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映画監督ヘルツォークが、病の床についた批評家ロッテ・アイスナーを見舞い、その行為によって癒すために、雪と氷のなかミュンヘンから彼女のいるパリまで、歩いていくその記録。白と黒しかない視界が強烈に残る。歩く、という行為によって内省が外へと溢れだし、覆い、まるで一つの精霊のようになって他者を訪うさまは火のそばで語られる民話のよう。
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ヘルツォークこんな本出してたのか。と、数年前に古本屋で見つけて異常に高かった(AMAZONの中古価格はその倍以上になっとる!)が、ジュンク堂検索したらあったので、池袋店から取り寄せて入手。半分ぐらいは読んだけどまだ読めておりません。
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現実のひとコマから連想が広がり過去と現在の境目が曖昧になり、ひたすら歩き続けることで肉体と精神の境目が曖昧となる。
無茶の果てに見えてくるものがあるというヘルツォークの映画哲学は若き日から確たるものとしてあったのだ。
シチュエーションが違いすぎるけれど、何故かシューベルトの「冬の旅」が浮かんでしょうがなかった。
「冬の旅」の失恋青年はあてなくさまよい最後は狂気の中に迷い込むが、若き日のヘルツォークは目的を果たす…と、そもそも旅の意味が全く違うというものの、ひとり黙々孤独とともに歩き、雪・カラス・誰も通らない路などなどイメージが重なる。
ヘルツォークがこの音楽を聞いていなかったはずはなく、どこか意識していたのかもしれない。