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世界に対する視点を180度転換するほどの威力。自分たちが今まで「真理」と信じてきたものが、歴史的産物に過ぎないということを示してくれる。フーコーの思想は間違いなくそういう威力を持っている。その威力は入門書ですら損なわれない。(というよりも、原典は誤訳もあるし、読みにくくもあるので、入門書の方が手取り早いといえば早い。)「言葉と物」の章は個人的にイマイチピンと来なかったんだが、「規律訓練型権力」や<生権力>を提示する他の章は抜群に面白い。
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ちくま新書には、他にもカントやデカルト、ハイデガー等の哲学者や思想家の入門本があるので、それを読んでみたいと思った。自分は本来そういった分かった気になるようなものを読むのは好きでないのだが、思想の流れのようなものを大まかに掴んでみたいし、一人ひとり丁寧に作品を読んでいったのではかなりの時間がかかり疲れる。
以上の理由から本書を読んでみた。以前にバタイユ入門を読んだが、それよりも非常に分かりやすく、内容も自分にとって興味深かった。フーコーの造語であるエスピテーメー、エノンセ等の概念が理解しづらかったがそれ以外は問題なかった。以下に、自分が考えさせられたところを箇条書きで記す。
「人間学の罠」
人間を研究するということ自体が根本に矛盾を孕んでいるということが説明される。研究の対象それ自体が研究の主体になるという点で、新に科学的にはなりえない。
心理学の矛盾についても触れられる。精神学や心理学は精神病患者をとらえられている何かから解放することを目的としているが、精神病患者というくくりそれ自体が、人間は本来このようにあるべきという「人間性」を前提としている。このような人間性を用いている限りで、人間を解放するのではなく、実際には人間の抑圧を強化する可能性があるとフーコーは考える。
「知の考古学」
この章では狂気や精神病院や監獄やまなざしといったことが取り上げられる。読んでから時間がたっているのでその内容はうろ覚えなので、ここには詳しく書かない。概要は理性が信頼され全盛の時代に第二次世界大戦などの大きな戦争があり、大量の殺人がなされたことからなぜ有史以来最も理性的であった国家がこのような大量殺人を巣に至ったか、それをどのように合理化していったのか。また、これまで信じてきた理性について疑いを抱き、理性は必ずしも万能ではなく、理性以外の人間の原始的な欲望も重要であると考えられ、研究され始めるという流れが説明される。
「監視と処罰」パノプティコン・訓練・従順な身体
パノプティコンの概念は、フロイト心理学の超自我の概念に似ていた。
学校などの機関においての勉学の奨励、または罰則などの訓練によって、社会にとって都合のよい存在「従順な身体」を作っているということは私人も考えていたことで、面白かった。特に興味深いのは、社会における訓練が監獄に利用されたのではなく、監獄や精神病院において発展してきた訓練の概念が社会に利用されているという指摘だった。
レヴィストロース「構造主義」
社会を構造的に解析することによって、一見無意味に見えることも実は大きな意味があるというもの。レヴィストロースの思想は全く触れたことがなかったので、新しい発見だった。例として近親相姦の禁止というのは、遺伝子的な問題ではなく、女性の交換を通して集団を開いたものとするという目的があるという。これだけで説明できるとは考えられないが、親族結婚では子供に遺伝子異常が生じる可能性が高まるというのは、実は何の科学的根拠がないと、何かの本で読んだことがあるので、科学的な根拠がないと、社会・人文的問題であり、この説明が最も有力なのかなあと思える。
フーコーは全ての思考の過程で共通して、本書にも書いてあるように、「人々が真理だと信じているものが、実は歴史的な根拠から作り上げられたものにすぎず、普遍的なものでも、絶対的に正しいものでもないということを示すことによって、自明で見慣れたものと考えていたものを覆すこと」を目標としていた。私自身もこの世の中の道徳や規則など、納得できなかったり、あまりにも手前勝手なものであるように感じられることが多い。日ごろからこのようなことを感じているので、フーコーの思考は自分にとっても分かりやすく、共感できるところが多かった。
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生活に応用できる哲学。
今現在の自分の立ち位置を見つめ直すいい機会になりました。
途中はしょりすぎて意味不明、難解な箇所もありましたが(言説の部分)個人的に興味深い理論なので別の解説書を手にとって補おうと思います。
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「監獄の誕生」を読んでみたくて、まずはとっかかりとして読んだ本です。
真理は権力と結びついている、真理を語っている人を見ないとダメ、といったあたりが新鮮でした。
次は「監獄の誕生」に行ってみよう!
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フーコーの思想を彼の著書をひもときながら、つまびらかにしていく。真理について、生権力と司牧者権力、統治性のプロジェクト、欲望、実存の美学、パレーシア、真理のゲーム。
とても分かり易く、面白い。生権力の福祉社会のパラドクスなど分かり易い。
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フーコーの話をずっとし続ける授業を受ける羽目になったので、とりあえず一冊入門書を読んでみようとして買ったもの。著者は最近光文社の新訳でご活躍中の中山元。
内容としては、フーコーが発表していった著作の流れに沿って、どのような問題意識によっていたのかと、その問題にどう取り組んだかが章のテーマ・著作ごとに語られる。パノプティコンなどの比較的読みやすい部分はそこそこ理解できたように感じたが、正直なところチンプンカンプンな部分も多くあった。そういった意味で「ぺらい入門書だ」という意識で読もうとすると跳ね返されるかもしれないし、実際「入門書」だからといってレベルを下げきったものではないように感じられた。
授業の役に立つかはわからないが、最終章の「真理」についての部分あたりは(解説が正しいのであれば)フーコーと強く共感するところもあったので、それだけでも読んだ価値はあったように感じる。
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フーコーの思想には「真理のゲーム」など啓発させられるものが多かったです。
著者のHPでも様々な解説を載せてるそうなのでぜひ参考にしたいところ。
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こんなことを言ってはフーコー礼賛者にぶっとばされるかもしれないが、どうにもフーコーは哲学者だと思われない。確かに彼は真理に迫っているつもりではったのかもしれないが、彼が迫ろうとしていたものは本当真理なのだろうか?フーコー入門という二百三十ページほどの新書を読んでこんな感想を抱くのもあれなのかもしれないが、そうした感想を抱かざるにはいられなかった。確かに、フーコーを歴史家というのは不十分だろう。彼は「考古学」といった歴史的な概念を持ち出し、実際に歴史を彼なりの価値観(哲学観とは敢えて言わない)でたどっていったように思われる。彼なりの起源を見つけて、ある種の歴史性、しかし、彼独自の歴史性を見出す手腕は見事である。とはいえ、現代的には半ば常識となりつつ範囲のこともある。これはある人が言っていたのだけれど、「ロックやルソーなんかが言っていることは別に誰でも言えることである」というのと非情に近しい感想なのかもしれない。個人的にはロックやルソーなんかも思想家だとは思うけれど、哲学者だとは思えない。そもそもが誰かのために――といった理由のために哲学があるわけではないのではないか?フーコーは大衆が当たり前のように信じている「真理」をうち揺るがすことこそが哲学者の使命だと感じているようであるが、それは二次的な使命であり、本性的には自らの疑問に答えを見つけることこそが哲学の使命であると感じられる。とはいえ、フーコーは同性愛者でありそのことに絶えず苦しみ続けたらしい。フロイトが言うところの超自我との戦いが彼の人生だったと言ってもいいくらいのようだ。彼は結果として、外部的な権威や道徳観を内部に取りこむといったことを言っているがそれにしたって彼自身の体験に根ざしているだろう。つまりは精神分析である。彼は絶えず自らを精神分析し、そうして自らがアウトローであるだけにそれだけに社会という意識も強く持たずにはいられなかった。結果として彼は社会観と精神分析を基軸とした哲学を構築したと言われるのだろうが、それは哲学というよりはやはり思想と思しい。精神分析は哲学ではないし、社会観はやはり哲学とは個人的には言い難い。個人的には精神分析を基軸とした社会思想学という方がフーコーを表すには的を射ているように思われるがどうなのだろうか?
とはいえ、現代思想を理解する上でフーコーは非情に重要な人物にはなりえるのだろう。結局のところ現代思想においては歴史性(ヘーゲルマルクス)と構造性(レヴィストロース)とが重要な二大概念となっており、フーコーはその両者をある意味弁証法的に乗り越えようとしているからである。彼は主観や価値観によって歪められた歴史ではなくて純粋な歴史を捉えようとしているし、その過程で構造なるものを明らかにしようとしているように思われる。彼が言うところの「考古学」という言葉はそれら両者をうまい具合に内包しているのではなかろうか?また、彼の出発点は、現象学とマルクス主義であり、心理学への懐疑である。現象学による主観的アプローチを、マルクス主義により客観的なアプローチを、そして心理学、精神分析における「正常」と「異常」への疑義が彼のある種の原点となっている。彼は現象学��マルクス主義の二大基軸をすえたことを後で後悔しているようだが、俯瞰してみる限りではそれほど離れているように思われないし、精神分析は無論フロイトの影響を受けている。彼は考古学という概念を提唱する際に、現代思想の原点として、生態学・言語学・経済学をあげているが、これもかなり巧みな捉え方である。生態学はフロイトが、言語学にはソシュールが、経済学にはマルクスが含まれているとしたら、彼ほど現代思想の源流でありありとある要素を兼ね揃えている人物はいないであろう。無論、生態学には進化論が、言語学にはラカンが、経済学にはアダムスミスも含まれており、経済学における資本主義とマルクス主義は同じことを反対概念で述べているだけだというあたりもどうにも鋭い洞察である。正直、自らと徹底的に向き合い、そのことに死ぬまで悩みぬき、ゲイであることを公表し、性や異常といった概念を突き詰め続け、最終的にはエイズで没したミシェルフーコーという人物にはある種の敬意を払いたいくらいであって、ただ彼が哲学者であったのかということだけがどうにも疑義を呈してしまうというだけなのである。あと著者も、もう少しうまくまとめてほしかった。著作を読むときの解説本としては優れているのかもしれないが、一括で読み通すときにはこの構成はあまりよろしくないと思われる。
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自分にとっては難しかったので、読むのに時間がかかった。でもためになったとは思う。いろんな学問が成立するのには並々ならぬ苦労があるとわかった。それから最後にわりと実践的なことが書いてあって、おもしろかった。難しいのをう~んってなりながら読んだ後、最後にそんなことが書いてあったからびっくりしたし、プレゼントのようだった。
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史上最も偉大だとされる哲学者であるミッシェル・フーコーの晩年を、主要な著作とその概要を交えながら描いた本。解説もわかりやすいし、何よりこの一冊で、フーコーがどのようなことを問題意識として持ちながら人生を歩んだのかが良くわかる。この点において、本書はかなり有用だといえるだろう。
フーコーの数ある著作のうち、最も示唆的なものは「監獄の誕生」であると個人的には感じる。なぜなら、後から述べるように、従来信じられてきた「権力」に関する概念を全く新しいものに構築し直した上に、それは現代まで通じるものであるし、加えて、あらゆる学問分野・生活に適用可能だからである。これが幅広い読者によって長年読み続けられてきたのが何よりの証拠であろう。
さて、監獄の誕生において、フーコーは何を主張したのか。フーコーがこの著作を通じて主張していることは、「主体内部の権力」に関することである。古代ヨーロッパにおいては、罰則とはすなわち体罰を表した。それは鞭打ちに代表され、人間の身体に直接ダメージを与えるものであった。つまり、人間の「身体」という外部的なものに罰を与えることによって、人間の「精神」を正すことが目的とされたのである。これはいわば「従順な身体」を作ることだといえる。例えば、軍隊がいい例になろう。軍隊では規律を乱す人間には容赦なく殴る・蹴るなど身体的な罰則が与えられ、それに従って、やがって軍人の「精神」を持つようになるのである。つまり古代における罰則のベクトルは、身体⇒精神という方向性を持つものであったといえる。
だが、この罰則は中世ヨーロッパを境に激変することとなる。この変化をもたらした主要因とは、「監獄の誕生」であった。すなわち、罪を犯した人間を「監獄」という非社会的環境におき、精神の矯正を図る形の罰則が誕生したのである。従って、従来の罰則のベクトルが逆転することになる。監獄の誕生によって人間の「精神」という内面的要素を矯正することによって、「身体」の正統性の確立が目指されたのである。
フーコーは中世ヨーロッパにおけるこの監獄の誕生に着目し、新しい権力論を主張した。それはすなわち、従来の権力とは「相手を支配・抑圧」する力であったが、中世以降は「相手自身の内面から支配・抑圧」する力へと変わったと指摘したのである。これらはそれぞれ、前者が「身体⇒精神」の罰則、後者が「精神⇒身体」の監獄と対応している。複雑な近代社会を作り上げるためには、一人一人の人間を「従順な身体」にすることは不可能である。従って、権力者の意のままに動く従順な人間を作り出すためには、彼ら自身が自発的に行動し、近代というメカニズムの歯車になる必要がある。近代では、こうした主体を形成するために考え出された装置の一つが「学校」であり、先生が学生に知を「真理」として供与することによって、学生という主体を「精神」から支配するのだと、フーコーは主張する。
この原理を建築的に示したのが、イギリスの法学者であるベンサムであった。彼はパノプティコンという装置を考察した。これは、円環上に配置した建物の中心に見張り台が設置されているという状況である。重要なことは、見���り台からは建物の中で暮らしている人間を自由に監視することができるが、そこで暮らす人にとっては見張り台にいる人間が見えないことである。つまり、見張り台には常駐の監視者を設置する必要がない。それにもかかわらず、建物で暮らす人にとっては「見張られている」可能性が常時発生するので、自身の心の中に第二の監視者を設置してしまうのである。このようにして、パノプティコンは個人の主体の様々な欲望を絡めとり、内面からそれを支配するのである。このように、主体の内部から相手を支配することが、フーコーの主張した新しい権力論である。
このような監獄の誕生という歴史を踏まえたうえで、現代まで通じる権力論を展開したフーコーの主張は見事といわざるを得ない。フーコーが人生の課題としたことは、その時代において絶対に真理だと考えられていることは、実は歴史的・権力的に形成されたものに過ぎず、普遍的なものではありえないということであった。「監獄の誕生」はこの点を見事に表している著作だといえるだろう。
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人間が「正常である」という思考そのものを侵犯しようと試みること、これがこれからのフーコーの思考のエチカとなる。p36
【レヴィ=ストロースの構造主義】p71
サルトルとメルロ=ポンティにおいては、人間の行為の意味と価値は、歴史の方向性が決定するものであった。しかしレヴィ=ストロースは、意味とは体系における要素の差異で発生することを示したソシュールの言語学に依拠しながら、意味を生み出すのは社会の構造であると指摘した。そして歴史とは、共時的な社会構造が内的な理由から変動することにすぎないと考えたのである。
<一般文法>p94
「思考は単一な操作であるとしても、言表することは継起的な操作である」
フーコー「富に秩序があり、これであれを買うことができ、金が銀の二倍の価値があるとすれば、それはもはや人間の欲望が比較できるからではない。身体を持つ人間が同じ飢えを感じるからでも、人間の心が同じ魅惑にとりこになるからでもない。人間が時間、労力、疲労、さらに究極において、死そのものに支配されているからである」p103
リカード「歴史の一刻一刻において、人間は死の脅威のもとで労働するほかない。すべての住民は、新しい資源をみいださなければ、消滅するように運命づけられている」このように経済を可能とし、必要とするのは、稀少性という基本的な状況であり、労働はこの稀少性を一時的に克服し、一時的に「死に打ちかつ」方法である。p104
生物学、言語学、経済学の誕生によって、それまでに存在しなかったある概念が誕生した。これが<人間>という概念である。p105
(人間は)「知にとっての客体であるとともに認識する主体として、その両義的な立場において登場する」p106
知として学んだものを身体に教え込み、身体の次元で学んだものが知として普遍化される必要がある。そのための一つの手段が試験であり、これは近代の特権的な<真理の保証>である。p143
パノプティコン:「権力を自動的なものとし、没個人化する」p145
⇒近代の新しい「政治解剖学」の基本原理
身体と精神の双方に働きかける戦略は、魂という「柔らかい脳繊維」の上に「強固な帝国」を築くことによって、身体の叛乱を未然に防止することを目的とする身体の「政治解剖学」として結実する。p147
プラトンは、身体が魂の牢獄であると考え、哲学とは魂をそこから解放するための「死の稽古」であると語っていた。フーコーはこのテーゼを完全に逆転させる。身体が魂の牢獄なのではなく、魂が身体の牢獄なのである。p147
ストア派では自己の吟味には四つの技術があったー書簡、良心の点検、アスケーシス(禁欲)、夢の解釈である。p217
【真理のゲーム】p228
①主体化の様式
②行動の戦略
③歴史的な条件
④客体化の様式
⇒絶対的な真理が存在するのではなく、個々の真理は自由な主体の行為としてしかあり得ないと考えると、すべての主体は自分なりの真理の確立に参加することができる。
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入門にしては難しかったが授業で習ったことが沢山出てきていて面白かった。これからも繰り返し見て復習したい、特に性の歴史の所が難しくてまだわからない。
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フーコーは現存の体制から新しい可能性を見つけた人。
監視社会としての二つの要素 身体の規律化と、眼差しでの精神の規律化のパノプティコン。
現代福祉社会の 権力と生との関係。国民の福祉の維持を建前としながら、生という観念から国の維持のために必要な国民を管理し、自国の力の維持を図る。と同時に戦争などでの暴力によって国民を殺す、人種差別的な観点。国の維持と言う構図それは、司牧者の権力図と重なる。 途中中だるみしたけど、権力の分野はおもしろでした。。
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岸さん。
難しい哲学的な用語が並んでいるので、
ぼくの頭では理解できないかもしれないと恐々としている一冊。
ちょっと落ち着いたら時間かけてでも読んでみよう。
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◆権力は秘密を欲す
真理とは何だろうか。真理は常に正しい、しかし、真理が何か戦略的な意図により作られたものだとしたらどうだろう。しかもその真理の意図に、権力が深く関わっているとしたら。フーコーは権力が支配を強めるために、いかに真理を巧みに利用してきたかを解き明かす。
権力がいかに真理を利用しているかを知るには、学校現場を見ればよいだろう。教師は学生を教育するために試験を実施するが、試験とは教師あるいは第三者が設定した真理を、学生に内面化させる装置である。学生は試験装置の中では、反論する機会を奪われ、一方的な関係性に置かれる。このような真理を利用した仕組みは、社会のいたる所で見つけることができるだろう。そして、真理を利用する者にとって欠かすことが出来ないのが「秘密」である。権力は「秘密」のヴェールで真理を覆うことによって支配装置へと変貌する。もし「秘密」がなければ、真理の化けの皮は剥され、そこに込められた権力の意志が露わとなり、管理・支配の土台が揺らぐことになる。そのため権力は常に「秘密」を必要としている。権力は我々の生活に満ちている、決して権力それ自体が悪いわけではない。だが権力が「秘密」を利用し、一方的な関係性に我々を押し込めるなら、それに抗う力もまた必要になる。
本書は難解なフーコーの思想を分かりやすく解説しており、入門書として最適である。真理や「秘密」を巧みに利用する権力の姿が、本書を通して浮き彫りになるだろう。
(龍谷大学ライティングセンター)