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兄キャパと同じくハンガリー生まれのユダヤ人。
1931年、兄は17歳で大学生だったが反ユダヤ主義軍事独裁政権に左翼活動で国外退去を「勧告」され、ベルリンのジャーナリズム学院に入学した(名機ライカの発売で、ドイツは報道写真家の第二の故郷となっていた)(コーネルは13歳だった)。「ハンガリー語は通じないが写真は世界共通語」であると学んだ。
1933年、キャパは反ユダヤ主義のナチス政権に堪えきれずパリに移住した。(写真技術は「シングルフラッシュも使いこなせない」未熟だった)
(なお。インドでガンジーは「ユダヤ人は迫害があっても生まれ育った国にとどまるべき」との意見を発表した)
1936年、スペイン市民戦争が勃発。キャパは戦争フォトジャーナリストとして現地に向かい、世界に発信した。同年、高校を卒業したコーネルは(医師志望だったが差別のためハンガリー大学への入学を断念させられ)パリへ行き、翌年には兄ロバートの助手として写真家経歴スタート。
1938年、兄と離れ、ニューヨークで先に移住していた母、母の姉妹二人と同居することになった。父はブダペストに一人残り、不振の自営業の好転を待っていたが同年、亡くなった。
その夏には兄ロバートもニューヨークに来て、週刊フォトマガジン『ライフ』と仮契約した。…第2次世界大戦…兄は“伝説の戦場カメラマン”となっていった。
20世紀は「写真で記録が残る時代」、前半のモノクロに想像力はかきたてられ記憶される。
(昔の、{映像の美しさに頼らない}モノクロ映画の面白さ。と共通して)
トータルのネガフィルムが公表されたことで、キャパ代表作の“倒れし兵士”の写真はヤラセ(ポージングしたもの)だったという疑惑が、濃厚になっている。
彼の伝記を訳した沢木耕太郎は、「伝説の戦場カメラマン」と呼ばれる重みが彼を苦しめた、のではないかと考察している。
巻末の年表に教示されること多い。
1946年、コーネルは『ライフ』誌の専属カメラマンに。
【イギリス】1950年から2年間。「当時は戦後のきびしい配給時代で、自家製の芽キャベツぐらいしか食べるものがないのがしょっちゅう。」
「ハイドパークの四季」「メイキャップで老け役に変容していくアレック・ギネス」
≪どのようにイギリス人はつくられるのだろう?≫寄宿学校ウィンチェスターの学監≪かれらをつくるのは、彼らの家庭だ。…とりまく文学や音楽を愛し、伝統を自覚すること。学校はプロセスを続けているにすぎない。『人間の資質を決めるのは高貴な生まれではなく厳格なしつけと堅実な教育である』、モットーは『人をつくるはマナーなり』≫
「ウィンチェスター・カレッジ(1382年創立)」「礼拝堂」「新入生しごき」「早朝の冷浴」「毎週の軍事教練(ライフル銃を手にしている)」
「女王近衛兵」…
【アメリカ】「(稀代のエンターテイナー・黒人ダンサー)ボージャングル」「その葬儀(4万5千人が参列)」「ゴルフコースでのイレネ・デュポン」「伝道師ビリー・グラハム」「1960年(すでに睡眠剤中毒で、最後の映画撮影の最中)マリリン・モンロー」「ハリー・ベラフォンテ(あまり濃くないが有色人種ではじめて映画で白人女とのキスシーンを演じた)」
写真集の表紙は「ひ孫をだきあげるグランマ・モーゼス」
「グランマ・モーゼス(70代後半「目が悪くなって」刺繍を断念、画業に転じたフォーク画家の草分け的存在)100歳の制作現場(「週に2枚は描くことにしているの、でもこの頃の気候で絵具の乾きが悪くって…」)」
【アメリカの政治】(1952年、56年の大統領選アイゼンハワーの対抗馬。)イリノイ州知事だったアドレー・スティーブンを尊敬し支持した。「1952年、大統領選に出馬するかどうか最後の思案…イリノイ州の自分の農園で(30メートル以上の大木の根元に寄りかかり腕組みしている、周辺は草原で樹はまばら)」「高い理想と類まれな献身の精神を持つ、おどろくほど心の温かい、賢明で機知に富む男」「離婚して三人の息子をかかえる父親」「その落選の表情」「アドレーはアイクのあの愛嬌あるスマイルに勝てなかった」(「将軍アイク」の人気は絶大であったが、彼も夫人も一度も投票に行ったことがなく政治姿勢、民主共和どちらから出馬かさえ直前まで白紙であった。軍人としての知名度だけの候補とは?不勉強で「マッカーシズムに唯一『もうやめとけ』と言える立場だったが沈黙」「‘60年、米大統領として初の訪日が挫折(沖縄には来た)」で記憶している)
「リンドン・ジョンソンの大統領候補指名を支持する男」「党大会風景」
1960年、アドレーは三度目にトライしようとしていた。…ウィスコンシン州の予備選挙を取材したのだが、そこで昇る星のような…若い政治家ジョン・F・ケネディと魅力的な妻ジャッキーに出会う。…“いまや偉大さを求める時だ”などという尊大なスローガンを唱える成り上がり者の上院議員が嫌いだった。…だがしかしケネディが若い人たちから呼び起こした反応の高まり、アドレーが若者からめったに引き出すことのなかった興奮は感じとることができた。しだいに、ほとんど不承不承だが、スティーヴンスンの時代は過ぎ去ったのだと認めざるを得なくなった…
日本の民主主義システムとは真逆の相違があるようだ。
「カリフォルニア遊説中、握手するジョン・F・ケネディの両手」「ニューヨーク市を選挙運動中のJFKとその妻ジャッキー」「ホワイトハウスでの閣僚会議」「ホワイトハウスの庭で、三か月の息子を乗せた乳母車を押すジャッキー(芝生に雪の集積が見える)」(ケネディ政権の「最初の百日」との特集企画があった。)今見ると痛ましいJFK 夫妻、20世紀は痛ましい、21世紀は見て見ぬふりの時代。
「ウィーンのアメリカ大使館でフルシチョフを迎えるJFK」…
「オレゴン州で選挙運動中のリチャード・M・ニクソンとその妻(黒人の集団と握手している)」
アメリカの“部族の儀式”たる選挙戦を見ると[政治]の本質の非論理性、野蛮さ=暴力性が露呈してるとも思う。JFK夫妻が痛ましい。選挙運動の熱狂を見ても、どうしても1963年11月22日を思い出してしまって切ない。
コーネルは、1968年ロバート・ケネディの大統領選選挙活動、も取材した…。「1964年、JFK暗殺の一年後、私は、ニュー��ーク州上院議員の議席を狙って出馬するロバート・ケネディの選挙戦第一日を取材…」「徹底した自己分析をおこなったあげく立候補を決意したRFKは、あたかも彼の兄が生き返ったかのように迎えられ…私もアメリカの政治を数多く取材したが、ボビー・ケネディの上院議員選挙戦第一日に見たような、候補者を迎える大衆の熱のあれほどの激しさは体験したことがない」
「あの最初の日、選挙戦がはじまって半時間とたたないうちに、彼は我にもなく(*引用者はこの一語は重要と思案する)JFKそのままのジェスチュアとイントネーションで語り始めていた。選挙戦が進むにつれ、彼はますます死んだ兄にそっくりになっていったのだった」
銃を持った者が大統領の至近距離に近づける、指導者が大衆に直面する勇気が必要なのがアメリカの民主主義とも言える。
(映画『タクシードライバー』にもあった)≪暗殺への最大の対策は民衆の支持≫。リンカーンもキング牧師も≪暗殺未遂≫に屈しなかったから歴史の残ったともいえる。
【ソヴィエト連邦】ソ連のロシア正教教会内の儀式、(通訳の)彼女はたずねた。なぜ…ロシア正教のような古臭くて無意味なものの写真を撮りたいのか…「考古学の遺跡とおなじで」「すっかりなくなっては、写真に撮れないからね」…ソ連での六週間は官憲と正教会の権威主義に翻弄され私の生涯で最もみじめな時間であった…が、全キャリアのなかで…最もよい写真を撮ることができた。
ナイーブな通訳の女子は知らなかったが、菅沼光弘によると「ロシア正教は、検察当局と癒着し、懺悔の秘密{超重要個人情報}が漏れることもあったので、大衆は正教会を見限っていた」という。『アンナ・カレーニナ』でも「離婚には皇帝の特別許可が必要」であったように、正教会はもともとトップが権力のトップと一致するので、そんなこともありそうではある。
一転してボリショイ・バレエ。伝統を継ぐべく、少女たちがレッスンを受ける姿の美しさ。
【ユダヤ教とイスラエル】1967年。「平和になって二十年目{何か誤訳ではないだろうか}を迎える国民の『いま』を見える本をつくることにあった」「兄が、イスラエルという国の建国と初期の歩みを取材した1948年から1950年にかけて、会い、写真を撮った人々がそこには大勢いた。」しかし「ヘブライ語もイディシュ語もしゃべらない私は、ここではまぎれもない異邦人だった」「遠い親戚、知ってはいるが会ったことのない人々が何人かいた」戦場カメラマンになるつもりなかったが、テル・アヴィブ滞在中に六日間戦争勃発。
「(自宅を壊されたと怒りをぶちまける)パレスチナ難民」「捕えられ釈放され送還のフェリーを待つエジプト軍兵士集団(負傷者もいる)」「(ヨルダン)難民キャンプの国連救助隊員の活動」勝利の映像は権力者が流すだろう、敗者に目を向ける“文学性”。
【知能障害をもつ人々】1954年には「知恵遅れの子どもたちは…暗い片隅に隔離されていた。まれに雑誌がそのような子の写真をのせるような場合には、いつも、両目に黒いマスク…」ライフ誌編集部の英断。
「インドシナで兄ロバートが死んだという報せを受けたのは、この記事と取りくんでいる最中であった。」
【インディオと宣教���】1956年、エクアドルで5人の宣教師が「キリスト教に改宗させようとして」原住民に殺される事件が起きた。「背中に槍を突き刺され河に浮かんでいた」未亡人たちは夫の仕事を受け継ぐと誓った。
翌年、現地に戻り未亡人の一人、エリザベス・エリオットの写真を撮った。彼女は夫を殺した種族アウカスに布教して大成功を収めつつあった。
「可能な限り現代文明に毒されていない原住民の生活を」で原住民アマフアカ族の裸体裸足の生活の美しさに魅せられ、「彼らはいまだにエデンの園で暮らしているように見えた」「いずれ文明が接触するなら」宣教師たちで良かった。
ラテンアメリカの原住民との体験は私の人生観を変えた。人間の反応の普遍性に引きこまれていった。
1960年代初期に、ラテンアメリカの取材旅行から戻ると、アメリカの“部族の儀式”をカメラにおさめるという長期計画に着手した。これは、新しい見方によるものであり、ジャングルで見たことに劣らぬほどエキゾチックで“原始的”であった。{原文primitiveだとすれば「本源的」「根本的」の意ではないか?}
【ラテンアメリカの政治】
1956年ニカラグア「独裁者アナスタシア・ソモサの暗殺後に逮捕された1000人の政敵の一部(鉄条網の囲い)」
1955年「独裁者ホアン・ベロンは、自分が作った少年クラブを訪れ、バスケットボール試合の優勝チームに賞として紙幣1000ペソ入りの財布を配り与えた」
1955年「ホアン・ベロンが失脚して焼き捨てられるペロニストの宣伝物」
1962年北東ブラジル「「冷酷な地主に抗して立ち上がれと、貧しい農民を励ます急進派の牧師(オバマ大統領そっくり)」
「牧師が私が応援するからと小作農の一家を安心させようとしている」(上記いずれも、神父ではないのか?)
同「耕した土地から追い出された隣人に同情してついに武器を手に取った小作農民たち」
1964年ボリヴィア「労働条件の改善を求めるデモ」
1955年ブエノスアイレス「ホアン・ベロンの支持者たち(1万人以上?密集。街燈に登って垂れ幕をかざす父子?)」
同「反ベロン派は、木によじ登り、アルゼンチン海軍反乱部隊の到着を歓呼して迎える」
グァテマラ「小作農民が、共産党の支持を受ける改革派政府によって建てられた小学校の開校式でシャンパンを飲んでいる(ノーネクタイ。ダークスーツとブレザーに見えなくもないが裸足)」
「ブラジルのレシファ市では、幼児の死亡率が極端に高く、墓穴が前もって掘られている」
「ラテンアメリカでは戦争がないにもかかわらず、ボブの作品を思い起こさせる光景といつも向かい合った。それは、スペインや、中国や、ボブが取材をしたその他すべての場所で一般市民が受けた苦しみを写した写真だ。」「自分が見たものに心が痛んだ。そしてあらゆる戦争の中でもっとも長くて重要な戦争ーー貧困、無知、抑圧に対する戦争のパルチザンになった」