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彼特有の現象学的身体論でもって60年代、70年代に活躍した建築・美術・演劇・舞踊などの作家たちの仕事を読み解いた論集。演劇でいえば、夭逝した観世寿夫、同じく寺山修司、そして鈴木忠志。とくに「他者による顕身」と題した鈴木忠志論は稿も多く詳しい。利賀山房だけでなく常連のようにその舞台によく親しんだのだろう。
私自身、市川の「精神としての身体」や「身体の現象学」は、メルロ・ポンティの「知覚の現象学」や「眼と精神」とともに教科書的存在として蒙を啓いてもらってきたし、同時代を呼吸してきた身としても、彼らの仕事に対する市川の読み解きはずしりと重さをもって得心させられる。
ふりかえってみれば、戦後60年のなかで、中村雄二郎ら哲学者たち或いは文芸評論家の蒼々たる顔ぶれが、芸術の実作者たちと真正面から向き合い、互いに共振・共鳴しあった、特筆に価する時代が60年代、70年代だった、といえるだろう。
Slow-motionとClose-up
日常の行動であれ、スポーツの動作であれ、それがSlow-motionで再現されると奇妙に舞踊といったものに似てくるという経験はだれにでもあるだろう。
動きというものはそれがゆっくりと展開されればされるほど、Reality=現実感から遠ざかるものなのだ。日常的な行動としての意味やスポーツの動作としての意味は失われ、既視感に満ちた一連のまとまりは解体させられ、なんともしれぬ不気味とも不可解ともいうべき世界が立ち現れてくる場合がある。
それは空間的にいえば、micro-微視的からmacro-巨視的へ或いはその逆行、detail=細部の超Close-upにも似ているといえよう。Close-upが映し出すなにか得体の知れない不気味なものへの不安は、カメラが引きその全景が見えてくるにしたがい、それが眠っている人の瞼のひきつりに過ぎないことが分かってしまえばやっと安心することになるが、Slow-motion化はその逆の過程といっていいものだ。
日常的な行動のひとつひとつにも、はじまりかけては抑止され、意識されないまま未発に終ってしまう可能的行動のさざなみのようなものがある。それらのさざなみにともなう無意識の情動は、日常的な行動の連鎖に覆い隠され、抑圧ともいえぬほどの軽微な抑圧によって滓(おり)のように沈殿し、われわれ自身気づかぬ鬱屈を積もらせていく。
Slow-motionやClose-upは、日常的・実用的な行動の意味を解体させることによって、未発に終った可能的行動や表出されなかった鬱屈を滲み出すように現前させる。それと同時にわれわれの眼差しを非日常的な視線へと変換することによって、Metaの眼の可能性さえも開示することになる。