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「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰しゃったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何だかあのときの美しさがそんな風に思われて……」「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう?あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。それはおれたちだったのだ。まぁ言って見れば、節子の魂がおれの眼を通して、そしてただおれの流儀で、夢みていただけなのだ。……それだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢見ているとも知らないで、おれはおれで、勝手におれたちの長生きした時のことなんぞ考えていたなんて……」
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中学3年生の時に出会った小説。
自然の描写がとても美しく、透明で澄みきっている。
「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰しゃったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何だかあのときの美しさがそんな風に思われて……」
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やさしいやさしい二人でも、気持を重ね合わせるのは難しく、だからこそ一緒にいられる時間はかけがえがない。
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「風立ちぬ・美しい村」堀辰雄
サナトリウム文学。純白。
@電子書籍 35 冊目。
※ブクログに登録がないため岩波文庫版にて登録。グーテンベルク21社配信。
昨今のサナトリウム文学といわれるものは特にサナトリウムに限ったものではなくましてや大衆文学色が強いものも多いですが、
堀辰雄はまさにサナトリウムにおける思慕愛を描いた文学の代表的作家で、本人も肺結核で亡くなっています。
流々と穏やかな情景描写を下地に、「私」の想念のリアリズムが、
よく言えば 綺麗な物語への没入感を印象させたし、
悪く言えば くどくどしくて飽きた。
…身も蓋もないですな。
ただ、近頃の流行りのお涙小説とか、私小説・エッセイですらそうだけど、ああ書き手の思索のレベルが低いなーって感じること多々あると思うので、
やはりいわゆる名作と呼ばれるような、文学的エリートが書いた文章に触れる経験は必要だな、と思います。(3)
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・美しい村
フランツ・カフカの『城』を思い出す。共に、異邦人であること、で共通する。しかし、『美しい村』の私は、人と交わらない。これに対し、『城』のKは、人と交わろうとするが、他人との関係で自分がどこに在るべきかがわからない。この点が決定的に違う。
例えば、p23で、私は人がいることに気付くが、その人に話しかけようとはせず、その人が去った後に、その人のまねをする。閉鎖的ではあるが、人とかかわりたい。そんな願望が見て取れる。
作者がいう副題の「フーガ」は言いえて妙。主題が繰り返しながら、発展するさまはバロック的な形式美をも備えて、格調がある。 惜しむらくは、「夏」以降は冗長感が否めないこと。夏の前ですっぱり終わらせた方が作品として美しかった。
解説は、プルーストの影響を指摘する。これは当たっている。しかし、あたっているのは、意識の流れを追う点だけだろう。例えば、プルーストの『失われた時を求めて』はフランスのあの時代でしか成立しえない作品だ。
・風立ちぬ
『風立ちぬ』は、日本のサナトリウム文学の嚆矢にして金字塔(ドイツには『魔の山』がある)。福永武彦好きとしてはいつか読みたかった作品。映画化に際して、よい機会なので、読むことにした。
「美しい村」の後に読むと、作者は詩的描写ができるのに、削るに削っていることがよくわかる。そのことがかえって、二人の死への思い、愛(と軽々しい言葉を使うのをためらうほどのもどかしさ)を強調する。この二つの心情が絡まって提示されることで、読む者の心を締め付ける。美しいがゆえに、非常に壊れやすい。非常に壊れやすいがゆえに、美しい、とでもいうべきか。
サナトリウムというものが、ひいては結核が不治であることが、現代に生きる我々にはたぶん、ぴんと来ない。が、『ノルウェイの森』(特に後半、あの作品は前半は青春小説だ)なんかは明らかにこの作品の系譜にある。このような現代の作品でも類似のの舞台が示され(そして成功して)いるのだから、サナトリウムを舞台とすることが、この作品の普遍性を(特にその美しさ)を減殺することはいささかもない。むしろ他から隔絶された環境が美しさをひきたてるといってよい。
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音楽のようだなあと思ってたら解説が河上徹太郎でほくほく。
風立ちぬ、の盛り上げずどこも同じように時間が過ぎていく感じがなんだか好き。
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荒井由実の「ひこうき雲」のメロディーにのせて「生きねば」というコピーがおどるこの夏公開の「風立ちぬ」。もともと宮崎駿ファンだから、気分はアゲアゲ。映画をもっと楽しもうという本屋のコピーを鵜呑みにして、読みました。叙情的で冗長な文章。そして何よりせつないのね・・・。もう何と言うか、心が苦しい。山の空気の乾いた冷たさとサナトリウムの閉塞感と、どこにもいくことができない登場人物の感情がひしひしと伝わってきて、ぎゃはぎゃはとやかましい山食の中で、Please leave me alone状態入ってしまいました。
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美しい言葉、美しい物語だった。
「死」というものをとても身近に感じながら、お互いを見つめること。きっと死んでしまうだろうということが分かりながら、そんな終わりを感じながら、だからこそ、どこまでも純粋に、どこまでも清潔に、愛は昇華していく。でも、決定的に節子が死に向かう中で病気ではない主人公が生に向かう時、愛の昇華は破綻を迎える。
若いうちの死は、本来のものではないからこそ、美しい。あるはずだったその先の生を想像力にだけ委ねることが出来るから。でも残された者は、生きていくしかない。それが責務であるかのように。「いざ、生きめやも」の誤訳問題は、生きることなど出来はしないという悲しみの思いと、それでも生きる以外にはないのだという強い思いの、どちらもが本当の気持ちであるということを示した訳ではないかという気がしている。
山のすがすがしい空気の中で、生と死のあわいをたゆたいながら、純化した心、儚い命、まるで、そう、絵柄としては、崖の上でキスをするクリムトの「接吻」を思い浮かべた。あんなに華やかな色彩ではないけれど、むしろ白一色が似合うと思うけれど、幸福そうに、でもすぐそこに死があって、退廃というほど爛れたイメージはなくても、それは紙一重かもしれないと思うのだ。
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映画の影響でとりあえず読んでみました。
残念ながら、全部は読みませんでしたが、風立ちぬの話はなんとも切ない話でした。映画の原作かと思っていたので、多少残念ではありましたが、これはこれで結構な内容でした。
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2013.11.8読了。
読んだのは改変版ではないやつだけど、登録は改変版しかできなかった…。
美しい村も風立ちぬも描写はいいなあと思うけど、どちらも唐突に終わる気がする。文学作品は突然終わるのが主流なのかな?
風立ちぬは切ないなぁ。結末がある意味確定してるから余計切ない。
しかも心情とかは主人公側からの描写しかないから、節子が本当は何を思っていたのかがわからないのがまた切なさを助長させてるというか…
にしても文学作品というより当時は言葉遣いが美しくていいなぁ。
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ジブリ映画にもなった風立ちぬ。
映画を見る前に、原作も読みたいと思う。
貴方は映画と原作、どっちを見ますか?
あるいは両方!?
志學館大学 : 90(くまる)
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サナトリウム文学って言葉を初めて知った。「風立ちぬ」は病気療養のため山の中の療養所(サナトリウム)で暮らす女性とその婚約者を描いた話(婚約者目線で書かれてて堀辰雄の実体験に基づくらしい)。こういうサナトリウムでの生活を描いた文学をサナトリウム文学っていうらしい。
「風立ちぬ」。せつなーい。いかにも儚い。残された命をだいじにだいじに過ごす系の恋愛小説の原点か。これ自体細ーいガラス細工みたいな話だった。飛行機の話がいつ出てくるのかと思ったら出てこなかった。
「美しい村」は、避暑地で、中学生みたいな主人公の男の人が小さいことで緊張したりどうしようとか思いながら過ごした日常の話、と受け取った。
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内的現実の世界が溶け込んだ風景と、めんどくさい性格。もしく愛と死。
”舞台となった軽井沢が彼の内的現実の世界へ溶け込んで”と解説に在りましたが、その通りだと思います。
一冊を通して
軽井沢の風景が、まるっと作者の心の中にとけ込んでいて、
物語の中に、現実の世界の風景描写によって、主人公の心情が書かれてるように思いました。
それが美しく、すばらしい作品でした。
この文庫本は美しい村が先に収めらており、
主人公の男性が書いた手紙から始まるのですが、
その手紙の、
人懐っこい、それでいてどこか強がっているような性格、自分勝手な内容と、丁寧な文面に惹かれて読み始めました。
野薔薇と霧の中で少女の幻想を語ったかと思えば、
元カノ(もしくはリア充の友人)に会いたくないがために遠回りをしたり
美しい庭で美しい女性と運命的な出会いをしたかと思えば、
デート中に「意地悪!」と子供みたいに言い合ったり、
幻想的で美しい心理描写と、
若者らしい、ちょっとめんどくさい性格(これが青春の美しさってやつ?)のコントラストが面白い作品でした。
風立ちぬは
”死”というものがひとつのテーマとなっていますが
死は日常として緩やかに持続しており、その中で、静かに愛情が語られています。
静かにといっても淡々と悟りきったものではなく、
幸せな生活の夢を見たり、自問自答したり、
それを言っちゃだめだろ、、と思うような発言を口にしたり。
苦悩の中での発見や、相手の存在を見つめ直していく姿と、
そうした主人公を受け止めている病人の姿は、
思いやりに溢れています。
相手がそこにいるという幸せを噛み締める、目と目で見つめ合うだけの静かな愛情。
そんな風に人を愛せるように、なってみたいものです。
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1930年頃から発生した新興芸術派でしたが、2年ほどでその活動が見られなくなります。
「新興芸術派十二人」に名を連ねた堀辰雄は、「意識の流れ」、「内的独白」の手法をもって人間の深層心理を描く『新心理主義』を取り入れ、新感覚派から連なる作風をさらに深めます。
本作収録の"美しい村"と"風立ちぬ"はその体現といえる文学で、会話や状況説明、自然主義的な登場人物の行動の露骨な描写とは異なり、主人公の五感で起きたこと・感じたことを書くことで、読者はその世界を知り、心動かされる内容となっています。
本作収録の2篇は文体が非常に徒然としていて、小説でありながら詩を読んでいるかのような印象さえ受けます。
堀辰雄は1930年"聖家族"で高い評価を受けたのですが、同時期に喀血し、療養のため長野県のサナトリウムに入りました。
病臥中にプルーストの"失われた時を求めて"を手にし、その後の療養期間にジェイムズ・ジョイス等ヨーロッパ文学に触れていったことが、氏の作品に影響を受けていきました。
私自身プルーストを不勉強ながらまだ読んでいないのですが、"美しい村"はプルーストの文体を意識して取り入れられていると言われています。
各作品の感想は以下の通りです。
・美しい村 ...
まずははっきり言って読みにくいです。
というのも一文が異様に長く、句点までなかなかたどり着かないんですね。
例えば、"美しい村"は以下の文章から始まります。
"或る小高い丘の頂にあるお天狗様のところまで登ってみようと思って、私は、去年の落葉ですっかり地肌の見えないほど埋まっているやや急な山径をガサガサと音させながら登って行ったが、だんだんその落葉の量が増して行って、私の靴がその中に気味悪いくらい深く入るようになり、腐った葉の湿り気がその靴のなかまで滲み込んで来そうに思えたので、私はよっぽどそのまま引っ返そうかと思った時分になって、雑木林の中からその見棄てられた家が不意に私の目の前に立ち現れたのであった。"
早い話が、「頂上に天狗のモニュメントかなにかある丘を登ったら、知らない家の前に出てしまった」わけなのですが、とにかく文章が冗長でテンポが悪いです。
読んでいる途中で主文がわからなくなり、日本語を読んでいるのに頭に入ってきづらい感じを受けます。
情景を頭に思い描きながら読む必要があり、つらつらと読むとあっという間についていけなくなるので注意が必要です。
川端康成のように表現が難解というわけでもなく、描写は過ぎるほど丁寧なのですが、濃いめの珈琲と共に繙くことをおすすめします。
なお、ストーリーはほとんど無いです。
文章を生業にしている「私」は避暑地のK村に訪れます。
後半そこである少女に出会い、小説のインスピレーションを受けるという内容で、説明してしまえはそれだけです。
ただ、本作は起承転結を追うものではなく、主人公の心象を通した自然描写、作品内の空気の流れ、時間の流れ、あるいは停止を感じる作品だと思いました。
ちなみに本作登場の少女は、同書収録の"風立ちぬ"でヒロインとして登場��ます。
・風立ちぬ ...
こちらも"美しい村"と同じ感じの文調で、読みにくい部分があるのですが、"美しい村"で慣れたのか、結構すいすい読めました。
堀辰雄の代表作として有名な作品で、氏の私小説と言っていい内容だと思います。
信州長野の美しい高原に囲まれたサナトリウムがメインの舞台で、重い胸の病を患った婚約者「節子」との共同生活を描いた作品です。
5章からなり、出会ったばかりの節子との日々から始まり、結核が重くなりサナトリウムに入院して主人公も側室に止まることになり、病が進行し、そして。
ラストは静かな残心が感じられ、タイトルの元になったヴァレリーの詩「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」に込められた思いが、痛切に感じられました。
"美しい村"は読むのに苦心しましたが、本作を楽しむために是非、"美しい村"から読んでほしいと思いました。