紙の本
自分は何をやりたいのか悩む前に、適切に悩むための技術が必要である。
2001/02/12 14:02
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投稿者:青山 - この投稿者のレビュー一覧を見る
人は生き続ける限り、他人から、そして自分から「君は何がやりたいんだ?」と問われ続けている。それに答えようと過去を振り返ると、今まで「これがやりたい」と思っていたことが、実は、家族や友人や先輩、本の受け売りだったり、他人にちょっとほめられたりしたことがきっかけでそう思うようになっただけであると気づかされる。
体の奥底から突き上げてくる想いがない。「本当は何がやりたいんだ?」と悩む。そんな時、この本を読んでみるといいかもしれない。
「哲学は考えるための技術だ」という著者の導きに従い、考えながら読み進むうちに、ある<腑に落ちる>感覚が訪れる。
憑き物が落ちる。
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人生観というか、自分の生き方を説明する言葉や物語に行き詰まっている今の自分には、新鮮な視点が提示されていて、気が楽になった。
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<読了後、10年以上経過の備忘録>
「人間の最大のエロスは、人に認められることである」
このフレーズは忘れることはできない。自分流に発展解釈すれば、「人に認められていると、『自分自身が』心から思えること」ということであろうか。
20代の頃の悩み多き日々に出会った本だ。将来子供たちが成長して、人生の壁にぶつかったときに、ぜひ勧めたい本である。
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自分と他人、自分と社会の関係を深く了解するための技術としての哲学を案内した本。大学生のころに深く傾倒したのを最近思い出し、改めて読んでみた。自分の今の考え方の基礎に大きく影響している。
一言でいえば、人生は欲望ゲームの舞台である。
というのが命題。
その上で、興味深い概念をいろいろと示される。
「考え方の原理」とは
・自分がいろんな問題を考えることの「意味と理由」を考えること
・ある問題においてさまざまな考え方が現れて対立することの「意味と理由」を考えること
・自分がものごとを考えつつ生きることの「意味と理由」を考えること
・この三つが腑に落ちれば、「考えること」は、必ず困ったときに自分を支える”よい技術”になる
「私」とは
・「私」を考えておくとよいのは、不安や分裂にぶつかったときに立て直す支えになるから。
・デカルトは、「自主的ものごとを考え、疑う能力こそ「私」というものの核心点」と主張。神の摂理の中に組み入れられていた一人ひとりの人間の意味を解放した。近代的自我というやつ。同時代のパスカルの「人間は考える葦である」も同じ
・もう少し時代が進むと、他人と関係の中での「私」という考え方が出てくる。キルケゴールの「死に至る病」でいっているのは「「私」というのは、自と他の間の「関係の束」ということ。さらにヘーゲルは、自分は何ものにも依存しないで自分だけで立っているという「自己意識の自由」があるといったが、これは実は他者との関係の中ではじめて実現される、という意味で人間の本質は、他者との関係の中にある
・E・H・エリクソンは、「アイデンティティ(自己同一性)」という概念を提唱。①「自分はこの点が他人より優れている」、②「役割関係をもっている」という2点が確認できないと私が私であるという確信がもてなくなる。
・フロイトは、人間は自分の中に自我とエスという二つの自分を持っているという考え方をとった。自我とエスの間には、絶えず葛藤がある。その根本要因は、性的なエネルギーの存在。
・岸田秀は「関係としての私」と「私の中のもう一人の私」を一つの体系にまとめあげた。①自我=欲望、②欲望=物語、③物語=他人の物語の借り物、④どんな物語を実現しても、自我の安定にはならない=幻想
・自意識が出てくるのは、思春期=中学生前後。他人が自分をどう見ているのか、自分がどのくらい人から認められているか、が気になってくる。自分が他人から見て、長所をもった優れた人間でありたいという欲望の現れ。自分のアイデンティティを求めるようになる。
・ヘーゲルは「精神現象学」で、3つ挙げた。①ストア主義=なかなか他人が自分を認めてくれない、ため自分の力だけで自分を認めようとする。②スケプチシズム=どんな言い方に対してもわざと疑い、相対化することで、上位に立とうとする。③「不幸の意識」=外から「強い物語」を借りてくる。自分の正しさを絶対的に証明することができるように思える。体系のために自分を投げ出すことが要求されるというパラドックス。また、上には上が��る。結果、大なり小なり「引き裂かれる」=「不幸の意識」
・これらは必ず挫折につながる。「社会的存在としての人間」が促される
・私にとってとても大事なものこそ「私」の本体である、という面もある。「私」とは、生きる上で自分にとって最も大事な関係の「可能性」のこと
と、最初のころは、上記のように要約していた。
改めて、「欲求論」の観点から、この本を自分なりに解釈すると、まず、以下の論点を考える意味があると思う。
・「私」とは何か
・なぜ、「私」というものを考えるようになるのか
・なぜ、他人は「私」を脅かすのか
・「他者」という存在は、皆同じか
・本当に自己理解をするということはどういうことか
・男女関係のエロス性は、どうしてすり減っていくのか
・世界とは何か
・人間は、なぜ「神話・フィクション」の世界を必要とするのか
・人間は、なぜ世界の全体像を求めるのか
・世界とかかわるとはどういうことか
・最上の「ありうる」とは
これらの論点のとらえ方を最も端的に表す文章を抜粋すると以下のようになる。
・人間の欲望の目標は彼がたまたま生まれ落ちた社会の大きなルールの中で形成されます。しかし、「生きること」の本質は、この目標を達成すること自体にはない。そうではなくて、人間が有限な生と「非知」の中に閉じ込められ、そのことで世界のさまざまな対象にエロスを感じ、ある目標を立て、これを得る努力によってそのエロスを「味わうこと」、また永遠や無限というエロスに憧れること、そのこと自体の中にあるということです。・・・人間のエロス(快のこと。エロティシズムとは異なる)はゲーム的なものです。だからゲームのルールを変えることでエロスがより深いものになっていく原理をもっている。このことは、エロスというものが、もっと深く考える価値のあるものだということを教えています。
・その人間の本質が何であるかは、その人が自分が何らかの欲望に動かされている自分を、彼がどういうものとして、自分自身で理解しているのかということで決まるのです。そしてこの自己理解の違いは、その人の日常の態度を決定するのです。この態度を、普通わたしたちは、その人の「人格」とか「精神」などと呼んでいるのです。
・人間の自己理解は、その人がどういう現実(関係)を持つのかを決定するということです。・・・自己理解には「本当」も「嘘」もありません。しかし、他人との関係だけが、人間の自己理解を試すのです。逆にいうと人間が自分の自己理解の善し悪しを試すことができるのは、ただ他人との関係によってだけです。・・・人はどんなふうに自己理解しようと勝手ですが、自己中心的な自己理解をしていると、要するにしっぺ返しを受けることになります。・・・どんな人間も少しずつ自己中心性を引っ込めることでしか世の中で生きていくことはできません。・・・人間は絶対的に自己中心性を押し通すよりも、ある点でそれを我慢し、他人のルールを受け入れる方が世界から大きなエロスを得ることができることを学ぶ。生活とはそういう場所です。
・人間の欲望が何に向かうのかは、だからまず、それが多くの人々の認めることかどうか、次にその才能(可能性)が自分にあるかどうかで決まるのです。まったくルールのないところでは欲望は生じません。欲望というのは、いわば溝を掘ってそこを水が流れるということであって、溝がないところにただ水を流してもただ広がるだけです。・・・欲望のルールがすでに打ち立てられていることが「社会」というものの本質です。
・人間の欲望は煎じ詰めると、自我を維持保存し、拡大しようとする欲望と、逆に自我の枠を解き放って自我に掛かっている緊張を解き放ちたいという欲望の二つに分かれる。後者の欲望はまた追い詰めると、「超越」への欲望に近づいていくと言えます。