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明治時代の日本人の心、弓道に対する心の持ち方がドイツ人の目を通して非常によくわかる
欧米人のロジック思考は、日本の弓道には通じず、的を射ようとしないで射る精神を会得する
本書は、日本での体験を本国ドイツで公演した時の訳書
現代の私は、ドイツ人ヘルゲルと同じ気持ちで読んだと同時に、
日本人の武道精神を誇りに感じた
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弓道をやったことがなくても、「的にあてることを考えるな、ただ弓を引き矢が離れるのを待って射あてるのだ」と言われれば、日本人ならなんとなくそんなもんかなと感じることができる(サンプル数3)が、大正時代のドイツ人にとっては何いってんだこいつとしか思えなかったらしい。
しかし、そのおかげで初めてそういった思考が言語化できたという面では、このドイツ人は重要だ。
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ドイツ人哲学者が、日本での体験を元にして書いた日本文化論。日本の精神は、論理ではなく体験でしか理解出来ない という話。弓道の精神についてどうしても納得できず、執拗に説明を求める著者に対して、弓道の師匠が言った言葉「経験してからでなければ理解できないことを、言葉でどのように説明すべきであろう。」そして、とうとう師は、著者の前で、暗闇の中で、二本の矢を全く同じ場所に射てみせる。
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「あなたがそんな立派な意志をもっていることが、かえってあなたの第一の誤りになっている。あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを、学ばなければならない」
「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずはない」
「身を修むるを以て弓と為し、思を矯めて以て矢と為し、義を立てて以て的となし、奠めて而して発すれば必ず中(あたる)矣」
大好きです、この作品。背筋どころか、この身のすべて、未だかつてない感覚でピシッと伸びました。
もしも、読み返すことでここに書いてある世界が会得できるのなら、何千回だって読み返しを厭わない。
こんなにも凄い精神世界が現実にあるなんて、人間に与えられた可能性のなんと深大なこと。
ドイツの方の著作なのに、奇しくも先日読み終えたばかりの『禅的生活』という言葉なんかが文中に出てきて、その哲学的探究心のあまりの真摯さに頬を紅潮させたくらい。
最初に掲載されている写真、今まさに弓を射たんとするヘリゲル氏の姿は、もはや周囲の木々や空間と一体になり、何物にも感化されない無心の境地、そして不動の中心そのもの。まさしく“非有の中の有”。それが意味することの深奥さを思い、幾度見ても見飽きることがないのです。
大切な1冊になりました。
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元弓道部。当てることしか考えていなかった自分に反省。射法訓を暗記させられたけど、深い意味もあるのかなぁ。引き続き同著者の「弓と禅」も読んでみる。
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ドイツから来た哲学の研究者が、東洋思想に少しでも近づくため、日本の弓道の師範に弟子入りした。禅ともつながる、ひとつの知としての弓術。思考、判断を旨とするドイツから来た弟子の知を、弓道の名人は捨てるようにと指導する。この弓術指南には、西洋哲学と日本の武道、2つのあまりに異なる知の衝突を、とても切実で、実際的な形で見ることができる。
西洋知とはつまり「疑」であり、東洋知とは「信」であると見ることもできるんだな。南無阿弥陀仏の気配を聞いた気がした。
そして、この師範から免許を授かり、友情を築いたドイツからの訪問者を、僕は羨ましく思った。
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弓道がわかる
日本の考え方を先入観を除いて書いてるためにわかりやすい
弓道だけでなく、生き方にもつながる
良い本だ
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的を意識し、狙って射るのではなく、
無意識の中で矢を放つ。
まさに東洋の神秘。
「禅」が何かも分からない時に、
弓を引いていたのが懐かしく思いました。
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弓道ってこういうことなんだなぁと実感。的に当てる競技だと思っていたけど、そういうことではないんだなと。科学や理屈を超えた力は人間に存在するのだと認識出来る良い本だ。
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20100423読み終わった
合理的な西洋文化を背景に持つドイツ人が”曖昧な”日本文化を理解する過程。「弓を心で射る」とか言われてもそりゃあ分からないだろうな…。模索している様子が描かれている。異文化を理解していくには、時間と忍耐と、そしてなによりもその文化に対する尊敬の念が持てるかどうか、だと思った。
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武士道とは、とか 道とは という話の時に必ず思い出すし紹介するようにしている本。オイリン・ヘリゲルが日本滞在時に弓聖阿波研造について弓術を体得しようとした体験を通してそれが書かれている。最初ドイツ人の目を通して西洋的に(西洋哲学的に)解釈・説明しようとされ(それは『スポーツ』では可能だが『弓術』では不可能)挫折した過程が明確で、洋の東西の『解釈』の定義の溝の深さに驚きを隠せない。日本人はおそらく社会通念的にこの概念が染み通っているので疑問がないのがまた不思議である。なぜ的にあてることを考えずに射て的にあたるのか。日頃西洋的な価値観でものごと考えすぎる現代社会にいて読むと久々の新鮮さをあじわうと思います。わたしたちはもっとわたしたちに根深い東洋的価値観をきちんと受け止めてものごとをなすべきじゃないのか と。
つまり don't think, feel. ってことなんだけども。
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「弓術は、弓と矢をもって外的に何事かを行なおうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味を持っている。それゆえ、弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託に過ぎない。」
分析的、批判的、合理的なドイツ人ヘリゲル氏が、「精神的な弓術の先生」阿波師範に導かれて免許状を授けられるに至る過程が面白い。
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弓術(弓道)を題材に、日本に伝わる道の中身について外国人が述べた本。
もはや今の日本人は戦前の日本人とイコールではないから、むしろ外国人の説明の方が理解しやすい。
著者が弓道の体験を通じて得た経験、感じた違和感についての記述は、各種の道を理解する端緒として秀逸だと思う。
が、禅がすべての道の根本にあって、それは日本人の国民精神に適合しやすいから、という説明は多少乱暴な気が。じゃあその国民精神って何なの、と。
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とても興味深い。
しかし本文中にも書かれている通り、論理や思考の枠ではとらえられないものを文章で説明しようとしているので、「そういうものがある」ということは分かってもその内容の理解までは出来ない。
京極夏彦の『鉄鼠の檻』を一緒に読むとより納得できると思います。
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的ではなく自分自身を射るように修養せよ──。弓道のことを何も知らない私でも非常に興味深く読めた。技術ではなく精神を磨くこと(磨く、というのも語弊があるかもしれないけど)。これは日常生活でも通じることなのかもしれない。人生の中で必要なのは、富や名誉といった物質的なものではなく、それらと無関係に自分自身の精神が満たされること。