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もっと読み込めば、もっと好きになりそうなので、4にしておく。
「カノコ殺し」に衝撃を受けて買ったけど、これが特別でもなんでもなくみえちゃうのが伊藤比呂美なのですね。「虚構です」「生きた男の一部分」「蠕動」「古本」「アウシュビッツ・ミーハー」…ううーかっこいいっていうか、人間である前に女ですよね、この人の作品は。魂レベルで女って感じ。ぞくぞくする。
詩人論もよかった。アラーキーの短い文章が特に印象的だった。
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滅ぼしておめでとうございます
と、1990年ごろに初めて遭遇した本。
購入価格は、税込みで880円とある。
消費税が3%のころ。
女性の生理的なことを主題にした詩もあり、この詩集を読むと「女性を知る男」も、もっと「女性」が理解できるかも知れない。
伊藤比呂美氏は、1955年生まれだから。この詩集を発行した時点で30歳。
詩が書かれたのは、もっと若い時期。
この詩集が、私が女性の書いた文学に興味を持った始まりかも知れない。
女性というのは、様々な点で男より面白いし興味が尽かない。
どんなに偉そうにしようと、高貴なお方でも女性の股間以外から人間は生まれない。
極論を言えば精子さえ確保できれば、男は人類の存続に半数まで必要はない。
ちょっと男を借りてくれば、ことが足りる。
人が死に直面したとき、「おかーちゃん」はあるが「おとーちゃん」とは言わない。
老後、妻を亡くした男は早く死に。夫を亡くした女は長生きするようである。
女性のほうが、「一人で、生活する力」は確実にある。
私の伯母は、戦争で夫を亡くし再婚せずに一人で子供3人を育て上げたあと10年ほど前まで長生きした。
この時代、男よ。
家事を習得せよ。
炊事・そうじ・洗濯・裁縫の基本は必ず習得せよ。
老後に、困る可能性がある。
家事の取得が、生死を分ける。
ただ、女性と同じリング(場)で同じような立場で同じ仕事するのはちょっと‥‥
フフフ‥
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音としての言葉の呪術。生と死の舞踊。言葉の繁殖。読んでいる内に、妙に気分が高揚して、口からことばがこぼれる。
余談ですが、宮沢賢治が、生と死を、光と純粋さにおいて捉えたことに比べ、伊藤さんはより多産性と多死性とでも呼べるような相から生と死を捉えています。
※YouTubeにあがっている、伊藤さんの憑かれた巫女のような朗読を聴いて、この本を買いました。
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爆弾のような言葉。
日常と妄想のまじりあったドロドロした言葉。
「美しい日本語」なんて欺瞞に満ちた境界をぶち壊してくれる言葉。
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今から30年近くも前に出版された、散文詩とエッセイが収録された作品集です。
女のドロドロした部分をさらに煮詰めた後、周囲を憚らずに漫然と垂れ流したり、誰彼構わず投げつけているような印象を受けました。驚くほど感情に正直で生々しい表現の数々。『きっと便器なんだろう』『オオアレチノギクを抱きかかえる』『叫苦と魂消る』『カノコ殺し』『ハラキリ』『コヨーテ』が印象的。こうタイトルを並べるだけで世界観がどことなく伝わるかと思います。
「生と死」や「性」を扱った作品が多く、過激で暴力的な表現にぎょっと、時にぞっとすることも多々ありました。自分の腹の底に沈んでいる女の黒々とした感情が引きずり出される気分に。激しさのなかにある、孤独や寂寥が痛々しい。
巻末の荒木経惟さんの文章がとても秀逸です。「メスっ気」って素敵な表現。
総じて女性的な作品だと思ったので、男性が読むとどう映るのか気になります。
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すげ~~~~~露骨に性的なものをぶちまけてくるな・・・すごい・・・ある意味で怖いくらいだ・・・。
女性ならではの視点での汚い感情や行為・・・すごい・・・。
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伊藤比呂美詩集
(和書)2009年06月26日 14:38
1988 思潮社 伊藤 比呂美
確か高橋源一郎の書評か何かで読んで購入した記憶がありますが、この本を購入した動機はほとんど記憶がないので忘却してしまいました。
そして購入後読む段になって、なんだか恐くて読み気が起きなかったのです。購入以来何十年ぐらいたったと思います。伊藤比呂美の詩がもの凄い破壊性をもっていて読むと自分がどうにかなってしまうと考えてしまっていたと思います。
でも今回読んでみてそうではない、破壊するのではないかいほうするのだ、優れた作品に共通するものとして宗教の批判(マルクス)と言えるような諸条件を覆そうとする僅かな試みが息づいているように感じます。
その姿勢は一見ありきたりに見えるかもしれない。でもその姿勢はとても重要なのだと思うのです。
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ここ数年、伊藤比呂美さんのエッセイ(という区切りをしておられないらしい)を読んできて、いくつかご本も読ませてもらってきたが、やっと原点に触れた気がした。たぶん、これだけじゃ足りない。ただ若いころからの伊藤比呂美さんのたどってきたものが、この詩集を順に読むことで、少しだけ追体験できる気がした。
私は茨木のり子さんとかあたりの詩を好んで読んできたから、伊藤比呂美さんの繰り出す言葉は毒々しくて生々しくて、この詩集が発刊された当時手に取ったとしても、おそらくは受け付けなかったような気がする。
ただ、何かアンソロジーというのか、いろんな詩人の作品をテーマ別に集めた詩集で初めて伊藤さんの詩を読んだときの衝撃を思い出している。おそらくこの詩集が発刊されたくらいの時。頭の中に残ってた印象と若干違ったけど、「きっと便器なんだろう」ではなかったかと思う。
読んでいるうちに、伊藤さんが思春期に差し掛かろうとする子どもさん二人を連れてアメリカに渡ったのは、そのお子さんたちから伊藤さんの過去の作品を遠ざける目的はなかったのかな・・とふっと思った。
それと、詩人であることは狂人でなければならないのかな‥と言うことも思った。
私が大人になって詩というものを書けなくなったのは、根本のところで、私には言葉を紡ぎだす覚悟が足りないからではないか‥とも。