紙の本
パソコンがナニモンなのかを考えよう
2002/08/06 04:28
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:読み人知らず一丁目 - この投稿者のレビュー一覧を見る
コンピュータという物が,人々にどういう風にとらえられてきたのかを幾つかの論文を交えて解説している.コンピュータ思想史(?)に対して非常に重要な論文ばかりなので,ためになる.計算機としてヒトの知的活動を補助する存在から,ヒトを越える知的存在(AI)を目指した時代,そしてヒトの知的活動を拡張するようなIAの時代.組織が利用していた計算機から一個人がもてるパソコン,そしてそれらが繋がったコンピュータネットワークの時代.それぞれについて知ることが出来る.
コンピュータの未来について頭をひねっている研究者達が何を考えているのかが知ることができる書.ITという言葉ではくくれない,コンピュータに関する知識が得られる.
論文の集まりであるためどこから読んでもかまわないが.西垣氏の書く序章を読んでからだと全体像がつかめてわかりやすい.ここだけでも読む価値ありと思われる.
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ヴァーネヴァーブッシュのメメックス論文
パソコンは人の道具として発展させてきた
人類の膨大な知識を入手しやすくするための大プロジェクトに参加すべき
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機械は知性を持ちうるのか?
知性を記号の操作と捉えた上でのAI(Artificial Intelligence)の開発は失敗に終わる。
機械と人間との協同での知的営みとは?
人間の創造性をサポートするIA(Intelligence Amplifier)としての機械の構想が立てられる。
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とりいそぎ編著者の西垣通氏の序章”思想”としてのパソコンを読んで。非常に思想史的にパソコンについて整理されている。
・IAを目的とするパソコンは1960年代末~80年代初めにアメリカで生まれた。AIを求めるメインフレームが全盛の1970年代にである。
・無料で市民が交信できるインターネットは、ある意味でネルソンの思想と重なっている。WWWを一種のハイパーテクストとみなすこともできるだろう。だが周知のように、それはいまや自由な討論の広場というより、むしろビジネスの欲望の修羅場となりつつある。
・パソコンが誕生するまでの経緯には二つの流れがあった。パソコンには「使いやすいこと」ならびに「安いこと」が要求される。両者が完全に一つになったのは一九八〇年代以後のことだった。第一の流れは対話型のマンマシン・インタフェース技術を発達させた。そして現在のいわゆるGUIを生みだしたのである。
・ケイはコンピュータをダイナミック・メディアとして捉えていた。本がスタティック(静的・受動的)であることに対してである。だからケイの理想は「ダイナブック(動的な本)でなくてはならなかった。
・半導体の集積回路が出現すると、コストが劇的に下がる可能性が出てきた。さらに集積回路を記憶装置として使えば、対話型インターフェースに不可欠な大容量記憶装置も大幅にコストダウンできることになる。
・マイコンは一九七五年「アルタイル」として、電子工作マニアのためのホビー用キットとして発売された。
・革命のきっかけは一九八一年のIBM/PCの発売といってよいだろう。
・一九九二年、マイクロソフト社からウインドウズ3.1、九五年にウインドウズ95が発売された。一九九〇年代に起こったいま一つの本質的変化は、パソコン同士がネットワークで結ばれたことだった。そこに九〇年代半ばから爆発的に広まっているインターネットがある。いまやパソコンのもっとも魅力的な用途はインターネットの利用なのである。
・コンピュータを使って人の能力を伸ばすこと、またはコンピュータをメディアとして皆で共同思考・共同作業すること、といった方向に移っていったのだ。
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コンピュータの発展の方向性は2つあり、AI(Artificial Intelligence)はコンピュータに人のような思考をさせることを、IA(Intelligence Amplifier)はコンピュータを人の思考の補助ツールとすることを目指す。AIはコンピュータと人を同質のものとして捉え、IAはコンピュータと人を異質のものとして捉える傾向がある。しかしIAの中にも、実はコンピュータと人が同質だからこそ接続可能だという思想が流れている。コンピュータと人を同質のものとして捉え、両者を論理的に制御しようとする態度は、理解不能な闇を光で照らそうとする西洋キリスト教や、それに連なるアメリカのフロンティア精神、アングロサクソン化、英語化の使命感に通じる。
科学者、数学者の役割は、単純作業の反復である論理的計算ではない。論理的計算は機械に任せ、科学者、数学者は問題解決のためにどのような論理的道筋を取るべきかを直感によって決める仕事をすべきである。設計は技術ではなく芸術である。