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小林秀雄という人物を良く知らない。名前は良く聞くが著作などを読んだことはない。Wikipediaによると「日本の文芸評論家、編集者、作家」ということである。いろんな作品の解説などに小林の名前が出てくるので、どんなことを書く人であるのか、知っておきたいと思いこれを読んだ。
こういうのを「批評文学」というそうだ。11章の短い章から成り、タイトルの「モーツァルト」はそのうちの一つで、最終章であり且つ中では最長の章だ。講演などで語った批評を文字に起こしたものらしい。読書や文化、批評そのものについて語ったものや、古典文学について解説したものもある。「批評」についての章では、自分の批評についてのスタンスは明らかにしている。古典では「西行」の章が特に素晴らしいと思った。西行の和歌を引きながら、なぜ西行が若くして出家したのか、どんな生活をしていたのかに迫る。小林が如何に西行を読み込んでいるのかを彷彿とさせる。
タイトルになっている「モーツァルト」の章は、小林が西洋の文芸にも精通していることを証明するものだろう。ただし出だしの部分はゲーテやニーチェばかり登場しては、私のような読者には手に負えない。はっきり言ってほとんど理解できなかった。
残念なことの一つは、流行歌を低劣なものと断じていることだ。クラシックには詳しそうだが、当時大阪街にジャズや流行歌が流れるのに断腸の想いがしたそうだ。このような偏った音楽への思い入れは、逆に私は受け入れ難い。その意味では小林は頭の固い人だと思わざるを得ない。
そしてもう一つ、エゴイズム、エゴイストをエゴティズム、エゴティストと書いている。フランス語に疎いので初めは誤植かと思った。ところが巻末の語注を見てフランス語であることを知った。スタンダールを語るからと言っても、もはや殆ど日本語化している言葉を、わざわざ仏語で書く必要がどこにあるのか。音楽用語などが仏語の原文で出てくるのも同様だ。仏語に通じているのなら、こういう時こそ上手い訳を充ててほしい。ワーグナーはワグネル、スタンダールをスタンダアルと書き、ベートーベンをベエトオベンと書く。それなのにモーツァルトだけはモオツァルトとは書かない。この不統一は一体何なのだろう。そしてチャイコフスキイを堕落と呼ぶのは何故か。
批評家という人たちはその性格上、批評される側と同等か若しくはそれ以上の見識が必要なのだろう。小林は「批評とは人をほめる特殊の技術だ」「人をけなすのは批評家の一技術ですらない」と言っているから、かなり謙虚な人なのだろう。それでも批評を表明するのには相当の覚悟が要りそうだ。