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神話的だとか、非科学的だとか言われるけれど、自分の力で広く高らかに考える古代のひとのことばは力を持って生きている。たとえ断片として、散逸してしまったものでも、本当のことは記録されてなくても、伝わるようだ。彼らは目に映るもの、在るということに驚いてたまらないのだ。それは、好奇心の塊。ある意味では、そういうものに取りつかれてしまった病人。
本質を本質たらしめているものを考えたとき、タレスはそれを水だと言った。それは単なるH2Oではない。錬金術師が探し続けた金にも似て。どうも本質が本質だということを考えていたら、水と呼ぶより仕方なかった。ピタゴラスはそれを数だと言った。水が湿り気を生み出してあらゆるものを生み出すように、数はあらゆる調和を生んだ。
ヘラクレイトスはそうやって何かが何かに変わるということを考えた。ヘーゲルの弁証法はすでにもう彼のことばの中にあった。パルメニデスは、在るということと考えるということ、デカルトのかの命題に、同じように辿りついていた。
哲学は、難しいものではない。自分という存在ひとつ、これが不思議で不思議でたまらないからしてしまう。これが抽象的でも非現実的なことではない。誰よりも現実的で、何よりも具体的。
どういうわけか好奇心は生きてあるということから、どのように生きるかにシフトしていく。ソクラテスはその流れを身に感じながらも、わざと好奇心を隠してその流れに逆らわなかった。沈黙することで、雄弁に不思議を語る。だが、彼が何もしゃべらず沈黙しているのではない。饒舌でおしゃべりで。ことばを尽くして、彼は大事なことをしゃべらない。池田某のソクラテスとはこの点で違う。池田某はそんなじれったいことはできなかったから。語ることで語らず、騙る。見える世界に驚いて、素直に考え出す古代のひと達とは違って、やっぱり彼の行ったことは変わっているのだと実感。