投稿元:
レビューを見る
西丸震哉氏による、ニューギニア食人民俗を訪ねる旅の紀行文。
西丸震哉氏は異能の人というべきか、探検家であり登山家でもあるが、医学や天文学、果ては作詞作曲や絵画まで手がける。本文にも、西丸氏によるイラストが掲載されたり、原住民の歌を採譜したりなどその片鱗がうかがえる。
西丸氏がニューギニアを訪れたのは1960年代であり、当時もう既に食人俗は異端として廃止されつつあった。
そこで西丸氏は食人民族を求めて白人の手の及ばぬ秘境へと分け入っていくのである。
現地で西丸氏は、未だ食人俗を持つ幾つかの集落と接触する。
現代人の感覚から言えば、食人などという野蛮な習俗を持つ民族なのだから、さぞ恐ろしいだろうと思うのだが、これがなんだか素朴で憎めない人びとである。
本文中に西丸氏が繰り返し述べているのは、「彼らは原始人ではあるが、決して野蛮人じゃない」(P87)ということである。ただし、「殺人者は名乗り出ろといえば、ノコノコ出てくるのも、悪いことをしたという意識がまったくないからで、人肉を食べても平気なのはこれが悪事につながっていないからだ」(P178)と言われては、やはり気楽に訪れてよい場所には到底思えない。
殺人はときに我々の理解を超えた理由で行われる。西丸氏が実際に出会った殺人・食人事件では、ある人妻が殺され、その集落の構成員のうち夫と乳児を除く全員に食べられてしまった。
その理由は、
「美女は複数の男に恋されるが、彼女はそのうちの一人を選んで夫とする。心を傷つけられた男の大多数は間もなく他の娘によって傷をいやされるが、ガンコな男は他の娘に目を向けない場合がある。
原始食人社会の風習、約束ごとのうち、人の心を傷つけることがもっとも罪深いもので、そのために殺されてもしかたがない。」(P178)
だそうである。
この事件の場合、夫は妻が殺され焼かれ、「食人パーティー」が開催された現場にいたにも関わらず、その肉を食べようとはしなかった。食人については、普通親族に最初の権利があるそうなので、この場合夫が最初に食べてもよかったのだが、「むしろ最愛の妻の肉に手を出す気が起こらなかった」(P174)と西丸氏は推測する。
イェンゼンが過去に採取し、「ハイヌウェレ神話」として世界中に分布する食人と農耕に関わる祭祀では、生贄の少女の殺人とその肉を食することを以てヒトが人たらしめるとされた。この説は彼の弟子である太田太良初め、様々な学者が書物に引用している。
ところがここではそんな神話も祭祀もなく、現代人にとっては誠にささいな理由で殺人が行われ、まるでそこに肉があったから、とでもいうような気軽さで食べられてしまうのだ。
イェンゼンがニュージーランドで各種の「ハイヌウェレ神話」を採取したのがいつのことだか、浅学にして私は知らないが、著書『未開民族における神話と祭儀』の出版が1951年のことであるからおそらく1940年代以前であろう。
西丸氏が訪れた1960年代までの僅か20年ほどで、重要な祭祀が失われ、食人俗だけが残ったとは考えにくい。
とすると、彼らは祭祀というものを介さないで殺人と食人を行っていたといえる。
そう、彼らには神という存在を持たないのだ。
「彼らの社会には宗教がまだ存在せず、神もなく、マジナイ師もいないからだ。肉親の死を悲しむ気持を持ってはいるが、死に対する恐怖があまりあるとは思えない。人を呪うような、考えようによっては高度の思想がまだ芽生えていないとみてもいい。」(P182)
ある村ではハンセン病(原文では「ライ病」)患者が二割を越える。だが近隣の村では全くいない。彼らはどうしてこの病を克服し得たのだろう。
理由は簡単である。患者がでると川に沈めて殺してしまうのだ。ときに死ぬまで数日かかることもあるという。
現代人はことによると、母猿が死んだ子猿の遺骸をいつまでも持っていることや、ネアンデルタール人の埋葬例などから、ヒトの心にある「死を悲しむ気持ち」の起源を遡りたがるのだが、ほんの40年ほど前にこうした心を持たぬ人―まさしく現代人と同じホモサピエンス―がいたことは驚愕を与える。
ここでは、死は日常茶飯事であり、特別な意味など持たないのだ。
西丸氏が訪れたある集落では、僅かに住居跡を残して住民が絶滅していた。
近隣の集落でも同じように、住民達が死滅していたという。
数年前まで生存が確認された集落である。
恐らくインフルエンザの流行が死因ではないかと推測された。
慢性の栄養失調に加えて遺伝子的に同質の住民達には、病気に対する耐性が欠けていたのだろう。
私は字を持たぬ民族はいくらでもあるが、神と歌を持たぬ民族はないと思っていたのだが、それはどうも誤りであると認めねばならない。
死を恐れる心が神を作りだし、宗教を作りだしたのかもしれない。
花が散るようにひとが死ぬ暮らしの中では、それを恐れる気持ちも湧いてこないのも道理かもしれない。
だが彼らには歌がある。単純なハーモニーがあり、それを楽しむ文化性は持っている。
文化。彼らには文明はほとんどないが、わずかながら文化はあるのだ。
だがそれも、彼らが死んでしまえば跡形もなく消えてゆく。
そして彼らはそうして消えてゆくことに対して、なんの未練もないだろう。
生まれたときから栄養失調で排泄物は固形にすらならない。
近親婚が当たり前、避妊もせず恐らく間引きもしないだろうに子供はひとりかふたり。
赤子は産まれては死に、死んではまた産む。
交接は歩きながら、ほんの一分で終わる。
小さな畑を耕してイモを堀り、ときにブタも食べる。
家畜のイヌは家族同然に可愛がるが、死ねば肉として食べる。
病死の死体は食べないが、事故死と殺人の死体は食べる。
弓矢は持っているが狩猟はしない。
祭りもない、神もない。
西丸氏が採録しなかっただけかもしれないが、恐らく神話と呼べるものもないのだろう。
語り継ぐ物も者もなく、「二十五歳になればもうガタガタと体力が低下して、四十の声をきけばヨボヨボになってすべてがおしまいになる」。
自分の集落で死んだら死体置き場に放置される。
よそものに殺されたらそこで食べられて、骨は棄てられるだけ。
インフルエンザが入ってくれば集落ごと全滅である。
掘っ立て小屋の彼らの住居など、あっという間に森林に消えていくだろう。
道具を殆ど持たぬ彼らがそこに数千年のあいだ生きていた軌跡など、欠片も残さずに消えていく。未練すら残さず。
それでも彼らは生きてゆく。
ひととは何だろう。
文化とは、神とはなんだろう。
根源的な問いを投げかける書である。