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大変わかりやすい入門書。
講演を活字化してあるため読みやすく、コーランからの引用もおもしろいため、もっと先を…と興味を持たせる内容となっている。
著者が述べるとおり、イスラーム文化圏が多層的であることと講演の時間的制約から、ここではイスラーム文化の底を成すものは何かという点(「宗教」「法と倫理」「内面への道」)に絞った内容になっている。各論(宗派等)を理解する前の日本人向けには大変良い内容だと思う。(ただし書かれたのは1981年)
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イスラムの根底にある聖俗不分の思想。それが同じアブラハムの宗教であるキリスト教と対立する。生活即宗教であり、政治と宗教を分離してしない、現世を死後より卑下しない、といったムスリムの特徴となる。
宗教と政治を分離するという西洋近代システムを受け入れることは即宗教の否定となるので、非常な困難が付き纏う。9世紀にイスラム律法シャーリアの解釈の自由が禁止されたこと。
徹底した偶像崇拝の否定。多元論は存在しない。神と人間の一直線の契約。
原罪意識はない。神の愛、慈悲だけが世界に普く遍在する。
イスラム教の出現はそれ以前の伝統的な血族的価値で結ばれた砂漠の宗教の否定であり、自身が商人であったアブラハムの、速度と変化に対応する、都市的な、部族を溶きほぐすような、ものであった。アラーとの契約だけが根拠である。そこにSLM共同体が出現する。内面的実存主義的マッカ期から共同体的メディナ期へ。
共同体的なスンニー派イスラムに対して、イランのゾロアスター的二元論からくるシーア派と、神との内面的一体化を志向するスーフィズムがある。
アラブ人の非因果律な原子論的感覚の鋭敏さ、このあたりについてもう一度意識と本質を精読したい。
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イスラーム文化(その根底にあるもの)を読みました。この本はイスラーム文化と根底にあるものと題された3回の講義の記録を活字化したものです。日本ではイスラーム研究はあまりメジャーでは無いようです。ためしに国立国会図書館で3大宗教(キリスト教・仏教・イスラム教)の蔵書を調べてみたところ、以下のような結果でした。
仏教 24532冊
キリスト教 8378冊
イスラム教 146冊
http://iss.ndl.go.jp/
イスラムの蔵書数だけがずいぶん少ないという印象です。イスラームにおいては、キリスト教とイスラム教さらにユダヤ教はアブラハムの宗教という概念において、始まりを同じとする宗教です。ことさらイスラムの本がこれほど少ないのか非常に興味深く思います。
個人的には私には宗教は必要なく、自己規律において、謙虚で清貧であれば良いと思っておりますので、ことさらイスラムをあげる必要はないように思いますが、先日、イスラームにおける現世構造の考え方に非常に興味を持ったので読んでみました。解釈学的なアプローチから「人間内面への道」につながっており非常に興味深く読みました。時間があるときにイスラム関係の蔵書を探ってみたいと思います。
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これはかなり良質なるイスラーム文化入門書と言える。面倒くさいあれこれを省き、イスラーム文化とはなにかというある意味抽象的性質を抉り出そうとしており、それを平明なる文字でかつこの分量で為しえているあたりには感服する。本著の内容としては、イスラームとは何か?といったところから始まり、宗教的な性質、更にはムハンマドのメッカ期(神と人間との縦関係)とメディナ期(ムスリム同士の横関係)でのイスラームの性質の変化、更に現存する三大勢力のスンニ派、シーア派、スーフィズムの持つそれぞれの特徴を述べた後に、「どれが正しいのか?といった見方をするよりはこれらの対立衝突によって生じている文化こそがイスラームなのである」と結びを加えている。
具体的に内容を追っていくと、まずイスラーム教とは契約であり、砂漠的というよりは商人的な性質に譬えられている。そのため基本的には金銭的な取引をして、神との契約に譬えている。要するにイスラームでは金銭は悪しきものといった意識はかなり薄いといえこれは一つの特徴であろう。また、下地はユダヤ教であり、契約という観点からしてもこれらの両者は性格が近い。彼らはモーセやイエスを預言者として認めるが、しかし、イエスを神とは認めない。神は唯一絶対的な人格神であるとして、干渉すらできない存在と定める。基本的にはウラマー(=学者)がシャリーア(=イスラーム法)を作り上げてそれに従って生活する。シャリーアはコーラン(=聖典)やハディース(=ムハンマド言語禄)に従って制定される。彼らは隅々に渡る行動を規則によって規定されており、彼らは等しき存在となりうる。だがそれは人格性というよりは、むしろ神との契約においてである。基本的にこれはスンニ派的性格であり、スンニ派は世俗と聖域とを二分化することもせずして、コーランとハディースに記されていることを頼りに日々生活を営むとする(=政教一致)。それに対してシーア派はコーランの内側へと目を向ける。そこに形而上的な神性(=ハキーカ)が潜んでいる、と考えるのである。コーランやハディースを基にして、ハキーカを抽出しようとする試みがシーア派であるが、それが出来るのはあくまで一部のイマーム(内向的預言者≠外交的預言者=ムハンマド)の代理人(=ホメイニーなどがそれにあたる)である。シーア派は基本的に源流としてゾロアスター教があり究極的には一神教の姿勢を取っているものの、その前のレベルで聖俗などの二元論的な対立が見え隠れしている。最後にくるのがスーフィーであり、スーフィーも基本的にはシーア派と同じく内面的なものへと目を向けるが、シーア派がある種の集団であるのに対して、スーフィーは修行僧みたいなものなのだろう。彼らは徹底的な一元論へと自らの信仰を突き詰めるために、自我すら排そうとするのである。つまり神=自といった流れを目指すのである。そのために徹底的な自己否定を行い最終的にはグノーシス的な自己肯定へと至るというのが彼らの流派であり、シーア派よりもなお一歩突き進めており、神との契約とするイスラーム教の基礎概念すらも否定しかねないラディカルさがある。
基本的にはこのラインでイスラム教���ついて語られている。ここで浮かび上がってくるイスラム教の性質は個人的には功利的な性格である。ムハンマドは自らのアラブのための宗教をつくるためにユダヤ教やキリスト教からその権威を借りて宗教を作り上げている。シーア派はムハンマドが自らが最後の預言者だと述べたことに対して、ムハンマドは最後の外向的預言者であったのであり、内向的預言者の存在を掲げることでスンニ派とは別の路をゆく。更にはとうとうスーフィーたちは神との契約すらひっくり返して自らが神へと至ろうとする。ここに見られる性格は非情に功利的であり、自らが、あるいは自らを頂とした集団が派遣を握ろうとする姿勢である。そのためには既存の宗教の言い分をもらうといった姿勢が見え隠れしているように思う。これが悪いとは言わないのだけれど、これを心底から信じられる感覚がやはり日本人としては理解できない。尊重はできても理解できない。異文化理解という言葉が安易に使われる昨今だが、決して実感を伴った理解などはできないだろう。しかし、尊重は出来る。安易に理解へと至ろうとする現在の潮流は危険なのではないかとして個人的には警鐘を鳴らしたい。また、こうして見るとイスラーム教という宗教は、ユダヤ教キリスト教グノーシス主義ゾロアスター教などのそれまでに存在していた宗教と有機的に結合して生じていることが見て取れ、決して突発的に生じた狂信的な宗教でないことは判然としている。本著を通して得られた最大の意義はそこにあるのかもしれない。
しかし、アナルハック=我こそは神というのが、アナルファックに見える……。
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「外面への道」を辿ったスンニー派と、一方「内面への道」を選んだシーア派、スーフィー派。それぞれの異なる点と相似点、そして両者の緊迫した関係から生まれるイスラーム教の奥深きダイナミズム。無宗教の日本人にはわからない人生観がそこには在り、生きるという事が宗教と共に在る事という世界。イスラーム教とは何なのか。その周縁をなぞるのではなく、中心部からなぐりあげて教えてもらった感じ。
3回行われた講演を活字におろした本書は、まさにイスラーム教を知るための入門書と言える。
あざまっす
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普段の生活では実感できないイスラーム文化の、根柢にある本質を知ることができる(気がする)すぐれた1冊。
・砂漠的人間(遊牧民)をイメージしがちだが、商人の道義(契約の重要性、嘘をつかない、約束を守る)を反映した商売人の宗教である。
・聖俗不可分であり、人間生活の日常茶飯事・政治まで宗教の範囲に入る。
・一神教であり、神アッラーは人格的、唯一的、全能的である。
・来世的存在次元を至上価値として認めたうえで、準備としての現世を重視する。
・神と人間間の倫理学は、やがて人間同士の同胞的な結びつきをもつようになる。すなわち社会性を帯びる。(イスラーム共同体=ウラマー)
・神の面前で結ばれた相互契約によって完全平等である。“イスラームでは教皇(カリフ)も乞食も全く平等だ”
・「聖典の民」(あるいは啓典の民:キリスト教・ユダヤ教)に改宗を強制しない。ただし特別な税金を課す。貴重な財源であり、当初為政者はむしろ改宗させないようにする現実的手段をとった。それ以外の民には改宗か聖戦(ジハード)あるのみだが、警告を繰り返し、聞き入れないばかりか暴力で反抗し積極的に阻害しようとする場合のみ戦うのであって、原則的に強制改宗を嫌う。
・イスラーム法(シャーリア)とは、神の意志(命令)に基づいて、人間が厳正で生きていくうえでの行動の仕方を規定する一般的規範の体系。宗教的儀礼、民法、親族法、商法、刑法等々の分野まで含む。
・イスラーム法構成要素の第一は『コーラン』。預言者ムハンマドにたいする神の啓示の記録。全イスラーム文化の原点。
・しかし『コーラン』だけでは具体的な規定が足りない。そこでムハンマドの言動の記録「ハディース」が第二次的法典となる。
・『コーラン』「ハディース」だけでも法的規定にはならずテキスト解釈が必要となる。収拾がつかなくなるので、9世紀の中ごろには聖典解釈の自由が禁止されている。
・聖典解釈の違いにより多くの学派が起こっている。正統派(スンニー派:シャーフィイー派など四大法学派)、対立するシーア派。なお、法的解釈はあくまでも論理的である。
・イラン シーア派では、「ハキーカ」(内的真理)が重要視される。
なお、池内恵氏による本書評は、「井筒の、井筒による、井筒のための、独断と価値判断に満ちた、一筆書きのような思想史・社会論が好きだ。「井筒個人のイスラーム観」は、このようなものだったと思う」となる。井筒氏は「シーア派重視」「神秘主義こそ宗教の発展する道」という特徴があるというのが池内氏の指摘。井筒の言っていることだけを読んでそれが「イスラーム」だと思い込んで、現実のアラブ世界の政治についてまで論評してしまう、しかも「現代思想」の分野ではそれが主流だったりする傾向を問題視している。
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再読。一般の聴衆相手の講演をまとめたイスラム文化を理解するにおいて最良の入門書。イスラム文化は砂漠の文化として簡単に類型化できるものでなくヘレニズム的異文化の網の目の中で生まれた国際的文化を起源とし、コーランもまた商業専門語の表現に満ちている。神との関係はキリスト的父子関係を否定し主従関係的であるが、そもそもイスラムという言葉自体が「絶対帰依」の意味を持つが為。因果律を認めず、時間に対する非連続的存在感は興味深い。封印された聖典解釈の扉を開くことで、イスラムのルネサンスは果たされるとの指摘は現実となるか。
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まさに副題のとおり。イスラームの世界観が端的に述べられてわかりやすい。特にスンニー派、シーア派、スーフィズムそれぞれの、根源的な価値観、世界観の違いを知ることが出来たのが収穫でした。
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イスラーム、ムスリム、日本人の身近にはまず存在しない。しかし、イスラームをニュースで見ない日はまずない。西アジアから中東、北アフリカだけでなく、東南アジアにも広がり、さらにはヨーロッパとアメリカにも多くのムスリムが住んでいる。しかし、日本でのイスラームへの注目度は、驚くほど低い。どれだけの人がイスラム教を、ムスリムを、そしてアラブを知っているだろうか?
個人的にムスリムを知ったのが、9.11だった。当時中学生の自分には、その直後のテレビ報道が、ムスリムはアメリカの、ひいては日本の敵であるかのように見えた。そして、それを疑問に思ったものだった。当時は、何故知らない人々を嫌えるのか?と思った。そして、知らないからこそ嫌う事が出来るのだと納得していた。いや、させていた。
その疑問を再燃させたのは、フランス語の勉強を始めた事だった。フランスだけではないが、ヨーロッパでムスリムが問題になっている。アメリカが敵視する原理主義者だけでなく、一般のムスリムもここまで問題になっているのか、と気になった。そんな中、ずっと機会を失していたものの、ついにこの本を読んだ。
この本は、日本のイスラーム研究の大家、井筒俊彦による、一般向けのイスラーム文化についての講演集である。イスラームを3回の講演で説明するため、「宗教」、「法と倫理」、「内面への道」という区分で俯瞰することで、「イスラームとは何か?」という問いに答えている。
そもそもイスラームと呼ばれる宗教とは何だろうか?イスラームは、唯一の聖典『コーラン』を基に、またベドウィンの文化を背景に、アラブ人の生活を吸収して作り上げられた社会である。無論、ユダヤ教やキリスト教だけでなく、ゾロアスター教や大乗仏教の影響を受けながら発展していった。
イスラム文化は、『コーラン』を唯一の聖典としている。すなわち、『コーラン』こそが全てのイスラム文化の基礎である(最も、ハディースと呼ばれる文書が、第2の聖典として機能してはいるが)。そして、その『コーラン』の解釈こそがイスラームの本質である。ハディースは、神からの言葉を預かる預言者ムハンマドの行動、言動集である。「神からの言葉を預かっている」ムハンマドの言動、行動を書いているため、事実上、もう一つの聖典として扱われている。つまり、
本物、偽物とりまぜて何万という数の「ハディース」が『コーラン』の周り
を十重二十重に取り囲みまして、まんなかにある『コーラン』はそのプリ
ズムを通じて集種類類の意味に分裂して解釈されます。(pp.34-5)
であり、「『コーラン』をもとにして、それの解釈学的展開として出来上がった文化である」。(P.37)
他の宗教ももちろん、同じように聖典(もしくはそれに該当する物)を持って展開している。しかし、他のそれらとイスラームは大きく異なっている。それは、『コーラン』が聖・俗の区分を認めないからである。そして、それに従い、日常の生活全てが宗教(行為)だからである。
もっとも、以上の性質により、解釈の仕方によってはイスラームが大いに分化する危険がある。現代の���ラブ世界内での対立も、これが大きな原因である。アラブ社会は、そんな異端児を「追放」することで秩序を保ってきた。無論、場合によっては殺害もあった。
したがって、イスラームは他の宗教とは異なり、『コーラン』とそれによる連帯感によって根底ではつながっているが、多様に分かれた文化を内包する文化なのである。またアッラーへの信仰のみが唯一必要とされることとなり、異教徒(といっても一神教の限られた異教のみ)にも開かれた宗教となった。
上で述べたように、イスラームは『コーラン』によって規定されている。しかしコーランは日常の細かい規則を一つ一つ記載しているわけではない。では、どのように日常のルールが定められているのか、定められたのか。
『コーラン』は、神との『契約』という形で信仰を要求している。しかし、絶対的な善である神と、人間との間の契約である。したがって、初期のイスラームは、絶対なる神の圧倒さがベースになっていた。すなわち、終末の日に全てを裁く神という恐怖・畏怖が、信者の中にあった。一方で、イスラームが広まるにつれ、信者は、信者が増える事で神と同等に神格化された「ムハンマド」を通じて神と『契約』する。それにより、信者同士は平等であるという、「預言者を中心とする人と人との同胞的結びつき」(P.112)が生まれた。そして、その集団下で制度がつくられ、イスラームが彼らのルールとなった。
現世を正しく生き、理想的な姿を構成するために現世を構築する。そのために、『コーラン』、ムハンマドの言動をベースにして、
(1)絶対善 (2)相対善 (3)善悪無記 (4)相対悪 (5)絶対悪
が定められた。したがって、イスラーム法は、神の言動による「命令と禁止の体系」(P.148)となっている。
さて、以上のようにイスラームは、宗教、法を構成し、イスラーム社会を成立させたが、『コーラン』とハディースの解釈によって、イスラーム社会を固定化させてしまった。この構成は、神の言葉をベースに、制度など「外面的」に社会を構築し、個々の人間の活動を作ってきた。しかし、神の言葉に対して、個人がどう信仰し行動するのか、という「内面的」にイスラームを構成する方法もありうる。これが「内面の道」と井筒が呼ぶものである。この考えを持つものは、何事にも、隠された不可視のリアリティがあると考える。そして、『コーラン』、つまり神の言葉自身にも、そこに書かれている言語とは別に指し示しす何かが『コーラン』にはあると考える。そして、シャリーア(先程書いたイスラームの体系・制度)を支える一連の不可視のリアリティである、ハキーカを重視する。つまり、『コーラン』からできたイスラーム体系を守るだけでは不十分である。それらを支える「ハキーカ」を探求する事がなければ、イスラームを信仰する事ではない、と彼らは考える。
このシャリーアとハキーカの分離は、神という絶対的聖により構成された一元的な従来のイスラームと対立する。
おおざっぱに分ければ、前者がスンニ派のほとんどの宗派であるのに対し、後者がシーア派である。シーア派の主流のある一つの宗派では、イマームという最高権威者がいる。彼はハキーカを体認した人である。そして、預言者そのものの内面���あるとしている。したがって、大きな力を持つのである。他には、スーフィ、つまりイスラム神秘主義者が後者にはある。
最初にも、最後にも書いてあり、個人的にも思っていた事だが、「日本(人)から見たイスラーム」を私たちは構成しなければならないと思う。英国やフランス、アメリカといったキリスト教や旧宗主国を背負った視点からでなく、日本独自のイスラームを作らなければならない。そのためには、僕たち個人個人が、更にイスラームを学ばなければならないと思う。。
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イスラム教は、神への畏れ、ではなく、文字通り神への怖れを抱いているのか。この辺の感覚は、最後の審判になじみのうすい日本人にはわかりにくいよなぁ。
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おぼろげながらも全体像が見えてくることで、無関心(いや、無知か)が興味へと劇的に変換される。理解しやすいだけでなく抜群に面白いのが本書のすごいところ。
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これだけ簡潔にイスラーム文化についてまとめられている本が読めるとは。読後も各章のの内容についてさらに詳しく知りたくなる素敵な入門書
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井筒俊彦は中沢新一の評論の中でたびたび引用されるイスラーム学の第一人者という認識でしたが、実際はそれ以上に言語学の権威として知られている天才です。この「イスラーム文化」というのも引用された文献だったので積読していたのだと思います。それぐらいの興味だけだったのですが、ここ数年のISなどのイスラム原理主義者を名乗る組織の過激な行動に世界的な危機を感じざるをえず、さらにはシリアを中心として多くの難民が世界中に流入しようとしている世界情勢の中で、そろそろ本当に日本人もイスラム圏のことを他人事で済ましてはいけない時期に来ていると思うのです。
それを口実に読みだしたのですが、この評論は1981年に刊行されており、つまり35年も前の言説でありながらすでに現代を予見しているかのような危機感を井筒俊彦は語っていることにまず驚くばかりです。当然ながら35年という時代の流れでイスラムの文化も変わっているでしょうし、井筒俊彦の思想も現代思想からするとそれなりに古くはなってきているでしょうから、それは当然考慮した上で、しかしながら世界的に権威のある天才学者の言説が簡単に老朽化するわけはなく心に響くはずなのです。
難解な内容を予想していましたが、この書籍は1981年に一般人向けに行われた講演をテキスト化したものだそうで、そのため非常に平易な内容となっており井筒俊彦の入門書には打ってつけでした。この後に「意識と本質」が控えているのですが・・・。
今回遅ればせながらイスラームという宗教についての比較的詳細な内容を知ることとなりその内容に非常に驚きました。キリスト教ともかなりの違いがあり、日本人のぼくには理解し難い隔たりを感じました。
まず神と人間の関係が主従関係にあるということ。キリスト教では親子関係にありますが、イスラームでは主人と奴隷の関係でそこには商売をモチーフとした労働対価としての幸福を約束しているようにも取れます。キリスト教的な慈悲や慈愛とは少し違う感覚があるように感じました。
またその関係において神は日常的に人間の生活に存在し信仰し続けなければなりません。そのため朝起きて夜寝るまで神への信仰心は忘れてはならず神へのおつとめも日常的に行われなければならないのです。さらにこの日常は神が非連続的にいまも創造しており、その創造を止めた途端に世界は無に還る、そのためにも毎日の神へのおつとめは欠かせないのかもしれません。そしてさらに違和感を感じたのは、主従関係における奴隷の立場をあえて強固にするために人間を完全な無力の存在として置いた他力信仰がベースとなっているということです。また、先祖代々受け継がれる血縁の関係を無効とし、信仰における神との主従関係に基づく宗教的共同体としての関係に重きを置いていることも非常に理解し難い考え方です。ともすれば新興宗教にありがちな危険な感じも受けます。
とここままでは、実はサウジアラビアを中心として信仰されている正統派いわゆるスンニー派の説明となっており、3回目の講演においていよいよイランを中心として信仰されているシーア派の説明を行ないます。
このふたつの宗派の��雑把な違いはスンニー派が実存主義的、現実主義的であるのに対してシーア派が神秘主義的、超現実主義的であるということらしいのですが、本当はもっと奥が深い、ネイティブでないと分からないような違いがあるのだと思います。でなければ宗教戦争にまで発展しないでしょうから。そしてさらにはシーア派の先に「我=神」を標榜するスーフィズムという究極の第三極があり、スンニー派、シーア派、スーフィズムの三つ巴的な争いがいまも続いているようなのです。
井筒俊彦はこの三つ巴こそがイスラームの文化を構築している要素であるということで締めくくっていますが、そのように相反する宗教的理念がひとつところで纏まるはずもなく、だからこそいまもなお燻っているのがイスラーム文化なのでしょう。
まあとにかく非常に読みやすく読み応えのある逸冊でした。
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イスラム教の宗派に対する印象が変わった。スンニ派は宗教法が宗教そのものであるとみなし、宗教的繋がりを持つ共同体によって現世をよくしようと考えること、シーア派はコーランの裏に内面的意味があるとして、それを解釈するイマームを神的人間ととらえること。ただ、多数派と少数派と簡単に分けられてしまう両派の感覚的な違いもよくわかった。
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イスラームに詳しい学者さんが財界からの依頼で公演した内容を、活字にした本。
イスラームについて何も知らなかったので、とても勉強になった。
エキスを抽出して書き出したような本なので、一番初めに読むにはちょうどいいと思う。
異文化を知るのはとても面白いが、本を読んだだけでは少し想像ができるようになるのみだ。
人々は本気で神を信じているのか、信じていることにしているだけなのか、それは一部の敬虔な教徒だけなのか、それとも広く一般的なことなのか、本当のところが分からない。
宗教に熱心になることがまず理解出来ないので、私には難しい…。