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インドが誇る珠玉の古典。2000年近くにわたって宗教思想家を中心に各時代のリーダーたちに愛読されてきた。『マハーバーラタ』を構成する掌編にすぎないが、「結果(=成功・不成功)に執着することなく定められた行為(義務)を遂行すれば、寂静の境地に達する」という定言の力強さに深い人生哲学を見出す者は後を絶たない。
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個人的な思い出なのだが、上村先生にこの「ギーター」の講読の指導を受けたことがある。その時、先生がおっしゃっていたのは「『マハーバーラタ』を訳すと死んじゃうからね」ということだ。「バーラタ」の全訳に外国人で成功した人は一人もいないので、複数の人間で取り組んだ方が良いという趣旨のことをおっしゃっていたように思う。あとから考えるに、その頃はお身体をこわして、「マハーバーラタ」の全訳を半ば諦めかけていた時期だったようだ。その後、全訳に着手したことを喜んでいたのだが、あのような結果に終わりとても残念だ。
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カルマヨーガの神髄が描かれています。
まさにバイブルです。
あなたのなすべきことは行為そのものにあり決してその結果にはない
生まれたものに死は必定であり死んだものには生は必定であるからそれ故不可避なものに嘆くべきではない
は決して生まれず死ぬことはない 彼は生じたこともなく、また存在しなくなることはない
物質との接触は寒暑苦楽をもらたし来たりては去り無常である それに耐えよ
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原爆実験の直後にオッペンハイマー博士が引用したことでも知られるインド哲学の古典。
親族との運命の決戦を目の前に怖気づいてしまう王と、
その前に姿を現した神の対話を通じて、
心を平静に保つことや義務を遂行することの重要性を説きます。
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行為の結果を動機とするのはやめて、ひたすら行為そのものに集中しなさい…。
こんな至言をあんな昔に思いついたインド、やっぱ哲学的にはチートだと思う。みんな救え!とか見捨てるな!とか言ってる時に「救われるかどうかに意味はない、ただ宇宙のあるがままと同一になりなさい」とか…。頭では解るけど難しすぎ。読んだあと無性にマニカルニカー・ガートに行きたくなった。あそこはヒンドゥー教の聖地だけど。
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■ あらすじ
- 王国の領地の争いに参加した、アリジュナとクリシュナ。敵地を見るとクリシュナの友人、知人、父親、祖父、兄弟、息子、孫がいることを知り、戦士としてどうすべきか迷いが生じる。クリシュナの迷いを見たアリジュナが自己とはどうするべきものであるかを説き、クリシュナを苦しみから解放する
■ よかった点
- バガヴァッド・ギーターが分かりやすい日本語でまとめられている(はず)
- バガヴァッド・ギーター自体の内容はシンプルでブレがなく、人(自己)というもののあり方をこんこんと説明していた
■ 悪かった点
- 用語が多く、読み方が難しいため文章を読んでも詳細はつかみにくい
- バガヴァッド・ギーターが語られるまでのあらすじが書かれているが登場人物が多く、古書を訳しているため、なにがどうなっているのか理解しきれなかった
- 十分に理解するためには何度も読むか、注釈を見ながら時間をかけて読む必要がある
■ この本に適している人
- バガヴァッド・ギーターに興味がある人
- 古代インドにおける自己はどうあるべきか、どうなることが人にとって幸せかについての考えに興味がある人
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古代インドの聖典として最も有名なこの本は、部分訳を読んだことがあるものの、ちくま学芸文庫で「マハーバーラタ」全巻読みたいと思っていたらどんどん絶版になってしまったので、読み逃していたのだった。
物語のなかの一コマだが、中身は神=クリシュナが人間に説教する話で、ウパニシャッド聖典らしい内容。
かなりわかりやすく、興味深いが、幾つかの点でこの本は異様な面を持つ。
まず、神(クリシュナ)を信じよ、帰依せよ、と迫る辺りが、古代インドらしからぬ他力本願で、仏教っぽいところもある。
次に、人間アルジュナは親族を殺さざるを得ない戦争に駆り出されて逡巡しているのだが、クリシュナは「さだめられた行為をせよ」と諭す。つまり、置かれた立場において、なすべきとされたことをしろというのだが、この考え方でいうと、その立場に置かれたら極悪非道な行動も正当化されてしまう。どこまでも戦争は正しいものとされ、血で血を洗う惨劇はとどまらない。西洋化した思考の枠組みの中にいる我々にとっては、「個人」の善悪の判断=理性を棄てているように見えるので、なかなか首肯しがたいものがあるかもしれない。
また、上記の点とも矛盾を感じるのだが、「行為を棄てよ(捨離)」と言いながら、「祭祀、布施、苦行(といった行為)は必要」と補足する。つまり、「宗教」の維持にとって必要なものは、称揚する。これも一種の「体制」の自己擁護には違いない。
全般に、他のウパニシャッド聖典に比べ、わかりやすいが、適度にゆるく、哲学というより「ヒンドゥー教」を代表する本と言えるかもしれない。もっともヨーガに関する講話など、古代インド哲学ふうなおもしろさも含まれている。
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インド最古の古典で西暦1世紀頃にかかれた。インドの慣れない言葉で全てを理解はまだできていないものの教えは普遍的。例えば執着を捨て成功と不成功を平等のものと見てヨガに立脚して行為をせよ。行為の結果を動機としてはいけない。など。体で理解を近づけるためにヨガを再開したいと思う。
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王子アルジュナが、戦いの地に赴き、敵軍の中に、自らの血縁や、同朋の姿を見て、そのあまりの空しさに、戦いを放棄しようとする。
しかし、そのとき、御者に身をやつした、最高神ヴィシュヌの化身である、クリシュナが、肉体は討たれても、魂の不死不滅を説き、武人としての責務を全うするよう、叱咤激励する……。
そして、王子アルジュナの様々な疑問に対する問いかけに、クリシュナが応えるという形で、詩頌は展開していきます。
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「バガバッド・ギーター」とは、ヒンドゥー教の聖典で、「聖なるものの歌」という意味だそうです。
『マハーヴァーラタ』という大叙事詩の一部であるとのことですが、特に、この「ギーター」は、インドをはじめとする、多くの人々に愛好されているとのことです。
僕自身は、表現の難解さや、固有名詞の知識不足から、つっかえつっかえ読んだのですが、もともと、こうした書物は、頭で読んで理解する、というものではなく、その指し示す所に、意識を広げる、という意味で「読む」のではないかと思います。
訳者である、鎧敦氏の序文にもあるように、「私利私欲を離れ、執着なく、なすべき行為を遂たす」ということが、この詩頌の骨子であると思うのですが、数千年たっても読み継がれ、語り継がれていく「書物」というものは、ひとにとっての、普遍的な内容を伴うものなのだと、改めて、実感しました。
この「聖典」をものしたどなたか、サンスクリットで書かれた、難解なその内容を、研究に研究を重ね、現代の日本人にも分かるよう、訳された、鎧敦氏に、素晴らしい本を後世へ伝えて下さったことに、感謝したいです。
荘厳なる詩頌
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神が主宰する戦争。
信じる者は救われる、だそうです。
絶対平和主義も単なる主義の一つに過ぎないことが良く分かる。
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バガヴァッド・ギーター(岩波文庫)を読了しました。
P39 「あなたは職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならない。」
バガヴァッド・ギーターには戦士では態度、生まれながらの義務を全う「無私の行為」を行うことの大切さを教示しています。例えば、それが道義的に疑問があったとしても、仮に報酬が貰えなかったり少なかったりしても、職務を修練の場として行為することができるだろううか。マントラを唱えたり、俗世をすてて山に篭ったり、滝に打たれたり、写経したりしなくても人間は行為することによって極致に達することができるのだろうか。
ブラフマン(ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性)とアートマン(自己)が一体になる(梵我一如)を目指すこと、それには知性と修練が必要である。これは、いわゆる成仏(仏陀になる)とどのような違いがあるのかを理解したい。当時のインド文化に関する本を読むことで理解へアプローチすることとしたい
一方で、行為の結果があまりに不可避の事柄であっても苦悩する必要がないのであれば、オッペンハイマー※は苦悩する必要がないのであろうかという思いもある。
※ オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。
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ヒンズー教の聖典の一つ。
世界がどのようにできているかと英雄に対して神クリシュナが語るという内容。注釈もわかりやすく、くわしい。
読んでみるとなるほど、と言える記述に出会える。
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これを読まずしてインドは語れないと言われ手にとった。「バガヴァッド・ギーター」(神の歌)は、ヒンドゥー教の古典の中でももっとも有名なもので、大叙事詩「マハーバーラタ」」に収められた。
簡単に言うと、「結果を考慮せず絶対者に委ね、行為そのものを目的とせよ」として、身内の殺し合いを正当化するお話。
冒頭のまえがきでストーリーの前提が説明されるが、登場人物がとても多く、名前を覚えるだけでも大変だ。
頭を使うな、という点は、オウム真理教の「頭をとる」修行や、人生の重要な事をしきたりで決定するシーク教を始めとする多くの原理主義宗教でも見られる。日本のオカミ意識や、製造業にも同様の傾向は見られる。
これらの文化では、マスのそれぞれは重要な選択を行わないことを善とする。しかし、選択が制限されていながらも、いやだからこそ自己決定感が強い傾向があるのも興味深い。
また、「考えるな」とは説くが行為は継続しろという。これは、老荘の「無為にして為さざるは無し」にも通じる。何も考えず、社会人として目の前の事にだけ集中してあくせく働きさえすれば、悟りに達して幸せになれる。
フロイトも、性倒錯は、行為と対象の分離によると指摘している。
こんな事と、個人主義のまん延と、「一人一人が考えよう」「みんなの〇〇」などという言説を見ていると、何が個人の幸せで、何が社会集団的に正しく、またそれを丁度よいバランスで実現する意思決定システムとはなんぞやと思うと、民主主義や市場メカニズムに付与しなければならない制約(という名のイデオロギーなのだが)を考える上でのヒントになるような気がしてくるけれど、集団の規模や設定する期間(と継続性)によって、解はおおきく違ってくるわけで(それも境界で急変したりする)、結局は何がいいかなんて、論理的にはわからない。
みんなが考えれば世の中が良くなるなんて、まだ私には信じられない。
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意外と面白かったなあ。
予備知識を仕入れていたせいかな。
自己啓発書、ビジネス書の源流じゃないかなあ。
…ブラフマン・アートマン・梵我一如。
あと、聖書/聖典特有の「社会、超越者、聞き手(一般人)」という構造を持っている。大衆に浸透しやすいのかも。「オンバト」、「レッドカーペット」の類型。
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行為に専心することに人の幸福があるという哲学を説いたインド思想の名著。
詩的表現の美しさとあいまって不思議な魅力を放っている。
ある種カースト制度の維持に欠かせない根本思想となっていた側面もあり、批判的な言説も多いが、ここまで人を魅きつけるのは一定の普遍性を帯びたメッセージがあったからであろう。
ともすれば、自由意志の放棄とも取られかれない主張でもあり、そのことが批判を生み出しもしたが、カウンターカルチャーという文脈からは強力な言説にされもした。