせる。大江健三郎氏の影響がまだ色濃く残っているが、高密度の畳み掛ける文章力と冷めた視点そして人間に対する秘めた熱情を感じさせ、『鳩の家』はのちの作品の片鱗を感じる。
収録作品としては『灰色のコカコーラ』がひとつ抜き出ているように思う。
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解説で村上龍が「灰色のコカコーラ」について、「最初に読んだ時ほどの毒を感じなかった。耐性ができていた。睡眠薬を抱えて怯えているガキの小説だと思った。」と書いている。
近いことを思う。この話を語っている語り部が未熟だという印象が先立ち、書かれている言葉に自分を委ねられなかった。「限りなく透明に近いブルー」または「きみの鳥をうたえる」がこの作品の近くにあり、この時代で世界に溺れながら小説を書くとこんなことになるのかなと思った。
カラスくんを書いたときの手触りからの想像でしかないのですが。小説というのはきっとこの先にある何かを描くものなんだと思う。
けど作家になるために、「どこにもいけていない小説」を書く人は少なからず存在するようだ。
この作品集に関しては、「岬」や「枯木灘」ではっきりと作者のテーマを見ているからこそ、未熟だと思えたのだろう。