紙の本
シュルレアリスム
2015/10/24 00:57
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投稿者:はみぃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
の聖書とも言われる本ですが、シュルレアリスム好きな人でなければ唯々自意識過剰な芸術家の独白を聞くのみのつまらない時間になることでしょう。
ただ芸術の技法に関しては素晴らしいものはあると思うので、ダダイズムやダリが好きであれば読んでみる価値はあると思います。
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シュルレアリスムとは何かを規定したアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」は、普通の文章でかかれている(シュルレアリスム芸術を解釈するにあたっては必読であるだろう)が、「溶ける魚」の方はいかにもシュルレアリスム小説で、何が書かれているのか全く分からない。原文で読めばまた何か変わるのかもしれないが、日本語で読んで面白いものではない。
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超現実は現実を超えたところにあるのではない。あまりにも現実すぎる現実のことである。それは近代以降の風景が、あまりにも風景すぎることと同意である。絵画は風景を伝える。風景、景色とは、今、この「時」である。
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☆の付け方が分かりません。ただ、シュルレアリスムの本質が垣間見えた気がしてワクワクしました。何度か読み直したい宣言です。
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忘れてた。卒論のために読まねば。
こいつ頭おかしいよ。狂気の愛みたいに超個人的私信だったらどうしよう。
読んだ。
なんて横暴なんだ、法王ブルトン。
解説?注釈?がすばらしい。さすが巌谷国士さん。
溶ける魚を全訳した忍耐力がすばらしすぎる。マジ尊敬する。
こんな、訳分からん…。
シュルレアリスムは本来文学における運動ですね。
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シュルレアリスムという芸術運動を、確固たるものにした宣言。当時注目された精神分析・心理学…にヒントを得て、自動記述等を用いた無意識から現れる美を賛歌する。
『溶ける魚』はその、掴み所のない、溶解したもののような、それこそ無意識の海を漂う魚の気分にさせてくれる。
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掴みどころのない小さなものが漂っている感じ。
《シュルレアリスム宣言》に関してはこれは読めば分かる、
と言った風だけれども、
《溶ける魚》は原文ならもっと面白いかも知れない。
韻の踏み方や言葉のリズムが惜しい感じが拭えないけれど、
巖谷氏の訳/注釈が素敵なので星五つです。
(2009.02.14)
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文学におけるシュルレアリスムの登竜門の本作。本文自体は読みやすいとはいえないが巌谷氏の注解と解説によって理解を深められる。解説を読んでから『溶ける魚』を読むとかなり面白く読める
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「シュルレアリスム宣言」は「帝王」アンドレ・ブルトンによるシュルレアリスムの定義だそうである。
フロイト由来の無意識という概念へのまなざし、未知や想像力への賛美、笑い。
シュルレアリスムとは子供の想像力だそうだが、この本はナンセンスであると同時にどこか性的なにおいがする。
子供がそんなに性的なものに興味を持つだろうか……やはり大人が真剣かつ確信犯的に狂人の振りをしているように見える、というのが感想である。
「溶ける魚」はオートマティスムによって書かれた代物というだけあって、文法によって繋がれたランダムな単語の集合体であり、まともに理解することはできない。
「そういうもの」として流し読みしておくのが良さそうだ。
夏休みの読書感想文にはお勧めできない。
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溶ける魚
映像で見てみたい
哲学的で反抗的
解説が詳しくあって良かった。
歴史背景や、言葉、文化そういことを理解する人であれば、
とても強烈な文章に感じたんだと思います。
(興味)
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ことをはかるのは人間。ことをなすのも人間である。自分がすっかり自分のものになるかどうかは、つまり日ごとに恐ろしさをます自分の欲望の群れを無政府状態に保てるかどうかは、ひとえに人間しだいである。詩がそのことを人間に教える。
シュルレアリスム:男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それに基づいて後述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際状の働きを表現しようと企てる。
シュルレアリスム言語の諸形態が一番良く適合するのが、やはり対話。そこでは二つの思考がぶつかりあい、一方が心を打ち解けている間、他方はそれにかかわずらわる。
生きること、生きるのをやめることは想像の中の解決だ。生は別のところにある。
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訳文が逐語的で全く日本語の体を為していない。訳者の巖谷國士は仏語や仏文学には通暁しているのだろうが、訳文を日本語として練るという作業を全く怠っている。これでは、日本語の文字で書かれた仏語の文章だ。予め仏語の分かる者のみが解し得る文章であり、そういう者は始めから原書にあたるだろう。外国の言語や文化に造詣の深い学者が古典を翻訳する際に、日本語として余りにも歪な訳文を平気で作ってはそれが妥当なものとして受け容れられているという事態、これは日本独特のものなのだろう。
「溶ける魚」のほうは自動記述で書かれた文章とのことで、眼球の動きを早めて読んでみたが、全く意味不明で残るところなし。
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合理主義への反発でありフロイトが発見した深層心理に基づいて幼児期のように意識を意識することなく自動書記によって書くべきである。
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ナジャのほうがいいんだよなー。物語性に欠ける分、ナジャより読みにくい。この人は「自動書記」という、自身で制限時間を設け、感じるまま、自然に手のうごくままに書くということをしていたらしい。こんなやり方もあるのかと感じたい人は一読を。エンターテイメント性なし。
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何かに気づいたとき、とある人というのは、それを表現し、外部に訴えたくなる衝動が出る。たとえ誰も気づかないような、また見向きもされない小さな事でも、それに気づいて、表現をすれば、その人は立派な芸術家だと思う。そういう風な芸術というものの根本に突き動かされ、作品に昇華させた。しかも一個人のそうした気づきが、巨大な波となり、巨大な芸術の運動にまで昇華した。芸術とは何か。表現するとは何か。写実派、印象派、超現実派、そして象徴派や立体派などの芸術運動の源が、この書には描かれていると思った。