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アメリカなどで禅に関して読まれる鈴木大拙師の書物。
本書は体験に基づく手引きとして、禅を指導する場合の教科書として、使われるという。
●欧米からの修禅の人たちも多く・・・それらの人たちが、自国の知的な学問や自我中心の文明に飽き足らず、日本に禅を学んで、それが持つ「中心がいたるところにあって周辺がないという実在感」に立脚して、今や無我の正覚に根ざした文明的転換をはかろうとしている。
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漱石の主人公も、禅の小難しいところには拘ることなく、なにかの処方箋を求めて参禅に向かった。臨済宗や曹洞宗や禅師のおっしゃることを読み解こうと思うと難しいのかもしれない。しかし、知識を頭から飲み込んで整理して開放感を味わおうというのは、禅の考えから言えば、邪で真反対であろう。頭で考えるのではなく、素直に、思い立ったら実践という、どちらかといえばプラグマティックで大衆的なものだ。・・・・というふうに、武家社会で指導者層の禅への系統が続く中で、日本では消化されてきたのではあるまいか。
体、息、心の整え方は、禅うんぬんを別にして、役に立つ。
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全なるものは自己の外にある神でも仏でもなく絶対者でもない。それは個そのものに即した全である。そこで個はもともと全に即した個であり全は個そのものに即した全であったことが知らされるのである。
こうしてわずか五尺の糞袋に過ぎないと考えていたこの赤肉団そのものが、実は何ものにも限定されていない無限にして永遠のいのちであったと知るところに我々は限りある立場から解脱できる。
人格の根源とか真実の自己とか言われるものはそのような永遠のいのちを言うのであって、しかもそれは、じつはこの生身の体のほかにあるものではない。
こう知るのが禅定の本質であり、同時に臨済禅における人間自覚の仕方なのである。
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今の瞬間にいつでもの永遠性が輝き、ここの有限にどこでも無限性が現れ、我の生身にだれでもの普遍性がおどりだす所にはじめて禅の世界がある。
坐禅そのものが成仏の姿である