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わたしたちはじぶんがいま、ここにいるというしっかりした感覚を
どうしたら抱くことができるのだろう。
<わたし>というものは≪他者の他者≫としてはじめて確認されるものだ、
わたしたちの「だれ」はむしろ、他人との関係のなかで配給される。
わたしがわたしじしんであるためには、彼(あるいは彼女)が必要である、
他のひとが彼(あるいは彼女)じしんであるためにはどうしてもわたしが
必要となる。
レインによれば、ひとはじぶんの行動が<意味>するところを他者に
知らされることによって教えられる、いいかえるとじぶんの行動が他者に
及ぼす<効果>によってじぶんが何者であるかを教えられるものである。
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本書のテーマはシンプル。それは「わたしってだれ?」「じぶんってなに?」である。
九〇年代に流行ったのが「自分探し」。探せばどこかに自分の個性が存在するという前提で、ひとつのブームになった。しかしそんなものが本当にあるのか。
教育動向の影響もあって、私達は「じぶんらしく」あることばかりめざしてきたのがここ20年。
しかし、「じぶんらしく」あらねばならないという強迫観念から自由になる方法について考えてみることも大切だと著者は指摘する。
自分の中を探せばどこかに「じぶん」らしさがあるというのは、単なる幻想にすぎない。なぜなら、固有な個性を表すのが形容詞だから。それは真にオリジナルな個性を表現できないことを意味している。そして「じぶん」という名詞だって一般名詞にすぎない。。
自分の中を探しても「じぶん」は見当たらないし、単なるフィクションだ。
だとすれば、どこにその契機を見出せばよいのか。
著者は、「他者の他者であること」に注目する。
「他者にとって意味のある他者たりえているかが、わたしたちがじぶんというものを感じられるかどうかを決めるというわけだ。母親に「この子とはそりが合いません」と言わせたら勝ちである。母親はいよいよ子どもを別の存在として認めたのだから。逆に、風邪で数日学校を休んだ後、学校に戻っても何の話題にもされなかった子どもは不幸である。他者のなかにじぶんがなにか意味のある場所を占めていないことを思い知らされたのだから。ときには恨まれ、気色わるがられたっていい。他人にとってひとりの確実な他者たりうるのであれば」。(146項)
著者の文体は、専門書においてもエッセイのような柔軟さがあるが本書も非常に読みやすい「考える」本。できれば、中学生、高校生のうちに読んでおきたい一書。
「自分探し」の落とし穴か抜け出すヒントが沢山ありますよ。
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中途放棄していたのを再読。
彼の後年の著作である『死なないでいる理由』に直接的に繋がっていく著作と感じた。そこではこの地点からすこし考えが進んでいるようにも見える。
高校現代文の入試題に出ていたような記憶があって、懐かしかった。
今では彼の主張が「当たり前のこと」に感じるが、僕を構成するよい養分になったとということかなあ。
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高校生のときの課題図書。
今では、とても大切な本になりました
自分、他者、世界、確立。
結局は曖昧だけれど、この本はとても役立つのだとおもう。
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「あなたってなに?」と人に聞かれたときに何と答えるだろうか?
とっさに思い浮かぶのは自分の名前だけど、それは属性であって、その人そのものを指すわけではない。
自分はなんだという問いに対して、自分だけで考えても答えは出なくて、他者との関わりあいの中で自分を見つけることが出来るという。
冒頭で取り上げられている「大好きだ!攻撃」の部分は、読んでてなるほどなあと思った。
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身体論の入門書
とても優しくとてもわかりやすい
これ読んだの中学生ぐらいだった気がする
身体論も今もう流行らなくなっちゃったしねぇ
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「わたしはだれ?」「自分とは何?」「何のために生きているんだろう」
そう考えたとき、私たちは1つの「自分のストーリー」を紡がざるをえない。これと決めたストーリーに自分を当てはめ、他の可能性を忘れること(エクスタシーの放棄)で、自分で自分を支えるのだ。そしてそのストーリーが無効になるような事態に落ち入った時は、また新たなストーリーを紡ぐ。
ただ、そのストーリーはたった一人部屋の中に閉じこもっていても完成しない。自分の存在意義を見出すには、「他者の他者」であることが必要なのだ。
これは他者に身を捧げ、自己放棄することとは異なる。それは結局のところ自分の中に「自分が身を捧げる他者」像をつくっていることに他ならず、自己イメージに埋没している。
他者に自分の他者としての存在を贈るということは、「他者にたがいが傷つくまでかかわることであ」るらしい。私たちは互いに異なる「他者」である、ということを認め合うことで生き延びることができる…のか?
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鷲田さんの思想の概説書のような内容。とても平易な文章で分かりやすく書かれており、構成も綺麗なので入門として適当。
本書では誰もが抱く自己の存在への疑問に正面から挑戦している。年食ってもたまに自分とは?という苦悩に襲われる自分としては、悩みを代弁されている感じがして非常に心地よく読めた。
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哲学的イシューだが,語り口は難しくない.むしろやや易しすぎるように感じる.切り込み方が弱い感もある.ところどころ面白い記述あり.
・<わたし>という存在のもろさによって,純粋が異質なものの排除へと転回していくのだとすれば,クラスで誰かが「バイキン」と呼ばれていじめられたり,「不潔」であるとして忌避されたりする.つまりそこには,いじめたり差別したりする側のアイデンティティの衰弱が読み取れる.
・隠居という慣習がリタイアするというよりもむしろアイデンティティの別のステージへの乗り換えを意味したように,つまり隠居とはなにもしなくなるということではなく,別のことを開始するということだった.
・レインの母子の4つの出会い方.
・ひとがそれぞれに痛いと感じる箇所,自尊心が傷つく箇所はみなまちまちであり,そこに自分の生存の譲渡しがたい根拠をかけている.
・銃殺の現場で顔を隠す理由.
・「ひとには,じぶんがだれかから見られているということを意識することによってはじめて,じぶんの行動をなし得る」
・プレゼンスの中井流の訳「その場にいてくれること」
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読み始めました。
(2012年9月4日)
読み終えました。
素晴らしい。
(2012年10月27日)
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エピローグにも書いてあるが、不完全な地図、と言った感じ。あちこちに話が飛んでいるような構成でちょっとわかりにくい。
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自分だけで成り立つ〈わたし〉というものは存在せず、〈わたし〉の死の先にある「わたし」は「他者の他者」としてしか定義されないということを述べている。他者の中に自分を投影しての能動/受動の関係でなく、他人と存在を与えあう関係を目指すことで、自分に対して語りかけるストーリーを考えていくヒントが得られるのだろう。テレビや広告などが窃視症的であるから“顔を失う”という洞察は理屈付けは弱いが面白かった。
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推薦理由:
自分の個性とは。自分らしく生きるとは。そもそも自分はなぜ自分なのか。哲学、倫理学の学者として関西大学教授、大阪大学総長などを歴任した著者が、「他者の他者」としての自分という考え方を分かりやすく説いている。「自分らしさ」について悩む年頃の高校生に薦めたい。
内容の紹介、感想など:
「自分」とはなんだろう。「自分らしさ」とはどういう事なのだろう。誰もが自らに問いかけ、答えを見つけようとする。「本当の自分」を求める「自分探し」という言葉が流行ったこともあった。自分とは自分の中を探して見つかるものだろうか。そもそも「唯一無二の固有の存在としての自分」というものはあるのだろうか。性格、容貌、身体的能力、社会的地位などが自分らしさだとすると、それを失った場合は自分ではなくなるのだろうか。そう考えると、自分の存在には不確かな根拠しかないように思える。「自分」の中を探している限り「自分」を見つけることはできないだろう。
著者は、「自分」とは他者との関わりの中で見出されると述べる。「他者の他者」としての存在を意識することで自分の存在を確認すことができるのだ。自分らしさとは、他人との関わりのなかで問われることなのだ。
本書では「わたしはだれ?」という、人として根源的な疑問についてどう考えるかが具体的な例を挙げながら平易な言葉で論じられている。自らのアイデンティティについて疑問や迷いが生じた時に一条の光となり得る良書である。
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受験期に何度か読んだのを再読。
「わたしは誰?」というあてのない問題を巡って、筆者が身近な事例と照らし合わせつつ、考える手伝いをする。
〈わたし〉は結局〈他者の他者〉という形でしか存在しえない、その事実に否応なく気づかされる。一人でいるのが好きで、一人が一番落ち着くというのに、その一人を保証しているのが紛れもない他者の存在であるということ。
誰かのことで悩んで悲しんでいるときこそ、他でもないこの自分が生きているという気にさせる。ひとはそういうものなのだろう。
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鷲田清一(1949〜)
専攻は臨床哲学・倫理学。現象学・身体論が専門。
高校生のころに鷲田清一を読んだ時はふーーーーん、って感じだったんですが、今改めて手に取ると、結構響くものがあった。ここで書かれていることに驚くほどの目新しさがあったわけではないけれど、哲学の門のあたりで中を覗き込もうとしてみたり、やっぱり離れてみたり、うろうろしているわたしのような人間が読むにはちょうど良い本。