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この本では序章しか訳されておらず、ここからが本当の地獄なのだろうが、現実にはこれ以上の残虐非道の事件が起きている。
ブランジ伯爵の様な猟奇趣味の権力者が実在しても、なんら不思議ではない。
人間とはつくづく恐ろしい生き物だ。
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マルキ・ド・サド(1740-1814)の『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』の抄訳と『悲惨物語』及び附録の三編。
サド小説の特徴は、人間性・美徳・宗教的道徳的なるものへの徹底的な軽侮と、異常性・悪徳・瀆神への傾倒だ。神や人間性に対する信念を無神論で以て嘲笑し辱める。
「悪徳こそ、・・・、いちばん甘美な逸楽の源泉である・・・。」(「ソドム百二十日」)
「私はね、美徳を失墜せしめてやりたいのだ・・・。」(「悲惨物語」)
登場する男たちは、他者(多くの場合は女)を己の快楽の手段として物化する。彼らにとって、女は男の欲望の赴くままに性的快楽を搾り取られる奴隷でしかなく、独立した人格とは看做さない。そこには、恐らく作者自身の、女の性に対する嫌悪と侮蔑、則ちミソジニーが表れ出ているように思う。
同時に彼らは、快楽以外の、人間的な感情や他者の人格に関わる事柄に対して、一貫して無感動だ。彼らの内面には、他者に対する人間的な共感や優しさというものについての感覚など皆無であり、目の前の奴隷に残酷の限りを尽くす。「人間性(human nature)」などと云うものは道徳家や宗教家が捏造した虚構だとして唾を吐きつけ、「美徳」だの「良心」だのと云った因習的な観念による縛めに対して傲然と反抗する。彼らは、哀れな女たちとは対照的に、一種の英雄として描かれている。
ところで、サドの小説に限らず、男が己の倒錯的性愛に耽るべく他者の人格を支配し道具化する手段というのは、決まってカネと権力と暴力だ。それによって創出される性的饗宴の自閉空間は、確かにおぞましいが、単調だ。どんな異常性愛も、言葉にしてしまえば、それまで。
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まず気をつけるべきなのは、この本に収録されているソドム百二十日は、初めの導入部分(主人公であるブランジ公爵とその弟である司教、キュルヴァル法院長、公爵の学友であるデュルセの4人の道楽者とその妻達の人物描写と、物語のメインである4ヶ月の放蕩に耽るまでの下準備の様子と、放蕩の加担者や犠牲者の人物描写まで)までであるということである。
主人公の道楽者達はどいつもマジキチであり、悪徳を愛し美徳を憎み、無神論者であり、犯罪を犯してはそれをオカズにハァハァするという始末である。
しかし、公爵の言う悪に対する見識(要約すると、「俺みたいな悪だって自然界、ひいては神様が生んだものなんだから、それに背いて悪いことしないってのは神様に逆らうのも同じ。だから俺は悪いことするお!」って感じ)には、なんだか納得させられてしまう。まあこの公爵の見識はそのままサドの思想に基づいたものらしいのだが。
ソドムの百二十日は未完のまま、サドは死を遂げてしまったそうだが、本当にそれが悔やまれる。澁澤氏の訳で完全版が読みたいところである。
悲惨物語も、ソドム百二十日の主人公達のように無神論者のサイコ野郎が主人公である。
彼は源氏物語よろしく、実の娘のユージェニーを見た目や思想までをも自分好みの女に育て上げ、自らの愛人へと仕立ててしまった。彼は自分や娘を心から愛している美しい奥さんを疎ましく思い、色々と酷いことをして奥さんを苦しめ続ける。しかし、奥さんの変わらない愛を受けて最後の最後には改心するのだが、結局救われない最期であった。
個人的に好きな部分は、「奥さんに悪いところがあったとしたら、それは夫や娘を愛していたということである」というとこ。奥さんカワイソス。あと、神父様が生きてて良かった。
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「ソドム」は抄訳で、実質上登場人物紹介と狂宴の日々のルールのみ。さぁこれから物語が始まる、というところでぷつりと終わっていますが、軟弱な自分はここまででも既にお腹いっぱい。「悲惨物語」は大変面白かった。ざまあ見やがれフランヴァル!!
文章が非常に格調高く、美しい。この文章でなければ「ソドム」など読めたものではなかったかもしれない。
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禁忌を侵すことは大抵、女性を犯すことである。男子の場合もあるけれど。・・・それが惹句として世界を動かすのだ。変態を育てるのだ。それがサドでありロリータである。極めて不毛で汚いことではないことだけは言える。正解だ!
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版あってるかな…
もはやグロテスクなポルノ
でもなんでこんなにひきつけられるんだろう
そしてある種の美が存在している
気持ち悪くなりながら読んだ
すごすぎる
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「ソドム百二十日」
これは小説じゃない、小説なんかじゃない、カタログだ。
内面も成長もない。
さらにはキャラクターもなく、
作者の分身たる人物数名と、作者の欲望する人物数十名とともに城に閉じ込めて規則を作って、さあどうなるか、という壮大な実験に近い。
しかし私は小説なんかよりも、カタログであってもよい、「過剰なもの」を読みたいのだ。
ぜひとも完訳版を読まなければ。
・澁澤独特の隠語の面白さ。「強蔵」!(「ソドムの市」を再鑑賞するときには、あれが強蔵だ! と笑ってしまいそう。)
・「ソドムの市」が思いのほか原作に忠実な作りだったのだと驚く。
「悲惨物語」
・語り口の面白さ。この悪人を描くことで世の中の人への啓発になるでしょう、という語り口であるにも係らず、その悪人を描く楽しさに作者が耽溺している、というパターン。つまりは胡散臭さぷんぷんの道徳を語る語り手。乱歩に多い例のあれ。
・理想的な娘を作り出す、という源氏物語にも通ずるあれ。
・娘を肉体面だけでなく精神面をも犯すフランヴァルよりも、形式上は犯されたという状況にあるにも関わらず生き生きと父を愛する悪女ユージェニーのほうが、素敵。
・私もこのような娘におかしくされてみたい。
「ゾロエと二人の侍女」
未読。
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やっと読破しました!
難読漢字に苦労しつつ、マルキ・ド・サドの世界観と澁澤龍彦先生の訳に酔いしれていました。
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桃源社から1966年に出た『新サド選集第8巻』のなかの「ソドム百二十日」を底本にして1991年に河出書房から出されたもの。
サドによってフランス革命間近の1785年にバスティーユ牢獄で書かれた作品。それが発見され保存され紆余曲折を経て1904年、ドイツで初めて出版された。その後、原稿はフランスに渡り、色々な形で出版される。現代版として読みやすく改められた1953年版が翻訳本の底本になっている。
作品の序章にあたる部分の全訳。作品全体からするとほぼ6分の1の分量。
(あとがきより)
この河出文庫版にはほかに「悲惨物語」と「ゾロエと二人の侍女」も収録されている。
サドだったら、『食人国紀行』とか『閨房哲学』とかのが好きだな。
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いやはや、新年早々のエログロスカ本。この感想をどう書けばいいか迷ってる次第であります。端的に言えばルイ十四世時代に汚職や手段を選ばない行為で私財を築き上げた公爵とその悪友達が山奥の城で四ヶ月間変態乱癡気行為にふけるという話。金と権力があれば何でもありなのか!ずん飯尾のネタの様に『日曜の昼間からゴロゴローゴロゴロー、あーあ、俺も公爵だったらなぁ』とのたうち回る。エログロスカが一杯詰まったこの話、何やら序章的な所で終わっているが完訳版まで見るのはしんどい。お腹一杯、汚物一杯。イギリス型の玉門をググったのはここだけの話。
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青土社、佐藤晴夫訳を、20ページほどつまみ読み。
驚くべき変態っぷり。食べるための、便の固さや香りの調整など。
フランス革命前後の著とのこと。キリスト教の道徳の押し付けに辟易し、絶望し、どんなことをしたってかまわないのだ、神などいないのだと、人間の自由さや可能性をあますところなく表現したかったんだろうか?人が美しいというものを否定し、人が汚い、おぞましいとするものを賛美したかったのだろうか?
こんなの、日本にもあったのだろうか?
元はと言えば、日中戦争において、日本兵士がなぜ現地女性に猟奇的な強姦をしたのか、あるいは、東大生たちの裸の女子学生を馬乗りにして遊んだ挙句の輪姦、のような犯罪がなぜ起こるか、その原因を性的嗜好にさかのぼって知りたかったのであった。
人間における自由と束縛をめぐる心理複合の所産
背景として
・心理的な補償
・カタルシスの効果
・発達課程におけるインプリンティング、学習
・文化的・社会的な自己の存在主張(現存在の意味充足)
実存的なプロセス。
サディズム+共感性の欠如(パーソナリティ障害やサイコパス)などの条件を揃えた人物がおり、そこから同調圧力によって波及したのかもしれない。
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ソドムの方は改めて全訳を読んでみる。
とはいえ元々未完らしい。
かなり年代の違いを感じる難しい文章で、私では内容を理解するには至らなかった。
傑作と駄作の違いも私ではわかりません。
ソドムの方は登場人物紹介のパートしかないから続きがやたら気になります。
悲惨物語はもっとあたまがよくなってからよみたいです。