誰でもなくて誰でもあることの肯定的意味付け
2010/07/13 21:42
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ホキー - この投稿者のレビュー一覧を見る
大学の講義を下敷きにしているだけあって、思春期から始まり青年期に先鋭化する発達課題にもとづいて書かれている。
自分の存在を確かにするためには他者を参照する他ないが、他者を参照することで自分の中に他者が流入し自分が自分でなくなるという矛盾を抱えつつも、他者(や世界)との関係でかろうじて自分なるものを形作っていくというのは、まさに、思春期から青年期の姿である。
思春期には、こうした自分の定義へのとまどいが、観念的な問題として現れる。そして、進学・就職・結婚などの各種ライフステージを通過する青年期に、この問題が、現実的な選択-ひいては他の選択肢の切り取り-の問題として先鋭化するのである。
さて、自分らしさの追究において、自分の社会的属性を全て取り去ったあとに残る〔何かしらの自分らしさ〕という観念を、本書では、そんなものはない、と否定的に取り扱っている。この鷲田の見解と、『拡散-ディフュージョン-』大倉得史・ミネルヴァ書房との比較が面白い。『拡散…』は、未来への選択肢を切り取っていく過程や他者を自分の参照項とすることと、自己解体のせめぎ合いが、いかにして青年期の発達課題だと言えるかについて詳細に記録した名著である。この『拡散…』では、鷲田が捨象した〔何かしらの自分らしさ〕に、“自分らしさ”の最後のよりどころを求めている。
この〔何かしら〕のものは、「具体的な意味」を持たないので、それが自分を「具体的に意味づける」ことがない点で、鷲田の言うとおり、そんなものはないと言える。
同時に、いかなる属性も帯びない〔自分〕とは、まだあらゆる可能性にひらかれていたころの・すなわちいかなる〔自分〕なるものも形成していなかったころの名残であるとも考えられる。そのような〔自分〕とは、自分に固有でなく誰にでも共通に与えられているはずで、結局、“自分らしさ”の感覚の根源すら、【誰でもあって誰でもない】という共通の属性に支えられているとも言える。
そのような訳で、思春期の自己への問いを壮大に描いた、10年前に公開されたほうの劇場版『エヴァンゲリオン』では、自分と他者の境界を失った人間たちの寄せ集めが、【誰でもあって誰でもない】存在である巨大な「綾波レイ」として描かれたのである。
さて、このように、自分の輪郭線を曖昧にする【誰でもない】ことの観念が、中年期の危機を乗り越えると、逆に、自分を際立たせる原動力になる。
つまり、「われ自身」のような、狭い範囲の自分が消失し、代わりに、他者や世界に息づく形での広い意味での自分の存在が拓けてくる。いわば、以前には、“「自分は」誰でもあって誰でもない”として拡散していた自己像が、【誰でもなくて誰でもあるの「が自分である」】と、引き受けられるのである。
このように見ると、思春期に意識に立ちのぼる【誰でもあって誰でもない】観念が、はるか中年期の発達を準備している。
理論的にはこのようになっているものの、思春期から青年期の課題を描いた本書が、定年後のサラリーマンの自己規定への揺れまでカバーしていることから、逆に、現在の日本が、青年期の発達段階で停滞していると見ることもできる。
それはおそらく、労働・経済・消費・家庭・地域社会といった幅広い問題圏を拓く視点であり、結局、思春期から青年期のひとりの自分への問いが、生涯発達の視点を経て、いわば文明のあり方を問い直す契機ともなりうるのである。
大人になっても不思議な存在
2019/01/26 11:54
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メイチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
こどもの頃、自分がどうしてここにいて、そもそもいつからいて、それでどこにいくんだろう?とふとした瞬間に思って、大きな渦に巻き込まれるような感覚になることがありました。
この疑問を言語化して、かつもうちょい上の次元にまで昇華してくれる、そんな本です。
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大学入試でよく取り上げられる文章。
「自分ってなんだろう?」という、誰でも一度は考えるテーマについての本。
自分の中で、新たな発見とめぐりあえる。
同じことの繰り返しだが、説得力がある。
鷲田氏の文章は、ゆっくり読むと味があっていい。
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大阪大学副学長・鷲田清一著、『じぶん・この不思議な存在』は今から10年前に書かれたもので、内容はタイトルを読んだとおりのもの。『じぶんとはなにか?』という問いかけを様々な視点から検証し、考えている。読めば読むほど、考えを深めれば深める程に坩堝にはまり抜け出せなくなる。『じぶん』とは何か。何者なのか。『じぶん』とは果たして自分一人で形成されているものなのか?始まりは?終わりは?『じぶん』はいつから『じぶん』だと認識するのか。『どこ』からが『じぶん』なのか。色々なことを考えさせられます。書き方も難しくないし、厚くない本なので何度でも読み返すことが出来ます。むしろ、読み返さないと見えてきません。『じぶん探し』をしている方必見です。何かヒントが見つかるかもしれません。
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期末テストのレポートにてお世話になった本。アイデンティティ問題について分かりやすい文章で書かれているので、興味のある人は是非一度読んでみてください。
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中学の時読んで、しばらくぐるぐる考え続けた。そんで鷲田(てゆーか身体論)にはまった(はまるようなもんか?)
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「他者の他者」としてでしか<わたし>はありえない、ということを主題とした本。よく大学入試に取り上げられるほど優れた文章であるらしいが、それゆえに、洗練された思考力を要求する。僕はムリだった。
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?年以上も前に読んだもので記憶が飛んでしまったが、ずいぶんいろいろ考えさせられたように思う。
自己分析してるひまがあったら他人のことを考えろという指摘を人様にもらい、それもまあ当時の自分にとっちゃもっともだと思ってそれ以上の思考は停止させておいたが、何かの分岐点にに気になったらまた読みたい。
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高校入学時に課題として出され、初めて読んだ新書。そのときは何が言いたいのか全然わからなかったけど、今改めて読んでみると、自己と他者に関してもっともなことが書いてあります。
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じぶん探し なんて無い。
誰もが一度は問いたくなる、じぶん について。何だろう。誰なんだろう。
この本は私が高校一年の時に課題図書として配られたものである。当時はデカルトなどの近代哲学な実存的な在り方に傾倒していたが、
最近になって読んでみると、見田宗介の言うような「関係性」やその始まりであるミクロなレベルでの<他者>についての視座から俯瞰する事が出来た。
鷲田清一氏は、多角的に じぶん の問題について身体や他者との関係に則して
例示も踏まえてわかりやすい文体で鮮やかに<じぶん>についての関係性を抉出している。
鷲田氏は皮膚や身体、嗅覚 触覚 視覚 などのいわゆる五感から哲学する 「臨床哲学」とよばれる哲学を研究されており、コムデギャルソンや山本耀司を初めとする日本のファッションもモード論として哲学している、非常に興味深い哲学者である。
この本は、冒頭の大学生の女の子の回答からして、惹かれたし、一日で読めた。
じぶん探しなんて無い。
でも、じぶんを考えることをはじめるきっかけをこの本は与えてくれる。
ハンナアーレント、レイン、クリプキ、レヴィナス、ラカンを読む前に読めて良かった。
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「じぶんらしさ」などというものは、わたしたちの内部にはない……とは、実に簡潔だ。あまり注意深く、かつ念入りには読まない方がいいかもしれない。一応きっちり読んだつもりだけど、ぼくはそう思った。
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身体論というと触れたことが無い人が多いと妄想しているのだが
そんな人のための入門書としては良くかけていると思う。
哲学というものに興味がある人にとっても触りとしては良いであろう
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大好きな鷲田先生の本です!☆非常にわかりやすく書かれていたと思いますが、わかりやすくても内容をつかむのに途中から苦労しました(><)。先生も、この本ではまた”答え”を見つけてらっしゃらなかったです。いつかその謎を解いて下さるまで、自分も努力しながら先生の本読みま〜す☆☆☆
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3章末尾の
そこでこんなふうに考えられないだろうか.わたしは「なに」であるかと問うべきなのではなくて,
むしろ,わたしは「だれ」か,つまりだれにとっての特定の他者でありえているかというふうに,
問うべきなのだと.
というとこが,一番覚えてる.
自分の中をいくら見つめても,自分をそこに見つけられない経験は,
某自己分析的な行いで経験していたので.
他にも「女の子は『女装』によって女になる」とか
「じぶんがぼやけることの心地よさ」とか,
おもしろい.
でも読みやすいようで意外と読みやすくはない.たぶん
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哲学書。言葉自体は易しいものの、内容が難しい。
具体例・引用文がかなり多く、電車で化粧をする女性の話などは納得できた。人間は可能性を捨てながら生きているというのにも頷ける。
しかし、「“じぶん”は他者との関係でしか存在し得ない」というのにはいささか疑問が残る。
確かに現代の私たちは他者に影響を受けながら生きているが、元を辿ればそうでもなかった時代や人があったのではないだろうか。本書には、過去を交えての論拠が見当たらなかったので説得力に欠けていたと思う。