投稿元:
レビューを見る
儒教と孔子を徹底して冷静に分析した本である。
東アジアの経済的成功のバックボーンとして儒教があるのではないかという論があり、その議論を深めるならそもそも儒教が何かを明らかにしなければならない、というのがスタート地点。
願望と現状の落差への苛立ちを抱え、見方によっては惨めで滑稽な生涯を終えたが、これが徳治の因果律に矛盾を生じさせた。子思が書いたとされている中庸は、自己に内在する天命を自覚して生じた上昇志向とともに、未だ天より受命していないとの天命を自覚したが故にあえて不遇な境涯に留まったとし、孔子が抱いた野心とその実現の失敗を正当化した。子思の学統を承けた孟子は明確に孔子王者説を唱え、その後継に自分を据え、新王朝樹立を夢想していた。春秋経が聖典化され、儒教は宗教的性格を強めていく。秦の圧政への反発から漢王朝の中枢に勢力を扶植していく。孝経も孔子素王説を補強するために創作されたものだった。そして儒家の活動で唐の時代に王号を贈られた孔子は、宋、元の皇帝からも王号を追贈され、古代聖王としての地位を独占、儒教は完成する。明の世宗の時に王号は剥奪されたが。そして清末の康有為は儒教神学を最終形態だった。
儒教は中国世界の住人の宗教でしかなく、朝鮮や日本では元々の倫理や行動様式を儒教倫理の概念で説明したものに過ぎず、そもそも壮大なペテンに過ぎない儒教から倫理として学ぶものはない、経済発展にも関係がないと、冒頭の質問に著者は回答する。