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学史ではなく、明治時代から昭和初期までの24人の学者の群像を描いた本。各学者に縁の深い者が執筆を担当し、学問的業績から個人的思い出までを生き生きと記録している。
私がそうだが、学問そのものよりも、それに関わった先哲の生身の姿の方が興味深い場合がある。しかし、余程の偉人でない限り伝記などは編まれないし、特定の学問について学者の群像をまとめた本も少ない。本書は、個性ある学者たちの姿を追いながら東洋学を概観できる、非常に貴重な本である。このような良質の本が、様々な学問分野でまとめられるとうれしい。
人名に振り仮名があるとなおよかった。
<メモ>(※一部の学者のみ)
○那珂通世(なかみちよ)
・東洋史の創設者…西洋史に対する東洋史であり、中国中心だが、東洋諸国・東洋諸民族の歴史を包括
・福沢諭吉に師事
・『支那通史』…中国の文化が歴史的に停滞していたとみなす(内藤湖南とは対照的)
・三宅米吉(よねきち)(国史学)…最大の知己、親友
○白鳥庫吉(しらとりくらきち)
・東京帝国大学中心に活動
・天皇主義者…教育勅語を学問研究の指針とする。帝国大学の「あるべき学問」そのもの
・日本の東洋学を西洋の水準に引き上げることが念願
・『東洋学報』の前身を刊行
・三菱・岩崎久弥がモリソン文庫(中国関係洋書)を購入→財団法人東洋文庫…白鳥が理事
○内藤湖南(虎次郎)
・『明教新誌』『日本人』記者→京大教授
・日本は中国文明圏の一員…マルクス主義などの西洋文明を輸入するのでなく、東洋に内在する進歩の要素を日中が協力して強化・発展させるべき
・宋代以後近世説(京都学派)⇔宋代以後中世説(東大系マルクス主義学派)…国際的には前者が優勢
・中国の思想家・章炳麟(しょうへいりん)の思想を強く意識
・京大文科東洋史学第一講座
・神田喜一郎、貝塚茂樹を輩出
○狩野(かの)直喜(君山)
・考証学
・内藤湖南・桑原隲蔵とともに京都学派形成
・東方文化学院初代京都研究所長
・書…清の劉墉(りゅうよう)を学ぶ
○鈴木大拙
・仏教学者
・真宗大谷大学で活動
・東方仏教徒協会設立
・英文雑誌The Eastern Buddhist 創刊
○桑原隲蔵
・那珂通世に師事
・内藤湖南と好対照(内藤:同時代の政治にも目配り:『史記』の司馬遷的⇔桑原:厳密な考証:『資治通鑑』の司馬光的)
・支那哲学、東洋史学、支那文学・語学の研究室合体→(大正3年~昭和39年)支那哲学、支那文学・語学は図書室共有、東洋史は研究室・図書室ともに新設の史学科陳列館へ移転
・学生時代に東大の漢文科から東洋史学を独立させる
・京大文科東洋史学第二講座
○津田左右吉
・最大級の全集の規模(全35巻)
・白鳥庫吉に師事
・内藤湖南の対極に位置(内藤:日本は東洋の一員、中国は身内⇔津田:東洋という特別なものはなく日本は世界の一部、中国は他者)
・毎朝のトーストの食習慣
○鈴木虎雄(豹軒)
・中国文学
・日本新聞社・台湾日日新報社→狩野直喜が京都帝���大学文科大学助教授に引っ張る
・杜詩の訳注
・生涯借家住まい、月収の相当部分を漢籍の購入に費やす
・蔵書は京大文学部に移管「鈴木文庫」
・和歌もよくする…正岡子規との交わり
○濱田耕作
・考古学
・白鳥庫吉に師事
・(大正5年)京都帝国大学に日本で最初の考古学講座設置→担任、翌6年に教授
・(昭和5年)文学部長
・(昭和12年)京都帝国大学総長
・門下生…梅原末治(すえじ)、島田貞彦、有光教一
○羽田亨
・東京帝大で白鳥庫吉に師事→新聞記者を志望していたが東洋史学に志望変更
・京大文学部教授東洋史学第三・第二講座担当
・宮崎市定を輩出
・文学部長、付属図書館長、京都帝大総長、人文科学研究所創設、東方文化研究所長
・語学的才能、緻密で慎重な思考、大局観
・簡潔にして明晰な論文←京大で身近に接した内藤湖南・桑原隲蔵の影響
○青木正兒(まさる)
・中国文学
・京都帝大文科大学に新設の支那文学講座第1期生
・狩野直喜・鈴木虎雄に師事
・「徒らに字句の解釋にのみ没頭して、一文一詩の意義を覺ることにのみ汲々として居ては、何時までも批評眼は養はれず、さればとて意義の研究を粗略にして、濫りに批評を加へても結局空論に終るを免れぬであらう。解釋と批評と相參互して進む、換言すれば讀む事と味ふ事と並行して進むことが肝要かと思はれる。」
・京都帝大に赴任