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『コバルト・ノベル大賞入選作品集〈6〉』入選作[AGE]これで、私は若木未生に惚れました。
「五月の末頃から、親父がおかしくなった。
はじめは、靴ひもを結べなくなった。朝、会社へ行こうとして玄関に出て、靴を履こうとすると急に――結び方を忘れてしまう。
「おおい」と親父はお袋を呼んだ。
「お母さん、お母さん、ちょっとこれ、やってくれ」
手がかじかんで、と親父は言い訳をした。困ったような顔で、変だなあ、こんなはずないよなあ、と呟いている。決まって朝だった。ほかの時間だったらふんばって自分で結んでいた。
お袋は「またなの」と言いながら結んでやっていた。俺も別にそのことは気にしていなかった。
そのうちネクタイも結べなくなった。鏡の前で毎日悪戦苦闘する姿は、あんまり真剣すぎて妙だった。
六月の末、いきなり叩き起こされたあさがある。
「おい」
と親父はベッドの中の俺をのぞきこんだ。
「おい、智孝」
俺は時計を見た。5時だった。
親父はパジャマ姿で、泣きそうな顔をしていた。
「どうしたの」
眠いのと驚いたのとで俺は叱りつけるように言った。
「ボタンが外せないんだよ」
「え?」
「ボタンがなあ、きつくて、外れないんだよ」
「どこのボタンだよ」
「これがなあ」
親父はズボンのボタンを指した。
「トイレに行って用を足そうとしたらな、これが外れないんだよ。三十分くらい頑張ったけど外れないんだよ」
このとき若木未生20歳。
これは天才だ!と思いました。
何の説明も蛇足もすることなく、呆けてゆくお父さんを淡々と描写する。このリアルさ。それで、若木未生を追っかけることにしました。