日本的な美とは?
2002/05/23 20:08
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投稿者:ぽん太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『日本文化私観』では、一般的に「日本的」であること、「日本の美」と言われるものに対してなぐり込みをかけるような勢いをもって安吾は否定にかかる。そんなものは日本的でも何でもないのだと。確かに一般的に日本的と言われるものに茶道・能・短歌など多くの伝統が挙げられるが、一体どれだけの日本人がそれに実質を感じているだろうか。我々は現に日本人であり、日本人である限りそんなものは必要ではないのだ。「全ては実質の問題だ。」能がなくなろうが短歌がなくなろうが、日本人であることの誇りを失わない限り、日本の実質的伝統は失われない。構造としては乱暴であるが、明確に理論づけられた安吾の主張は、雰囲気ばかりを大切にして「実質」を見失いがちな我々をハッとさせるようなものである。いさぎ良く勢いのある安吾節は読んでいて爽快でさえある。
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堕落論、日本文化私観をはじめとして、多くのエッセイが載っています。
ただ、文庫的にありえない価格設定。
そんなことより、坂口安吾の素晴らしさを手っ取り早くわかる本だと思います。初めて安吾を手に取った時の本がこれでした。
安吾は多くの名言を遺しましたが、わたしはやはり堕落論の一節「堕ちる道を堕ちきる事によって、自分自身を発見し、救わなければならない」が好きですね。
読めば、少なからず共感できると思いますよ。
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『堕落論』と同じく全集で読んだ。
伝統・習慣、そういったものの悪しき部分を躊躇うことなく暴き出し、
合理的でないものは全て滅び行くのが当然だと、そういうことかと。
簡単に言いすぎたか。
とにかく、鮮やか。
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こーゆー男って嫌だなーと思うのです。高圧的なところがね。言ってることも、個人的には突っ込みどころ満載なのだが。
うーんしかし、なんだかしんどい片思いしてる気分になったぜ。
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2014/6/19再読。
安吾がすきといいながらも全然手をつけてなかったエッセイ集に手を出してみけり
なんかあれ思い出した
ひょっこりひょうたんじまの
「泣くのはいやだわらっちゃお!」
ってやつ
「文学のふるさと」すきだなぁ
「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。」
「青春論」「欲望について」もすき
「もとより遊ぶということは退屈のシノニムであり、遊びによって人は真実幸福であり得るよしもないのである。然しながら「遊びたい」ということが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人の真実の幸福をもたらさないというだけのことだ。人の欲求することろ、常に必ずしも人を充たすものではなく、多くは裏切るものであり、マノン、侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかった。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだろう。その意味に於いては人は苦悩をもとめる動物であるかも知れない。」
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和風なんて言った時点で日本文化は終わってる。文化保持に対する先人の警鐘が込められた一冊。物知りなんだろうなー、好きなんだろうなー、んで言い方が下手なんだろうなー。アイヌ語で和人とは「シャモ」です。
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坂口安吾は、104年前の1906年10月20日に新潟市で生まれた小説家。
『不連続殺人事件』『桜の森の満開の下』『白痴』『安吾捕物帖』『堕落論』『安吾巷談』などなど、小説をはじめ翻訳までほとんどの作品を読んで来て、やはり彼の真骨頂は、小説家としてより評論というか文明批評や社会批評の面で大いに発揮されているように思います。
そして、家は先祖代々の旧家で地主で大富豪、衆議院議員の父の13人兄弟の12番目の子として生まれた出自は、その後の彼の人生にどういう影響を及ぼしたのか、想像に難くないのは私だけでしょうか。
それから、敗戦後に『堕落論』で一世を風靡し≪無頼派≫で鳴らしたことからも、かなり長生きしたような印象を持っていましたが、55年前の1955年に脳出血でわずか48歳で亡くなったことを知って驚きました。
それで、この本はというと、随分前に読んだのでほとんど忘れかけています。ただ記憶にあるのは、きっぷのいい啖呵を切ったような日本文化論、これじゃあ何のことやらさっぱり私もわかりませんので、夜っぴて再読しなきゃ。
・・で、高校生以来の再読で何もかも判明しました。
ちょうど『不連続殺人事件』を読み返す必要があったので、ついでに本書も読んだのですが、反抗精神旺盛な高校生のときに、私がなぜ太宰治を嫌悪し坂口安吾に憧れたのか。
本質的には、ほとんどべったりロマンティシズムとセンティメンタリズムさらにニヒリズムに支配される時期にあったあの思春期に、それらをまともに体現する太宰治に一部の友人は酔いしれていましたが、私は逆にあの言い訳がましさや逡巡やめめしさに我慢ならず反動でまったく逆の、見せかけだけの雰囲気や風情や感じに惑わされることなく、実質的な生活の質をたしかめることを高らかに宣言した坂口安吾の方に魅かれたというわけです。
既成の体制・文化・価値観に対するその反骨精神は、ちょうど同じころ気になっていた史的唯物論ともあいまって、私に思考のスタイルの転換さえせまるものでしたが、根源的なイズムの違いではないということで落ち着きました。
それはさておき、いま改めて読み返してみて思うことは、生活者の視点は重要だとしても、徒手空拳ではただの独りよがりの武骨な自爆行為にすぎないのであって、根本的な批判にもなっていないのではないか、ということです。
京都の社寺仏閣なんて知らないよとか、日本美の発見などしなくていいとか言っていたって始まらないのです。
それでは、文学の「やむべからざる実質」をないがしろにしようと企む、日本浪漫派や保守反動たちとはまともに対抗できないのではないかと私などは思ってしまうのです。
民衆の心の救済を願って建立された仏像や社寺仏閣が、その実いかにして民衆を支配するため、畏怖の念を抱かすために作られた政治的道具だったか。日本美とか幽玄などという抽象的なものを現出させ、あたかもすばらしいことのように喧伝したのは、たとえば、これは法然や親鸞も優れた思想家ではありましたが、現世(生きている今)より浄土(あの世)の方���すばらしいみたいに吹聴して現実逃避させ抵抗のもとを断ったという意味でとんでもない御用坊主だったことを指摘する、などということは、そうか、坂口安吾の力量・あの時代の思索の不可能性のため、とうてい無理だったのでしょう。
本人の突っ込み不足も否めませんが、あの当時の制約や孤立無援の闘いもあって、時代の趨勢を成すとか後続応援部隊が続々ということもなく、記念碑的な文章という意味はあっても歴史的にはほとんど・・・。
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「空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。」(ピエロ伝道者)
桜の木の下で狂うことで風流を気取るのもいいけど、自分としては安吾の本質はやはりエッセイにあるのではないかと。
誰もが見ているはずの景色なのに、誰も思いつかなかった視点からそれを切り取ってみせるその手際に学生当時衝撃を受けたものです。
また安吾のエッセイと言えばやはり、タイトルにインパクトのある「堕落論」が有名だけど、本当に面白いのはむしろ「日本文化私観」の方ではないでしょうか。ありきたりのわび・さびや風流をばさり。と切り捨て、返す刀で「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ」と言い切ってしまう。なのに文章の端々からは日本文化に対する矜持と愛情が伝わってくるという両義性を備えた安吾のエッセイには、何度読み返しても関心させられるばかりです。
「然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。」(日本文化私観)
「私はただ、私自身として、生きたいだけだ。
私は風景の中で安息したいとは思はない。又、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。」(デカダン文学論)
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昔読んだ工場の美しさのくだりは、激しく同意。機能美と言ってしまえばそれまでだけど、感覚的に分かる。かっこいい。
秀吉のくだりもなかなか興味深い。
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パラパラパラ~ってページをめくって、
「牧野さんの死」を読みました。
昭和11年に書かれたものなのね…。
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本当は「生きよ堕ちよ」という坂口安吾の著書を読み、その中に記載されていた日本文化私観をよんだのだけれど、ブクログに登録されていなかったため、こちらに感想を書くことにする。
最もインパクトがあった一言。それは、「美は特に美を意識して成された所からは生まれてこない」というところ。これこそまさに真実だと衝撃を受けた。
かっこよく見せたい、うまく見せたい、幸せに見せたい、できるように見せたい。そんなことに捉われてしまう人生だけど、終始一貫ただ必要であることを書き行うことが、美を生むということを忘れずに、自分にとって真に必要なことは何か、大切だと思うことは何かを問いかけながら、真実の生活を追い求めたい。