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2010.9.3
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というフレーズにびびっときたので読んでみたけど、ほとんど分からなかった。
論理学の素養がある程度ないとダメなのかな。
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入門といいながら易しい内容ではありません。前提知識のいらないように書かれているようですが、実際のところは哲学上の語句や論理学上の知識が求められているように思います。
さらに、ウィトゲンシュタインが言うところの”語り得ぬもの”という問題について、かなり踏み込んだところまで解説しているので、かなり入念に読んで考えないとその意味することろが想像しにくいです。前述の知識の問題と相まって、読んでいてなかなかイメージのわかない印象があります。もしかしたら、著者が言うように、”語り得ぬもの”についての問題意識を共有できない人にしかそもそも理解の難しい問題なのかも知れません。
そんなわけで、哲学的な素地も問題意識の共有もできていない私にはちょっと厳しい内容でした。ただ、ウィトゲンシュタインの問題意識を共有することができるなら、これは単にウィトゲンシュタインの思想の紹介にとどまらないで、自ら本当に哲学するための入門書となりうる内容なんじゃないかなあと思います。常に自らの中の問いに向き合い問い続けていくという姿勢自体が哲学であって、応えを見つけることが哲学ではないという著者の主張には大変考えさせられるものがあります。
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「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」("青本")
著者の理解するウィトゲンシュタイン哲学が、今までそれに触れたことがない人にも伝わるように説明されている導入本。
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ウィトゲンシュタインの入門書といいつつも、入門書としては難しかった。
ウィトゲンシュタインの哲学について、論考から哲学探究まで全て盛り込んで書いている結果、説明不足感は否めず、読んでいて大変。
もうちょっと勉強してから読みなおしたい。
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入門、とありますが必ずしも理解し易い内容ではないという風に思いました。ある程度論理学等の知識があると分かり易くなるのかもですが……自分はやや理解するのが困難に感じました。もう少し具体的な例えがあれば読み手としては読み易かったかもしれません。
あと個人的には、ウィトゲンシュタインの『論考』についての入門であるなら、 http://booklog.jp/asin/4480089810 こちらから読んだ方が分かり易いように思いました(あくまで個人的にはですが……)。こちらは『論考』で書かれていることについて、簡単な具体例をいくつも挙げた上で説明をしてくれているので、すんなりと頭の中に入ってくると思います。一応、参考までに。
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7頁半でダウン。ベッドで寝ながら読もうとして、顔の上に本が落ちたこと数回。でも、小さく軽いので被害なし、よく配慮されている。
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『「語りえぬものについては沈黙しなければならない」ということすら語れなくなる』、それがヴィトゲンシュタインの真髄と言えよう。友人がこの言葉を引用してどれだけ考えても意味がない、といったことをかつて言っていたが、それはかなり乱暴な解釈であろうと思われる。語りえぬものについて沈黙しなければならないとヴィトゲンシュタインが言ったのは、どれだけ語りたくとも語れないからである。では、語れないものとは何なのか?そこには、アプリオリ的な超越と、形而上学的な超越がある。前者はカントやフッサール的な超越であろうし、後者はいわゆる神や宗教などといった次元における超越なのだろう。この両者を区別しているあたりがなんともヴィトゲンシュタインの凄さだろうと感じる。著者の永井は、ヴィトゲンシュタインとニーチェを圧倒的な哲学者だと述べているが、その点に関しては全面的に同意したいと感じた。なぜなら、ヴィトゲンシュタインは語りえぬものを語りえぬものとするために徹底的に語ろうとしているからである。これは哲学に全てをかけたといっても過言ではない。もはや執念である。その点で、ニーチェに相通ずるところがあろう。ヴィトゲンシュタインはこの二つの超越の後者は語る術がないと決め付けた。しかし、実際に語る術はない。最終的に彼は、これらを語ろうとした瞬間にそれらは言語ゲームになってしまう、といった具合に(永井的には)考えたようで、結局のところ後者にはほぼ語らなかったらしい。とはいえ、「信じる」という言葉は用いたらしい。彼が信じるという言葉を用いたならば、それらが言語ゲームに陥ってしまうことを知りながらも、彼は、「信じる」という言葉を用いたことは意義深い。彼が信じるという言葉を用いるためには、彼が、「語りえない領域」に到達していなければならない。果たして彼は到達できたのか、できなかったのか?
結局のところ彼が格闘したのは超越の前者なのであろう。カントが言う、アプリオリやフッサールが言う超越論的自我とでもいったものを彼は徹底的に語りつくそうとした。その際に彼はソシュール的な構造主義も用いたし、真理関数や文法、命題、写像形式といった彼独自の概念を色々と打ち出しては、それをことごとく否定していく。彼の凄まじいところは、彼が技術的な言語学に陥っているわけでもなければ、周辺的な論理学に陥っているわけでもないからである。つまり、言語学や論理学などといったジャンルは、我々は言語なしでは思考も認識も出来ず、結局のところ我々が提唱する真理すらも言語的制約を受けているといった具合で、言語学や論理学に焦点が当たっているのだろうが、しかし、それらは大抵はテクニカルな論議や周辺的な論議にとどまっていて、真理に迫りきれていない、あるいは迫ることを放棄しているようにも感じられる。彼らはそれを明らかにすることで何を明らかにしようとしているのか?ヴィトゲンシュタインの凄まじいところは全てを自分でしようとしたことにあるのだろう。彼は、真理を志向すること、そしてその真理を志向するために限界へと突き進もうとすること、言うなれば、哲学者+論理学者+言語学者の仕事を丸ごと自分でやってしまおうとしているわけ���あって、分業制度が確立されている現在からすればそれは常軌を逸していると言えることなのかもしれない。前期、中期、後期と変遷していく中で、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」から、『「語りえぬものについては沈黙しなければならない」ということすら語れなくなる』へと彼は変遷していくのである。つまり、この私という場合のこの私とは?といった問いに対して、前期の彼はそれは私にしかわからないと答えたのだろう。後期の彼は、私がそれについて語ろうとすればそれは結局のところ文法規則であり、言語ゲームになってしまうという点において語れはしないのである。永井が伝えたかったエッセンスはこれなのだろう。しかしこのエッセンス自体が本当に重要なのかと言うとそうではない。これだけではエッセンスが抽出されているだけだからである。つまり、ヴィトゲンシュタインが緻密な論理によってこのエッセンスを明証していく様が彼の真骨頂であり、その結果としてこの答えに到達するところが彼の真髄なのだろう。だが、無論これは彼の哲学であり、更に言うなれば永井ヴィトゲンシュタインの哲学なのである。なので、俺は俺の哲学をしようと、まあ、そんな具合である。
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Wittgensteinの入門書といえば本書らしい。
入門書といっても、序論で「問題そのものをわかりやすくしてしまうような入門書なら読まないほうがいいと思っている」と述べているように、行間を考えながら読むと時間がかかる。
本書のように哲学書の入門書は、はじめに原著を読んでその後の本書のような入門書を読むとわかりやすいのか、その逆のほうがわかりやすいのか。
私は、数学を学んだ人ならば原著から読んだほうがWittgensteinはわかりやすいのでは無いかと思う。
というのも、Wittgensteinは数学特に集合論や論理学に精通しており、その哲学的な思想も数学を強く意識しているからである。
本書は写像理論への言及があまり多くないことが少し違和感を覚えたが、Wittgensteinの何が問題で、どう考えるか、ということを詳しく説明している。その意味で、例えば、言語ゲームそのものへの説明はあまり多くない。
ということで、本書を最初に読むのではなく、講談社の新書のように比較的軽い解説書(入門書)から写像理論や言語ゲームそのものに関して知識を習得し、本書を読むという方が良いかと思う。
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わたしが本書から感じた「この」感覚は、わたし以外に感じることは出来ない…この本を手にし読んだ方には、わたしが言わんとするところを理解してくれるのではないかと思う。
わたしが幼きころに抱いていた疑問に答えてくれた1冊のような気がする。
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この本読むの何度目だろ。ふう、やっと近づいてきた。ウィトゲンシュタインって本当にかっこいいです。ドライブかかってきたので、ずっと積んである全集に(今度こそ)とりかかろう。
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「語りえぬこと」については、どうすべきなのか。それは……結局読み手が考えないとね、という、いい意味で不親切な本。
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ウィトゲンシュタインの哲学の全体像を、独我論を中心軸として読み解こうとする試み。その点で、ウィトゲンシュタインの哲学を網羅的に紹介しているというわけではないが、『論理哲学論考』から『哲学探求』に至るまでの彼の思考の発展を、統一的視座のもとに描き出しているために、ウィトゲンシュタインが何を考えていたのかがよくわかる内容になっている。
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ウィトゲンシュタインの哲学について書かれたものだが、題に「入門」とあるものの、難度の高い本。これは、本書の書かれ方によるものではなく、そもそもウィトゲンシュタインの哲学の難度が高いためだと思う。内容について、分かったような気がする部分もあるが、厳密には理解できなかった。理解するためには、本格的に各種文献にあたる必要がある点はわかった。その点については、本書では各種文献が分かりやすく紹介されており、「入門」というにふさわしいと思う。
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106ページで挫折。//序文に、「優れた哲学者とは、すでに知られている問題に新しい答えを出した人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。」と書かれている。//「論理哲学論考」、「写像」、「真理関数」等は、私には抽象的な要素からなる命題を関数的に提示されているようで、理解を超える。果たしてそれがウィトゲンシュタインが新しく気づいた領域だとしても、どれだけ意味のあることなのか、分からなかった。
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*前期ウィトゲンシュタイン:論理哲学論考
沈黙すべきものを内側から限界づけ、そのことによってそれに正当な位置を与えるための書物。世界認識のための言語の限界を語る。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
経験によって知られるA→Bの関係(因果関係)が成立するとき、外的関係(経験的関係)と言える。しかし、言語と世界との結びつきは、それ以外が考えられないような内的関係(先験的関係)であると言える。この独特な関係は、「論理形式」を共有することで成り立っている
存在論として、事態とは諸対象が特定の仕方で結びついたもので、成立した事態のことを事実と呼ぶ。要素的な事態が複合的に結びつくと、状態になる。世界とは、論理空間の中の事実の全集合を示す。これは、「世界について語りうるためには、このようにできているのでなければならない」という論理から、言語と同じ構造である。論理空間そのものは全く偶然性がないが、どれが現実化するかはすべて偶然である。
あらゆるものを現実に表現し直すとそれは写像になるが、その写像関係それ自体を表現することはできない。命題は像であり、像を構成する諸要素は、それによって写像されるものの持つ諸要素に対応する。命題は対象の名前から成る名辞から成り立つ。命題における名辞の配列の仕方は、事態における対象の配列の仕方に対応する。ここから、世界の構成要素と言語の構成要素は対応していると言える。まとめると、命題は事実がいかにあるかを語り、名辞は命題の中において対象の配列を写しとり、指示する。このようにして、言葉は世界を写像する。
要素命題は要素的事態の成立を主張し、複合命題は複合的な事態=状態の成立を主張する。各要素命題間にはいかなる論理的依存関係もない。命題は現実を写像するために共有しなければならないものを、写像形式と呼ぶ。この外では言語の内に写像されない。したがって、写像形式は写像できない(例:『雨が降った』は雨が降ったことを意味する→循環論法。写像形式は写像不能)。ゆえに、これは語り得ない。
語り得ぬものは2つある。1つは、世界の形式そのものであるがゆえに語り得ない「先験的」なもの(論理)。もう1つが、世界の外にあるがゆえに語り得ない「超越論的」なもの(倫理)。世界の論理形式は変わることはないが、限界が変わることで世界の総体として実態が変わりうる。
独我論として、「言語」という先験的なものと「私」という超越的なものは、「私の言語」という媒体によって統一される。そして、私の言語の限界は私の世界の限界であり、主体は世界に属さず世界の限界となる。他人には他人の世界がある。
*中期ウィトゲンシュタイン
検証方法こそが命題の意味を始めて定める。語られるものは、まず真理(願望、仮説など)への志向があってそれが語られる。
*後期
言語ゲームとは、決して語られることのない、対象化されざる生活形式に基盤を持つ。そこに規則はなく、それを支えるものもない。例えば、実体化された「文法」は幻想である。