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武士道とは、とか 道とは という話の時に必ず思い出すし紹介するようにしている本。オイリン・ヘリゲルが日本滞在時に弓聖阿波研造について弓術を体得しようとした体験を通してそれが書かれている。最初ドイツ人の目を通して西洋的に(西洋哲学的に)解釈・説明しようとされ(それは『スポーツ』では可能だが『弓術』では不可能)挫折した過程が明確で、洋の東西の『解釈』の定義の溝の深さに驚きを隠せない。日本人はおそらく社会通念的にこの概念が染み通っているので疑問がないのがまた不思議である。なぜ的にあてることを考えずに射て的にあたるのか。日頃西洋的な価値観でものごと考えすぎる現代社会にいて読むと久々の新鮮さをあじわうと思います。わたしたちはもっとわたしたちに根深い東洋的価値観をきちんと受け止めてものごとをなすべきじゃないのか と。
つまり don't think, feel. ってことなんだけども。
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「弓術は、弓と矢をもって外的に何事かを行なおうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味を持っている。それゆえ、弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託に過ぎない。」
分析的、批判的、合理的なドイツ人ヘリゲル氏が、「精神的な弓術の先生」阿波師範に導かれて免許状を授けられるに至る過程が面白い。
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弓術(弓道)を題材に、日本に伝わる道の中身について外国人が述べた本。
もはや今の日本人は戦前の日本人とイコールではないから、むしろ外国人の説明の方が理解しやすい。
著者が弓道の体験を通じて得た経験、感じた違和感についての記述は、各種の道を理解する端緒として秀逸だと思う。
が、禅がすべての道の根本にあって、それは日本人の国民精神に適合しやすいから、という説明は多少乱暴な気が。じゃあその国民精神って何なの、と。
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とても興味深い。
しかし本文中にも書かれている通り、論理や思考の枠ではとらえられないものを文章で説明しようとしているので、「そういうものがある」ということは分かってもその内容の理解までは出来ない。
京極夏彦の『鉄鼠の檻』を一緒に読むとより納得できると思います。
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的ではなく自分自身を射るように修養せよ──。弓道のことを何も知らない私でも非常に興味深く読めた。技術ではなく精神を磨くこと(磨く、というのも語弊があるかもしれないけど)。これは日常生活でも通じることなのかもしれない。人生の中で必要なのは、富や名誉といった物質的なものではなく、それらと無関係に自分自身の精神が満たされること。
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【レビュー】日本人の精神性を理解しようと、その手段として、弓道を師範の域にまで高めたヘリゲルさんの体験記。
短い内容だけれど、とても面白かった。
これを読んで感じたことは、昔の日本人が書いた「古典」と言われて読み継がれてきた書物よりも、当時の外国人が日本を理解しようと務めて著わした書物の方が、現代人にとっては分かりやすいのではないかということ。
戦前・戦中まで日本人の中に生きていた精神性と美学、センスは、当時あまりにもそれが当たり前のことだったために、皆がそれを持っていることを前提にしてあらゆるコミニュケーションが行われていたのでは。
しかしある世代を境に、戦後のアメリカ主導の教育政策によって日本人の精神性が180度変えられてしまったために、現代を生きる日本人にとっては、当時の日本人が書いた文章よりも外国人が書いた文章の方が遥かに理解し易いものとして映るのでは、と思った。
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ちょっと難しい本だったので、解釈が間違ってるかもですけど・・・
的を射抜くという動作を通して、何か高みに近づいていくというのが今までの弓道感でした。会に入った時に、的と自分だけの世界に入り込む、みたいな感じです。
この本に出てくる阿波先生は決して的を狙ってはいけないとおっしゃっています(よく言われることですけど)。無我の境に達するときに、「的を狙う」とか「無我になる」とか考えてしまっては無我になりえないではないか、というのが先生の考えらしい。精神的に射る、と本書では書かれていて、ふーん、って思っちゃいました。
久々に弓が弾きたくなったなってのが結論です・・・
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弓道をやっていたことがあるので、筆者の言いたいことがよくわかった。弓道はスポーツじゃないと筆者と同じように思います。
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わかったようなわからなかったような。。
弓術ではなく、弓道。弓道は精神なのだ。
言葉で理屈を考える欧米のひとには難しいのだろう。
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全く分からない文化を5年間も示範のいう事を愚直に聞けるというその精神がすばらしいと感じました。もちろんその5年間の中には困惑や挫折などもあったと思いますが、それでも哲学者としての様々な思索の中で解釈していった事に畏敬の念を感じます。へりゲル先生の「弓と禅」も読んでみたくなりました。
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この本で解説されているような日本の精神はまだ残っているのだろうか。
宗教や信仰がオカルトと同義になって久しいが、日本人には何かしら信じるものが必要だと思えてならない。
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「あなたには無心になることを、
矢がひとりでに離れるまで待っていることを
学ばなければならない」
禅の本を読んでいたときに飛び込んできた
「不動の中心」
これを考えるべく読んだ一冊ですが
武士道精神と禅の精神、
日本人が持っていた息遣いがこの本には生きています。
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合気道の先輩からいただいた。
原題はドイツ語で「弓を射る術」。弓道といわないところがいい。
100頁そこそこの薄い文庫本で、ヘリゲル氏の文章はその半分ほど。
この少ない字数に凝縮された誠実な記述は、多くの「修行」者に
ヒントと慰めを与えたろう。
今でも たまに 読み返す。
p.43 そうしてそれは私と一体となる。
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弓道サークル所属時に、用具入れの中から救出したのが出会い。用具入れってなんでも入っていますよね。
東北帝国大学に赴任してきた著者が阿波研造氏から弓術を習い始めるところからこの話はスタートします。”日本人が理解している神秘的なモノ”にドイツ人である著者が迫るお話。前半部「日本の弓術」は著者が日独協会の委嘱によりベルリンでドイツ人のために行った講演の邦訳です。
阿「術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである」
ヘ「無になってしまわなければならないと言われるが、それでは、だれが射るのですか」
阿「あなたの代わりにだれが射るかがわかるようになったら、あなたにはもう師匠が要らなくなる」
この問答からうかがえるように、阿波氏は著者に対して、「真の術の鍛錬が要求する沈思」とは何かを伝えようと努力されたようです。
本文はたったの66頁。字も大きい。すぐ読める。ドイツ人が日本人以上に日本人であるのが、この本の魅力。タイトルは「弓”術”」ですが、紛れもなく「弓”道”」のお話なのです。
後半部「ヘリゲル君と弓」では、阿波氏と著者の両人を知る小町谷氏が解説を行っています。
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ドイツ人が日本滞在中に学んだ弓道について書いたものの翻訳です。
外国人が日本の道の概念を理解するのに苦労しているさまがよく現されています。ちょっとしたレポート程度の薄さです^^