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川下勝『フランシスカニズムの流れ』聖母の騎士社,1988年
カトリックの修道会、フランシスコ会(「小さき兄弟会」)の歴史である。1210年の公認から1517年の分裂までを扱っている。グレゴリウス7世らが聖職売買や妻帯聖職者に頭にきて、彼らを断罪して教会の綱紀を粛正、ついでに神聖ローマなど世俗権力が聖職者を叙任するのはケシカランとやって、「カノッサの恥辱」などの騒動になったのは、世界史でならう。この「グレゴリウス改革」のツケで、「聖職者がそんなに腐敗してるなら勝手にやるもんね」という宗教運動(清貧運動)がたくさん起こってしまう。この宗教運動のなかから、改革派がでてきたり、異端でてきたりして、13世紀はじめのヨーロッパはたいへんなんである。
この始末に、イノケンティウス三世が托鉢修道会を公認し、それまで聖職者にしかゆるされていなかった説教を托鉢修道会の特権として与え、異端をカトリックに連れ戻そうとした。フランシスコ会はその厳格な生活で信徒の手本にし、ドミニコ会はその学識で手本にしようという意図であった。初期フランシスコ会は全ての所有を放棄した修道士たちの集団だったのだが、1230年には聖職者(司祭)に叙階された会員が多数になり、聖職者修道会になっていった。異端と論争するなら学問がなくてはならないから当然の変貌だった。また、おなじく1230年には金銭の受領がみとめられる。とはいっても、直接もらうわけにはいかないので、「霊的友」とよばれる在世の人の所有というということにして、会員はそれを使用するだけということになる。所有と利用の分離なんて中国共産党みたいである。
その後、説教の特権をめぐって教区司祭との間で闘争が起こる「托鉢修道会論争」(1252-74)がおこる。トマス・アクィナスとボナヴェントゥラ、この二人はライバルだけど、それぞれドミニコ会・フランシスコ会の会員だから、一致協力して托鉢修道会弁護にうごき、托鉢修道会の特権をまもった。トマスとボナベントゥラは托鉢修道会員を大学教授にしないという規定を撤廃させてパリ大学にポストをえた。
1257年にはフランシスコ会のなかのヨアキム主義にそまったセクトが異端宣告をうけている。ヨアキム主義というのは一種の終末思想で、1260年に肉の「教会の時代」は終わり、「霊の教会」の時代がはじまるとし、「霊の教会」の時代はフランシスコがキリストであるとやるのであるから、カトリックとしてはたまらない。
1279年から、「托鉢修道会論争」が再燃して「司牧特権論争」というのが起こる。托鉢修道会は説教の特権はまもったけど、教区司祭とのすみわけとか説教者の数のバランスとかややこしい話になる。
1274年からはじまる「スピリチュアル論争」というのはヨアキム主義の復活で、フランシスコが書いた会則は神からの啓示だから教皇といえども変更や解釈はゆるさん、「文字どおり」守るべしという過激派がでてきて、弾圧したり、処刑したりしている。
1322年には教皇ヨハネス22世が「主キリストと使徒たちが個人としても共同体としても、何も所有していなかったと頑固に主張する者は異端者にしなければならないか」というテーゼで公開討論を要請、���清貧論争」がはじまる。修道会存立の危機と感じたフランシスコ会は教皇に決着をつけないように懇願したり、教皇を悪魔だとしたりする過激派もあらわれて、異端扱いされることになる。エーコーの『薔薇の名前』で描かれた時代である。これを期に、コンヴェントゥアル主義(緩和主義)が生まれる。
1398年から1417年まで、ローマとアヴィニョンの「教会分裂」の時代は、複数の教皇がたって大騒ぎになるが、教皇直属の修道会も自らの良心にしたがって教皇を選んだから、修道会も総長が複数立って分裂することになる。教皇たちも味方をつくるために特権を乱発し、財産の私有を特許したりして、修道会が堕落する。ペストの流行(1348年〜61)ではたくさんの会員が死んだが、当然一般の人も相当たくさん死んで、「厄除け」のためか、修道会に寄贈される財産がふえてしまい、この時代に修道会は豊かになってしまった。ペストや教会分裂が収まると、いろんな修道会でオブセルヴァンテス運動(会則遵守の運動)が起こり、これが結局、厳格派と緩和主義の分裂をおこすことになり、16世紀初頭の分裂につながっていくのである。