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金玉鳳凰が物語りを話す。話が佳境に入ったところで,だんまり。王子がたまりかねて話しかけてしまう。そうするとこの鳥はサラの森に飛び帰ってしまうのだ。しかし,何度でも捕獲できるので,話が繰り返していく。いったいどういう結末を迎えるのだろうか。どこまで繰り返すのだろうか。いらいらしてきた。2010.1.5
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王子がようやく我慢できるようになってくれて,良かった。2010.1.13
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はるか遠い地から金玉鳳凰を連れ帰る定めを負った王子。首尾よく鳳凰を捕らえた王子だが、無事連れ帰るためには、鳳凰と口をきいてはいけないことになっていた。捕らえられた鳳凰は、王子に物語を語り始める――。
小2の娘にすすめられて読んだら、予想外におもしろかった。鳳凰が実にいいところで話をやめるので、王子はつい先を問いかけてしまうのだ。私だって「それでどうなったの!?」と叫んでしまうに違いない。
王子は何度も鳳凰を捕まえ、鳳凰はそのたびに物語を語る。この物語の連なりが話の中心をなしていて、ちょうどアラビアン・ナイトのような構成だ。それぞれの物語は昔話だったり伝説だったりするのだが、話の選択や構成には一定の意図が感じられ、人の手が加わっていることがわかる。そこもまたおもしろい。
さて本書中の竹娘の話は、『竹取物語』にそっくりである。これはいささか驚きであった。
私の知るかぎり、日本には求婚の難題をテーマにした昔話がほとんどない。グリムによくある、「謎を解けばおひめさまと結婚、失敗したら死」というヤツだ。ほとんどないが少しはあって、『竹取物語』はその数少ない例のひとつだと思っていた。竹取物語自体は昔話ではないが、求婚の難題のバリエーションであり、原型は民間に流布していた昔話であろう…と考えていたのだ。
しかし原型が国外から来たものだとしたら、民間には流布していなかったのだ。やはり、日本にはこのタイプの話が決定的に少ないのだ。それはなぜなのか?非常に興味深い。
そして「竹娘」を完成形として考えたとき、『竹取物語』はそもそも求婚の難題のバリエーションではないのではないか、という気がしてきた。いい考えだと思っていたのに…。残念。
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★★★☆☆
『かぐや姫の物語』を見た後、なんとなしにAmazonで関連書籍を検索していたときに見つけたのがこの本。
アラビアンナイトのように、いくつもの短い話が、一本のストーリーによって数珠つなぎになっている。
具体的にはある間違いを犯した王子が、より聡明になるために金玉鳳凰という神鳥を探しに行き見事それを捕まえ、帰り道において一言でも喋ると鳳凰に逃げられてしまうというルールがある中、鳳凰が王子に口を利かせようと面白い話をして聴かせるという形式。
その中のひとつに『竹姫』という話があり、これが(タイトルからもうわかると思うけど)『かぐや姫の物語』の原作であるところの『竹取物語』とそっくりなのだ。
どっちが先なのか、どっちがどっちに影響を与えたのか、ということを考える人もいるだろうけど、僕にとってはどうでもいいことで、むしろこれを読んで考えたのは、竹のすくすく育つ姿に我が子の成長する姿を見るというのはどっちが先とかは関係なく人間として非常に健全なことだなということ。
親は我が子によりよく育って欲しい一心でいろいろなことを学ばせるわけだけれど、親の心子知らずというか、たいていそういう試みは子供の反発を生む。
旅の帰り道で王子は金玉鳳凰の話があまりに面白いので続きをもったいぶられると「それでどうなったんだ」と口を利いてしまう。
それで何度も鳳凰を捕まえては口を利いてしまい逃げられ、また捕まえては口を利いてしまって逃げられを繰り返すのだが、実は鳳凰はその面白い話を語ることを通じて、王とはどうあるべきか、国を治めるとはどういうことかを若い王子に教育していたのだ。
人はなぜ物語を聞きたがるのか。
それはきっと人間は物語という形式に落とし込まなければ物事を理解できないからではなかろうか。
あらゆるジャンルに「マンガで読む◯◯」という入門書があるのは身近な例だと思うし、道徳を教えるために怪談話などの形式で語り継いできたのもそういった例のひとつだろう。
それは一見遠回りでありながら実は一番効果的である。
旅人の服を濡らしたいなら、土砂降りにして雨宿りされてしまうよりも、深い霧の中を長い時間歩かせた方がいい。
金玉鳳凰が語る話はどれもワクワクさせるものばかりだ。
後に何が残るのか、なんて考えて読むより、純粋に楽しい時間を過ごすためにこの本を開いて欲しい。
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「ぜったい口をきかずに金の鳥を連れて帰るという使命を果たそうとする王子と,口を開かせようと言葉たくみにおもしろいお話の数々を語りきかせるものいう鳥,という設定で進んでゆく,珍しいチベット民話.」