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黄金の魚 (1923)
おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない
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タイトルが素敵。惹かれる。
不特定多数の人に向けてではなく
“決まった誰か”に向けて発せられるつぶやきのよう。
この時代にツィッターがあれば
多くの人にフォローされそうな語りかけ。
でもツィッターほど軽くない。谷川さんだもの。
ことばを操る天才だもの。
都会的でtenderな日常詩集。
読み手にさらりと疑問符の変化球を投げかけてくる。
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渋谷は南口東急プラザ5F紀伊国屋書店にて購入した谷川俊太郎の1975年青土社より刊行された詩集。価格や装丁も含めて絶品。
キッカケはドストブーム再燃の火付け役亀山郁夫。
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ちょっと難解だった。
語りかけるように即興で書いた詩集、なのかな。
感情が強すぎて、多分その場にいなければ分からない言葉もある。けど谷川さんの詩集の中で、いっとう好き。
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「 正義は性に合わないから
せめてしっかりした字を書くことにする 」
たちよみ。
詩ってよくわからないけど
わからないなりに、これはいいものが書いてあるような気がした。
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負けたなあ。
一番初めに思った感想がこれです。別に谷川俊太郎さんと競っているわけでも、勝手に目の敵にしてるわけでもないけど、この人には勝てそうにないなあ、と本気で思った。
「きみが怒るのも無理はないさ
ぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言っている
しかもしらふで」
だなんて強烈な告白で…!もう、醜かろうがなんだろうがついていきますとも!その先を一緒に見ますとも!
1度目読んだときはため息しか出なかったけど、何周もすると勝手に返事ができるようになりました。
だけどこの人には相槌を打つことしかできないだろうなあ。いや、負けたなあ。
図書館で縁あって借りられてよかった!取り寄せたいと本気で思いました。出会えて本当によかった!
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この詩集の中でドキリとさせられたのは冒頭の「芝生」という一篇です。
芝生
そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ
この詩には谷川俊太郎氏の処女詩集「二十億光年の孤独」に通じるものがあると思います。
三好達治氏は「二十億光年の孤独」の序に代えて書いた「はるかな国から」という詩の最後に「ああこの若者は/冬のさなかに永らく待たれたものとして/突忽とはるかな国からやってきた」と書いています。また、角川文庫版「谷川俊太郎詩集」の解説の中で、詩人の大岡信氏は、谷川氏の詩の感傷性が「自分はひょっとしたら、地球という小さな惑星へ置き去りにされた別の天体のみなし児ではないのか、というような〔中略〕ものに近い」と書いています。
詩集「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」で詩人は、宇宙のどこかはるかに遠い場所から突然に芝生の上に(あるいは夜中の台所に?)置き去りにされて、しかも人間の幸せについて語りさえするのです。
詩人の感性は「日本人」なんて矮小な枠組みとは無縁です。だからこそこの詩集のなかの言葉はとても斬新で、多くの人の心の奥深くまで届くのでしょう。
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大学の先生からもらって読むことができた。突き刺さる感じが好きだと思った。人とのあいだに横たわる大きな孤独の存在をニヒルに笑いとばして生きている。かわいてるなと思った
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詩集なのか、エッセイなのか、このとき、谷川俊太郎さんは、君とか、あなたとか、そういう風に言っていた「女」という存在をどんな風に捉えなおしていたのだろう。いろんな想像を湧き起こさせる。
でも、こんな風に悩んで、考えて、言葉にして、男と女が出会い、関係していたとしたら、きっとしあわせだろうなと思う。思春期をむかえる頃、出会っておきたかった詩集です。
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はじめて詩集というものを読んだ。日本語は奥が深いなあと思った。高校生の読書感想文の課題図書らしい。これに対してどんな感想をもつんだろう。なんどか読んでみないと感想も思い浮かばん。
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言葉の力を感じる。
でも言葉にしてしまうことで奥にある何かが弾けてしまう感覚。
さらけ出そうとするんですが
さらけ出した瞬間に別物になってしまいます
比喩を用いていろんな言葉を引っ張り出して詩を書いているくせに、どこか言葉の力に絶望している姿勢。
あるものにスポットライトを当て、その意味をいろんな方面からいろんなものを絡ませて考えるが、やっぱりこれは意味のないもの、ただの現象なんだよ、という結論。
でも素直な感情が乗っかってる。
目に見えない、証明できない存在を静かに描き出してる。
言葉だけを用いるから現実の中の実現しない世界観を表現できている。
これは何度も何度も読み返したい。
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詩とはある意味
私的な言葉遊びと言えるかもしれません。
でも、
それを単なる遊びで終わらせないのが
詩人なのでしょうね。
べそかきアルルカンの詩的日常
http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
べそかきアルルカンの“スケッチブックを小脇に抱え”
http://blog.goo.ne.jp/besokaki-a
べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2
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詩集の楽しみ方がまだ分からん、、
何個か好きなのはあったけど、その他わからんかった
いつかまた読みますわ、。
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古本で購入。
文字の滲みがよい。
全然黙っているっていうのも悪くないね
つまり管弦楽のシンバルみたいな人さ
一度だけかそれともせいぜい二度
精一杯わめいてあとは座ってる
そんなキレ方、かっこいい
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珍しく詩集に手を出してみた。
1975年に青土社から出版された谷川俊太郎の詩集。
本の天地に設けられた十分すぎる余白が、読み手の心に余韻を残す手伝いをしてくれる。
時代背景に想いを馳せながら読んでみると、色んな情景が浮かんでくるかもしれない。
とはいえ、作品の世界観や作者の心情を正しく理解するのは難しい。詩というのは、正しい理解を目指して読むものではないのかもしれないけれど。
詩の楽しみかたを勉強したり、時代背景に10年、20年経って自分の境遇が変わったら、感じ方が変わるのでしょう。