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ウルグアイ出身作家。
「はかない人生」「井戸」「バゴボと他者」収録。
【はかない人生】
主人公の現実が行き詰まり、精神の行き場として「現実」「自分が作り上げたもう一人の自分という虚像」「自分が書いているシナリオ」の世界が入り混じるという小説構造。語り口はウジウジグダグダ。
映画にすれば「バートン・フィンク」のような雰囲気のイメージ。
大事なのは小説の構成と主人公の精神浮遊と街の雰囲気で、粗筋はあまり意味がないかもしれないんだが、雰囲気を現せるように筋を書いてみる。
≪以下完全ネタバレ。ただし読み間違えてるかも/^^;≫
★★★
語り手はモンテビデオに住むブラウセンという男。
愛して結婚したはずの妻ヘルトルディスとは、彼女の乳癌手術後うまくいかずに別居中。ヘルトルディスの妹ラケルに妻の面影を見出そうとするがうまくいかない。
勤めている広告会社は解雇寸前。同僚で友達のスタインはヘルトルディスと関係があったが、ブラウセンはヘルトルディスに囚われなかったスタインが疎ましくも思える。
ブラウセンは広告会社での仕事として映画のシナリオを考えている。主人公はサンタ・マリアという架空の町に住む医師ディアス・グレイ。彼と彼を訪ねてきた不審な人妻エレーナ・サラとの不倫関係が進む。
そんな折、ブラウセンは隣に引っ越してきた娼婦ケーカの生活を壁越に聞き、自分の名をアルセと偽り(当然隣の住人とは告げず)ケーカと関係を持つ。
陰鬱としたブラウセンの精神は、ディアス・グレイとアルセの二つの世界に別の自己を求める。
初めに動くのはディアス・グレイの世界。シナリオであるそこに、ブラウセンの現実の人物が交りだす。ディアス・グレイは作者であるブラウセンの影を探す。
アルセであるブラウセンはケーカに暴力を奮う。
アルセはブラウセンを自分の中に封じ込めようとする。
正式に会社を解雇されたブラウセンはその後もディアス・グレイのシナリオを考え続ける。
ブラウセンはヘルトルディスの死を考える。エレーナ・サラの死を考える。ケーカの死を考える。
”「ここ数年、君は露骨に僕を騙していただけじゃない」とスタインがぶちまけた。「君は気づかなかったが、僕にはわかりかけていた。顔つき、態度、言いぐさ、そのすべてが僕を瞞していた。ここにブラウセンがいる。ところが突然、同じ声をし、同じように小首をかしげ、バラバラ殺人の犯人のスーツケースを股の間に挟んで、そのブラウセンが、あるいは別のブラウセンが、つじつまの合わないことを言いだし、おれに遠い過去のことを反省させ、自分の本当の貌が見つかるまで、ありとあらゆる感情を穿り出させる。そんなことをしても無駄だと思うのだが」”
そしてエレーナ・サラがディアス・グレイの隣で死ぬ。彼女と夫のラーゴス氏はモルヒネ転売の詐欺グループだった。ディアス・グレイは、訪ねてきたラーゴス氏とその詐欺仲間たちと滑稽な逃避行に加わる。
現実世界でも、ケーカが尋ねてくる男の一人であるエルネストに殺される。
ブラウセンは、この殺人は自分がしたかも���れないことだとエルネストを匿い、二人で警察から逃げる。
逃亡先はサンタ・マリア。ブラウセンの作った街。
”黄色く変色した古い新聞が宿屋の窓に貼ってあり、日射しを防いでくれていた。おれはそれを破いて、サンタ・マリアの方を眺め、そこに住んでいるすべての人間は俺が生み出したのだと再び考えた。また、こうも考えた。彼らに愛は絶対であることを理解させ、愛の行為の中に彼ら自身を認めさせ、この概念を永久に受け入れさせ、時とその荷が明確な啓示から死に至るまで流れている川床の中で、その考えを変えさせることもできるのだ。そして最後に、彼らの一人一人に彼らが生きてきた意味を理解るために、輝かしい、苦痛のない死を与えることができるのだ。”
サンタ・マリアのカーニバルの中、ディアス・グレイとブラウセンの世界は重なり、それぞれの道化た逃避行から落ち着いて立ち去る。足を引きづり気味に、誰からも逃げず、誰に出逢うことも期待せず。
★★★
バルガス・リョサは、オネッティをラテンアメリカ小説の重要な転回点と位置づけ、この作品は入れ子式の技法のお手本と称賛している。
しかし作品として掴みどころがないのは主人公が妄想に暮れるだけだからか。現実がうまくいかないが努力もしない、希望を求めているわけでもない、かといって破滅を望んでいるわけでもない。そのため最悪の事態にもならない。
しかし同じ入れ子であってもバルガス・リョサのそれは、現実と幻想が交ることはないですね。バルガス・リョサでは「現在のAと3年前のBが会話」することにより状況を浮かび上がらせたり、「4つのシナリオの登場人物があっちに出たりこっちに出たり」はあっても、現実はあくまでも現実、シナリオはあくまでもシナリオ。
オネッティ作品は初めてですが真面目な人だと感じた。そのため作者本人が「オネッティという、メガネをかけた愛想の悪い、よほど親しい友人にしかこうい好意を持たれない男」などと自虐的にちらっと登場されるとちょっと戸惑う。先生、ここ笑っても大丈夫なんですか(==メ)。
そして終盤、ブラウセンがエルネストと訪れたサンタ・マリアのカフェでフンタという男が出てくるのは、一応作者のお茶目だろう。同じ作者の「屍集めのフンタ」は未読ですが、調べたら舞台はサンタ・マリアで、ディアス・グレイ医師も出てくるようだし。
なお、「サンタ・マリア」という町は、オネッティがフォークナーのヨクナパートファから影響を受けて創造した彼の創作の舞台になる町。他の作品の舞台としても出てくる。
フォークナーの南米文学に与えた影響の大きさよ。
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【井戸】
”まったくいろんな嘘の付き方があると言われるが、いっとう卑劣な嘘は、ありのままの真実を語りながら、その真実の魂である真実を隠蔽する嘘だ。事実は常にからっぽである。器のようなもので、その中に盛り込まれる感情に従って形が定まる”
オネッティの作品が評価される起点となった作品。これまたバルガス・リョサが称賛してる。「ラテンアメリカの社会を書かず、一人の人間の内面を書いたこと」が要因ということらしい。でもバルガス・リョサ��「語り手のウジウジグダグダ」を書いたらもっとパワーに溢れちゃいますよ。
「井戸」の語り口は「はかない人生」以上にウジウジグダグダ陰々鬱々。
小屋で女とヤッただけじゃないか
俺が話をすれば白けやがって、魂が清らかな人間なんていないのかよ
女は25で精神が止まるんだよ
ブルジョワの奴らを憎んでる
元妻は行動だけで俺を判断しやがって精神を見ようとしない
気に入った娼婦は恋愛ごっこでタダでやらせろ、いやそれよりも俺の話を聞け
金返せとかうるせー
すべてがどうでもいい、くだらなくて胸糞が悪くなる。人間も人生もお行儀のよい詩も。俺は部屋の片隅で寝転がってあてどもなく空想するだけ。疲れた。世の明ける前に眠ってしまおう…。
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【ハコボと他者】
★★★
病院に担ぎ込まれた瀕死の男、どうやらプロレスの興行の敗者らしい。
数日前。元世界チャンピオンの老プロレスラーのハコボと、マネージャーがサンタ・マリアへ金稼ぎ興行にやってくる。ハコボはすでに五十歳。今回の挑戦者は二十歳の隆々たる若者。マネジャーは町から去ろうとする。今までのハコボの勝利だってマネジャーの私が脅したり金掴ませてのものなんだよ。とてもハコボに勝ち目はない、それなのにハコボは自分に自信を持って試合に出るなんて言っている…。
★★★
うん、えっと、うん、
上の二作でオネッティは陰鬱だと思い込んで警戒しすぎておりました(笑)