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宮本武蔵が書いた本を
著者がわかりやすく伝えてくれています。
アメリカのビジネス書として読まれているらしいですが
日本でも同様に何の世界でも通用する考えだと思います。
「刀は相手の太刀をよけるためでも、受けながすためでもなく
あくまでも相手に一太刀をあびせるために振る。
相手の太刀をかわすことを考えている時点で負ける。遅い。」
こんなちょっとしたことが人生の一瞬一瞬で考えれるように
自分を奮い立たせてくれる一冊です。
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武士道の本というより、剣術の本だと思う。そういう視点で見れば、とても具体的で、なるほどと思う点も多い。例えば、形を追求しても、形にとらわれるべきではない、というくだりはコラムのネタに使わせていただいた。全体に表面だけで剣術を捉える他流派に対する非難が書かれているところがなんとも新鮮。この時代から剣術は形骸化していたのだろうか。
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宮本武蔵は、頭の上に置いた米粒を剣で二つに割れるくらい、正確な腕を持っていたと聞いたことがあります。
野生児だからこそ型にはまらず、天性の勘で闘いのセンスを持っていたのでしょうか。
こんなことを真剣に考えていたのか!という項目もあり好きな人は好きな内容でしょう。
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目の付けやうは、
大きに広く付くる眼也。
観見(かんけん)二つの事、観の眼つよく、見の眼よはく、
遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。
敵の太刀をしり、聊かも敵の太刀を見ずといふ事、兵法の大事也。
心眼という言葉があるように、
視ることとは、その対峙するもの、対象に対して、
眼をとおして身体全体で、<心-身>を総動員してあることが前提とされていよう。
いわば、<身―構え>と云うべきものが。
通常、視るとは、自分の居場所、その固定点からのパースペクティブ―遠近法
的な座標なのだが、
大きく広く、<観>と<見>、強く・弱く働かせよ、遠き所を近く、近き所を遠く
ひとつの舞台を創っていく作業でも、或は作品を鑑賞する場合でも、
同じようなことが言える。
能では、<離見の見>と云う言葉があるが、
この語もまた、<観―見>と相似た地平にあるだろう。
俯瞰あるいは鳥瞰することにも通じるものを感じさせる。
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一切の甘えを切り捨て、ひたすら剣の道に生きた絶対不敗の武芸者宮本武蔵。武蔵は、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」る何十年にも亙る烈しい朝鍛夕錬の稽古と自らの生命懸けの体験を通して「万里一空」の兵法の極意を究め、その真髄を『五輪書』に遺した。本書は、二天一流の達人宮本武蔵の兵法の奥儀や人生観を知りたいと思う人々のために、『五輪書』の原文に現代語訳と解説、さらに「兵法35箇条」「独行道」を付した。
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合気道を学ぶ上で剣術は基本となるので読んでみる。
精神性ではなく、徹底して合理性を重んじているのが面白い。
意外であった。
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ま、あたり前の話なんだが、こういうセンスとか勘とか、何か「言葉ならざるもの」で体得している技術を、「こういうことなんだよ」と言葉で説明するのって難しいなあ。
現代なら、優秀なライターがなんとかものにしてくれる場合はあるのだろうけど。
にしても五輪書、「詳しくは口伝で」って、ええー!そこを読みたいのにー!
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本職が物書きではない人が、自分が学んだ全てを1冊で表現しようとした書。
故に抽象的な表現が多く、すんなりと入ってこないが、反芻すると旨味が出る、奥の深い書。
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まさに武道に関する研究書。研究目的ははっきりとしていて「人を斬るための成功要因を探求すること」。「人をよく観る」や「工夫する」、「先手を打つ」「平常心」という合理的な考え方は現代でも役立つ。
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宮本武蔵という求道者の生き方。
タイトルの五輪とは、地、水、火、風、空の五巻を指す。
地は己のみを頼みとすることなど思想について。
水は普段から見るのではなく観ることなど剣術について。
火は戦いにおいて機先を制することなど戦術について。
風は長い剣を有利とすることへの異論など他流派に対する批判について。
空はまとめの文章が書かれている。
吉川英治先生の宮本武蔵を読破した後、
宮本武蔵の実像に触れたくて読んでみたが、
相変わらず宮本武蔵という男はよくわからないが、
この本を読んで伝わってきたのは、
自慢話のような無駄なことを一切せずに、
ストイックに勝つことを追究する宮本武蔵である。
そんな武蔵の思想を訳者の鎌田先生は、
司馬遼太郎先生と同じく「合理主義」と評している。
確かに勝つための効率を優先させる思想である。
だが、吉川先生の「精神の剣」も虚構では無いと思う。
鎌田先生が書いた通り、徹底した合理主義者の生き方は、
かえって非合理的に見えるということなのだろう。
いずれにせよ、どんなに時代が変わったとしても、
彼の武術の達人としての生き方には学ぶ点が多いはず。
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宮本武蔵の勝負に対するひたむきな姿が伝わってきた。別れや恋慕にも心を動かされてはならないというまさに勝負のために生きている。勝負は美学ではなく勝つことが目的であり、そのために剣術だけでなく、考えられるあらゆる方向から検討を加えるようにしている。他の書物を読まずともこの書物だけで理解できるよう、後継への心遣いもしているところが素晴らしい。
以下メモ
・心を一か所にとめず自由にすることで柔軟性や力量が発揮できる。
・物事には拍子があり、流れに乗るためには良い拍子を心がけ、相手に勝つためには相手の拍子を外すことが肝心
・広く多芸に触れ、実直を見分ける力をつけ、わずかにも気を配り、無駄なことはしない。
・無心でなければならない。無心とは平常心を保つこと。鏡のようにどんな姿を映そうとも鏡自体は変化しないように。
・見の目、観の目で見ることが必要。目や耳は自分のとらえたいようにしか感じない。心の目で相手の気配を捉えることが大事。
・身を太刀よりも先に行くつもりでないと斬れない
⇒リスクをとらねば勝てない。
・先手を取ること。相手が攻めてくるとき、自分から攻める時、両者が攻める時、いずれも先手で勝負が左右される。
・小手先だけで踏み込まない。太刀、足、身、心全てで踏み込む
⇒中途半端な対応をしない
・敵の身になって考える。敵の立場から自分は今どのように感じられるか
・鼠の頭、午の首。細かいところから大局まで考える、視点を変えてみる。
・不動の心とは動かない事でなく、前後左右に自在に動きながら対象にとらわれず、少しもとどまらない心をいう。相手の動作に心をとめてはいけない。
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人を斬る事をひたすら追求した指南書というべきか。朝鍛夕練、幾度となく命のやりとりをした武蔵の武士道の精華。
現代の我々には想像もつかない人生を歩んだ武蔵の兵法書であるが、それでも時を超えて我々にいろいろな示唆を与えてくれる。
「兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。」
「鼠頭午首といふは、敵と戦のうちに、互いにこまかなる所を思ひ合はせて、もつるる心になる時、兵法の道をつねに鼠頭午首そとうごしゆとおもひて、いかにもこまかなるうちに、俄に大きなる心にして、大小にはかる事、兵法一つの心だて也。平生人の心も、そとうごしゆと思ふべき所、武士の肝心也。」
「道理を得ては道理をはなれ、兵法の道に、おのれと自由ありて、おのれと奇特を得、時にあひてはひやうしを知り、おのづから打ち、おのづからあたる、是れみな空の道也。」
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何度も読み返すべき本の類か。けふはきのうの我にかち、明日は下手にかち、あとは上手にかつこれは座右の銘にしよう日々鍛錬することがいかに重要かを説いている。千日の修行を鍛といい、万日の修行を錬という。このような心がけ。重要だ。最後の独行道もよい
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"現在の仕事道にも活かせる思考、兵法。目的は何かを常に考えて行動すること=剣の奥義は何か?人を殺すこと、太刀を交えるからには真剣勝負である。
生き方にもつながる大事なこと。太刀振る舞いに無駄があってはいけないのである。常に全体を俯瞰して眺めておきながら、心は常に止まることなくなめらかに、と水之巻がとても印象に残っている。"
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年末年始の休みで少しボケ気味の自分に喝を入れようと思って、手にした一冊。
宮本武蔵が、自身が剣(=敵を斬る剣)の道を極めたと感じたのは50歳のとき。そして、その奥義を60歳の時からしたため始め、二年の歳月を経て出来上がったのがこの『五輪書』。
「朝鍛夕錬(ちょうたんせきれん)」という言葉が何度も出てくる通り、奥義を極めるには近道などなく、朝に夕に鍛錬を重ねることがまず中心。そして、それを効果的に行うために何をすべきかを、五つの巻(地、水、火、風、空)に分けて説く。
徹底した合理主義で、とてもここまでの真似は凡人にはできないなと思いつつも、現代でもそのまま通じる指摘があちこちに出てくるから、読むのを止められない。例えば、無心と平常心のくだり。無心とは心があっても動揺しないことであり、それすなわち平常心。真の技を発揮できるのは平常心を持っているからこそ。また、相手の動作は「見る」が、相手の気の動きは「観る」という指摘は、目先だけにとらわれていては先が見えなくなることに通じる。
剣の奥義が様々なことに応用が効くというよりは、奥義を極めた人は物事の本質を見抜くことができている、ということなのだろう。読んでいると自然に背筋がシャンとしてきて、期待通りの喝が入った。