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大変おもしろく読めた。下着について身に付ける人とその人との関係性などが時代の変遷などとともに述べられている。新しい視点,考え方が得られたような気がする。そんな本であった。
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周りが上野千鶴子上野千鶴子いうから読んだ。なんだこれ。昔、ロフトの地下で見た映画でニューヨークなんたらというのがあって、ゲイやらレズやらがどんちゃかしてるの見て、どう反応したらいいのか良くわからなかったのを思い出した。堂々と読むには抵抗あるだろうけど、面白かったす。
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▼想像は現実よりも豊かである
『日本人のブラジャーを歴史というものは浅く、おっぱいは母性の象徴で性的シンボルではありませんでした。日本での“おっぱい”は、隠すことによってタブーが発生し、隠されたことにより性的シンボルとしての値打ちが、ここ最近で上がった部位』『パンティ姿のカタログは、ヌードのカタログより卑猥でセクシーなことだろう。なぜなら“現実より想像の方がいつでも豊かだから”。』(上野千鶴子:著 / スカートの下の劇場 / P17、37)
『十代の少女の身体を性的使用から制限する習慣は、前近代の日本にはありませんでした。現代の売春やブルセラなどにみられる“少女”の商品価値は、彼女たちが“使用禁止の身体”の持ち主でありながら、同時に性的身体としても存在している、そいうその“落差”によって発生します。この“落差=現代の少女としての身体の価値”は、オヤジ社会の規範が生み出したものにすぎない。』『したがって、ブルセラ・ショップで高いお金を払って使用済みのパンツを買う男たちは、じぶんたちが生み出した妄想に勝手に発情する“鏡を見ながらマスターベーションするサル”というべき存在になります。』(上野千鶴子:著 / 発情装置〜エロスのシナリオ〜 / P9)
『ベトナム戦争当時、戦場を伝えるのは、従軍記者やジャーナリストが紡ぐ文章とスチール写真がすべてだった。でもだからこそ、逃げまどうベトナム農民の姿や銃を構える黒人米兵の横顔などの一瞬の映像に、僕らは背後にある戦場という凄惨な現実への想像力を喚起され、彼らの苦悶や虚無を共有することができた。』(森達也:著 / 世界が完全に思考停止する前に / P152)
『何か、あなたがそこから得ることがあれば、ありがたい、と思うけれど、得ることがなければどんな御立派なアートでも、仕様がないんじゃないか、と思う』(オノ・ヨーコ:著 / ただの私 / P4)
想像力って、今までの私にあったようでなかったというか、活用できていなかったように思う。今まで音楽とか映画とか芸術にあまり関心が無かった自分にもナットク…。“想像力”を意識しはじめたら、いろんなものが豊かに見えるから不思議です。人間ってそれがあるから厄介ですごいのね。ちなみに相方は、ボロいラーメン屋を見つけては『ここは隠れた名店に違いない!』と想像を膨らませ、実際に食べて“まずかった!”と怒っていることがよくあります。これも日常での一例かと(笑)。
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――ひとはどうしてパンティにこだわるのか?
『スカートの下の劇場』の副題にして、まさしくこの著作の中心である。
男女のセクシャリティの非対称性とその本質について、パンティという一見ありふれて、それゆえに日頃我々が一顧だにしないものの歴史を通して描き出した、セクシャリティの文明史が、ここにある。
上野氏は女性で、しかもフェミニズムと言えば確実にその名が挙がる人物であるが、そうした彼女の言説は、しばしばほとんど男性のもののように思われる。
目の付け所が、より正確には、目の付け方が、女由来というよりも男由来のように感じられるのである。
それはおそらく、彼女が、ヘテロセクシュアルな関係に無自覚に縛られることを避け、たとえばシスターフッドのような関係に対して相当意識的に目を向けていることによるのだろう。
あるいは彼女が、女という存在を徹底的に客体化するなかで、(自らの性である)女として捉える女と、男とは異なる性を有するものとして捉える女、という別物であるが同時に成立する女性像を獲得していることによるのかもしれない。
すると、ことによれば彼女に対して「男性的だ」と感じること自体が、すっかりヘテロセクシュアルな社会に染まりきって、男の相手として女を、女の相手として男を定置することに無批判に従順であることの証左であるといえるのかもしれない。
拒食症や色情狂の女性の身体観や、引用した部分のシスターフッド的な感覚などは、ため息を漏らさずにはいられないほど、それこそ身体と共に納得してしまうものであった。
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面白い。上野先生は、勝手に変なステレオタイプがあって、今まで敬遠してきたけども、これはめちゃくちゃ面白かったし、他の本も読んでみたいと思った。
パンツ=性器をオカンに支配されてるっていうあの指摘は深く深くうなずく。性革命というものが、女性にとってそれほど解放をもたらすものではなさそうだという指摘はなるほどなぁ・・・と。北原みのりさんの『アンアンのセックスできれいになった?』を読み返したくなった。
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副題~ひとはどうしてパンティにこだわるのか
単行本で出た当時、豊富な下着の広告写真と書名から、エロ本かと期待するが、論旨明快にパンティの形の変遷を通して女性イメージの作られ方の分析をした本である。
「セクシイ・ギャルの大研究」は下着に限らない広告を通しての女性イメージの研究だが、ここに使われているのも多くが下着の広告写真である。見る性(男)みられる性(女)という観点がよりダイレクトに現れるのが下着広告かもしれない。互いに抱く異性へのイメージは越え難いギャップがあることを再確認している。
この本は当初、化粧品会社ポーラの業界紙「IS」に載せる予定だったものをふくらませたものだという。
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上野千鶴子さんって、やっぱりいろんなこと考えてるのね。 全部が参考になるかどうかは置いといて、今まで当たり前だと思っていたことが、実は文化的にすり込まれていたのかもしれない、と思うことはいくつかあった。
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パンツの歴史の本。
…って書くと身もフタもないな。
東大教授にして稀代のフェミニスト、
上野センセが書いてるだけあってパンツの
歴史にとどまってるのは第一章のみ。
後半は下着を題材に男女のセクシュアリティの違いに
鋭く切り込んでお逝きになられます。
「パンツの歴史はたかだか30年」
「下着を毎日洗濯するようになったのは洗濯機が普及したから」
などなど、雑学として
使える知識もある一方、
『「マラ兄弟」という言葉がありますが、その逆はなんだろうかと考えてみました。最近になって命名しました。-「オマンコ・シスターズ」-可愛いでしょう』
ってアナタ。
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下着、特にパンツと性の文化についてのエッセイ。
個人的にパンツと恥の歴史について興味があり、関連するものが無いかと手にとった。
パンツは隠しつつ誇示するもの
パンツの歴史は意外と浅い
ソロレート婚とレビレート婚(p108)
(妻が死んだあと妻の姉妹が後妻になる、寡婦が夫の兄弟を後夫に)
フェチは目標に達する手段ではなくそれ自体が目標?(p136)
性器のパーツ化(肉体という一枚岩から顕在化してくる)
など、興味を引く部分もあるがピンと来ないところも多い。
自分と考えが違ったり、あとは書かれた時代によるのかもしれない。
(拒食症の部分やp201を読むとそうかもなと思う)
ブログ:
http://haiiro-canvas.blogspot.jp/2012/10/blog-post_12.html
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人はどうしてパンティにこだわるのか(副題)
装置として下着を見てみる。
結構難しい単語が出てきたけど、面白い。
(どうでもいいかもしれないがパンティとパンツがどう違うのかが気にな
る)
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素材の妙でしょう。それまで、こんなことをまじめに取扱ってきた人はいなかったでしょうから、そのニッチ性が非常に新鮮だった記憶があります。題名には大いに惹かれていたのですが、実際に手にし、読んだのは今回が初めて。なかなかの切れ者だというのはわかるのですが、一面的で、偏見と独断な部分もあるので、読んでいて不快感を覚える人もいるかもしれません。特に小生など広範なインフォーマントがなどと書かれると余計に怪しい感じがしますよね。数、年齢層、社会的地位、ジェンダーくらいの情報があってもしかるべきではないか?と。
しかしながら、時間つぶしにはもってこい。楽しめました。
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(2015.01.31読了)(2003.04.07購入)
興味はあるけど、表紙の写真と題名からちょっと買うのは躊躇してしまう本です。10年余りの躊躇の末に購入したけれど、ひと目のある処では、なかなか広げられないので、さらに10年余り経過してしまいました。やれやれ。
社会学者による女性の下穿きに関する考察です。
いつごろから穿くようになったのか。誰が買い、管理するのか。色や模様が着いたものはなぜ必要なのか。他人が見ることはほとんどないのに、なぜ気にしないといけないのか。絹製の物が出て来たけど、誰が買うのか。など、社会勉強になるような興味深いことがあれこれと書いてあります。一部、社会学か哲学のカタカナ用語が飛び交って、意味不明なところもあるのですが。
日本では、大正以後ぐらいに穿くようになったようです。着物の文化のときは、腰巻きだったので、下穿きはつけていません。
起源は、生理帯ではないのか、ということです。
パンティやパンツは、基本的には、母親が買って、洗濯もするので、性器の状態の管理は母親が行っている、という考察は、なる程と思ってしまいました。女性は初潮の後に、自分で洗うようになる場合は、その時点で母親の管理を離れることになります。
男の子の場合は、大学進学や就職で親元を離れて、自分で洗濯するようになると親離れの証として、ブリーフからトランクスに変えるという話は、興味深く読みました。
下穿きを毎日履き替えるようになったのは、風呂に毎日入るようになってからではないかというのは、妥当な気がします。風呂に入ったあとに、新しい下穿きに履き替えるし、風呂に入ることがない場合には、下穿きを履きかえるチャンスがなさそうです。
毎日、色や柄の違う者に履き替えるのは、自己満足というか、ナルシシズムというのも妥当でしょう。
女性同士で、着るものや穿く者を共有する人たちのなかには、下穿きを共有したり、男を共有する場合もあるとか。一種の安心感があるのでしょう。同じ感覚を共有するという。
好きな男に見てもらうために、下穿きを選ぶという考えもあるようですが、明るいところでことに及ぶなら可能性もあるでしょうが、明るいところでも、男に下穿きを鑑賞している余裕などあるでしょうか、という指摘はもっともです。
下穿きのあれこれを男が見るとしたら、ポルノやビニ本のような自分で女性に直接触ることのできない場合ではないでしょうか、というのももっともな指摘です。
【目次】
序 PRE-TEXTE 女だけの王国
1 歴史 下着進化論
2 家族 下着と性器管理
3 現代 パンティはカジュアル化する
4 心理 鏡の国のナルシシズム
5 生理 性器を覆う絹のラップ
あとがき
文庫版のあとがき
●パンティ(22頁)
女がパンティを選ぶときの基準は、二つあるように思える―一つは言わずもがなのセックス・アピール。もう一つはナルシシズムである。別の言葉で言いかえれば、それが男にどう見えるか、ということと、それが自分にどう見えるか、ということである。
●隠すもの(36頁)
女の性器をミニマムの形で隠すものの起源を考えると、ひとつは、���経のときの最も機能的な役割を持ったT字帯のようなものと、もう一つは、ストリッパーが最後にとるバタフライ、つまりミニマムの性器隠しとの二つしか考えられません。
●おむつ(46頁)
オムツというのは子供にとってはものすごく迷惑な代物です。あんな不愉快なものを股に当てられて、それだけではなく、不自然な格好で固定されるわけですから、がに股になったり股関節脱臼になったりする。これはほとんど人災です。
オムツというのは、排泄という行為を家屋から追い出した住居空間に人間が住みだした後の文明の産物なんだ、ということがわかります。
●洗濯労働(76頁)
洗濯は家事労働の中でも一番重労働でした。
水のないところではまず水を汲んでくるだけでも重労働。ポンプのあるところでもポンプを押して汲みあげるのが重労働。もちろんその後のごしごしが重労働。ですから歴史的に見ても、家事労働のなかで職業として最初に自立したのは洗濯女です。洗濯は女が一番やりたくない労働でした。
●猥褻(130頁)
猥褻なのは心理であって肉体ではないのです。現実よりも想像のほうが猥褻であり、肉体よりも心理のほうが常に猥褻です。
●セクシュアリティ(138頁)
アメリカの性教育協会によるセクシュアリティの定義は、「セックスは両脚の間にではなく、両耳の間にある」というものですが、言いかえれば「教養のない人にはセックスは楽しめません。セックスは教養の産物です。セックスは誰にでもできますが、セックスを楽しむことは教養のない人にはできません」ということでもあります。
●女性の性欲(178頁)
ムスリム(イスラム教徒)の社会は一般的にそうですけれども、女性というものの性欲が非常に強い生き物であるという文化的な観念があります。
☆上野千鶴子の本(既読)
「資本制と家事労働」上野千鶴子著、海鳴社、1985.02.28
「ドイツの見えない壁」上野千鶴子・他著、岩波新書、1993.12.20
「うわの空 ドイツその日暮らし」上野千鶴子著、朝日文芸文庫、1996.03.01
「おひとりさまの老後」上野千鶴子著、法研、2007.07.12
(2015年2月4日・記)
(「BOOK」データベースより)amazon
ひとはどうしてパンティにこだわるのか?なぜ性器を隠すのか?女はどういう基準でパンティを選ぶのか?セックス・アピールかナルシシズムか?女と男のナルシシズムはどう違うのか?―女と男の非対称性に深く立ち入り、セクシュアリティの本質を下着の歴史を通してあざやかに描ききって大きな反響をひきおこした、セクシュアリティの文明史。
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建築関係の本から、薦められていたため借りた。
割りと一気に読んでしまったが、自分の理解が浅いと思うので、感想も出しにくい。
今回は、特に本書からのポイントは抜き出さないことにする。
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日本のフェミニズムを牽引してきた著者が、かなりきわどい話題を扱いつつ、男女のセクシュアリティをめぐる問題に鋭く切り込んだ本です。
家事労働を一手に引き受けることを余儀なくされている主婦が、下着の管理を通して性器の管理をおこなっているという指摘がなされています。社会学の観点から下着を通して現代の日本における家族の姿に迫っていく議論の運びは、スリリングな興奮をもたらしてくれます。
また、男女の性幻想の非対称性に関する指摘も、興味深く読みました。男性の場合は性的なファンタジーの対象を外在化して客体化するのに対して、男性によって値踏みされることで有用性が決定される女性の場合、自己の身体を客体化してそれに固着することになります。著者はこうした基本的な考えに基づいて、男性のフェティシズムと女性のナルシシズムを解き明かそうとしています。
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本屋で面陳されていたので、いい機会だと思って。(^^;
女性にとっての下着感は男性にとってのそれとはまったく異なるのだなぁという感じ。
もちろん、1989 年の論考である以上、現在ではまた別な考え方もあるんだろうけど、これはこれで納得できるところがあります。
この本を、例えば現在では女性もボクサータイプのパンツをはく、って観点を交えてリファインしてみてもらいたいなぁ。