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多重人格など病的な場合、コギト・エルゴ・スムは成り立たなくなる……など批判も有るが、読んでおいて損は無い一冊。
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〈主-客〉二元論という面倒な伝統のはじまり・・・でも近代哲学の重要な一冊。デカルト自身についても書いてあるので、こんな人だったんだーという感じにも読める
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近代科学の祖として名高いデカルトの名著。
心身二元論によって主観(観察する側)と客観(観察される側)を完全に分離することに成功した功績は、確かに評価すべきである。
分離から近代科学が始まったにも関わらず、現代の科学は統合の道を歩んでいるのは、何とも面白い現象である。
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学生は勉強しなきゃ。社会にスポイルされんな。全てを徹底的に疑えば、疑ってる自分は疑えなくなるって?「我思うゆえに我あり」ってところで疑うのをやめたら、そこで思考停止。「我」って何なのか、「思う」って何なのか、「あり」って何なのか。この言葉はもっと解体して疑うべきなんじゃないかな。
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デカルトが、絶対的真理を追究し「われ思う、ゆえにわれあり」にたどり着くまでの過程を、自らの生涯を交えて綴っている。正しいか正しくないかは別にしても、彼の観察力、分析力は現代にまで通じていると思う。
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ボンセンスは誰でも持ってる。
真理にたどり着くために必要なのは、
方法だ。
MECEってこの時代からあったのね。
ところでデカルトっていう人は、世に示したことと、世に巻き起こした論争と、どちらが多いのだろうか。二元論の功罪は大きい。
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真摯に、誠実に、一生懸命だったんだ、僕はね!君たちは、どう思う?どう考える?というデカルトくんの告白。
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噂の<コギト エルゴ スム>の本。笑。一回読んだだけでは、掴めません。何度も読み返していきたいです。
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近代哲学の先駆デカルトの最も有名な名作。高校でも習う「我思う、故に我あり」の言葉にたどり着いた経緯や、彼なりの加味の存在証明など。批判もあれ、学問を開拓した人の言葉は重く真摯です。難しめの哲学書ですが、ある側面ではとある幸せな人の語りでもあります。
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第6部を残すところあと10ページ…というところでブックカバーごと失くしてしまいました…orz 酔っ払っててね…。ま、でも大体中身は掴めた。今読む意味は無かったかな。【070825古/071025?】
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自分が哲学書を読み始めた最初の本。
あまり知識がなくても読めるからいいと思います。
ちなみにデカルトが喧嘩がものすごく強かったらしいです
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新規ビジネスの構想を練る上で大変参考になる。とは、ITベンチャーで活躍する師匠の言葉。
近代欧米社会の物質社会の根底にある哲学であろう、流れで考えてしまいがちな事象を徹底的に、考え抜きどう在るべきか考える。トヨタ生産方式の考え方にも似てるかな。なぜなぜを繰り返す、事実に徹底的に向き合う。これが、新規ビジネスの発想法かな。それが僕の今の理解できる範囲。
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「我思う、故に我あり」で有名な本。哲学の古典にしては非常に読みやすい。デカルトの真理を追究する姿勢が随所に感じられる。現代の産業や科学、他各種学問は、こうした賢人の探求の積み重ねの上にあると考えさせられる。2008/02/02読了
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デカルト先生のライフハック本(!)
自伝的なので、それだけでも面白い。
考えの順序が省かれず書かれているので、どうしてそう考えたのかがわかりやすい。
「我思う故に我あり」って、そうとも言えない気もするけれど。
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「Cogito ergo sum」で有名な、ルネ・デカルトの著作が、まさかこんな薄い本だったとは・・・と、初めて手にしたときにはびっくりしました。と、同時に、ああ、これなら読み切れそう、とも考えたものです。今考えればそれはかなり甘い考えだったわけですが。
さて、3年ぶりくらいに再読してみると、デカルトは相当ストイックな人だったんだなあと心底思います。真理に至るためには、万事を疑い自ら考えなければならない、人から教えられ、説得されて理解したつもりになっても、それは自ら考えることほど自分の身につくことはない。そういった、まさに確たる信念がなければ、有名なあの命題にたどり着くことはなかったのでしょう。なるほど、フッサールが「デカルト的省察」なる本を書いた理由が、なんとなしに分かるような気がします。
それにしても、そのすぐ後に付け加えられる神の存在証明を、デカルトはどのような思いで書いたのでしょうか。ひょっとすると「茶番だ」などと考えていたでしょうか。いやいや、神の存在が証明できなければ物心二元論を導出することはできなかったはずなので、著者の中ではすべて織り込み済みだったのでしょう。しかし、無条件であるはずの神の存在の「前提」に、人間の思索する行為を置いたことは、当時は漠としか認識されていなかったとしても、キリスト教とスコラ派にとっては死亡宣告に近かったのではないでしょうか。第六部で語られる「われわれを自然の主人にして所有者たらしめる」という言葉には、その宣告を行うデカルトの決意がこめられているようです。
物心二元論や明証−分析−総合−枚挙という客観的思考法など、現在の学問の根本原理になった思索に富むこの本は、しかし、「理性ある人」の思索や実験は逐一公開され、他の「理性ある人」の目に触れしめるべしという、今の学界の根本精神を否定するのです。それは「自分で考える」ことの妨げになるとデカルトが判断したためですが、読んでいて思い出すのは、数年前の韓国の生物学者が起こしたES細胞論文の捏造事件です。あれも結局、他人の論の真偽を確認する「査読」が機能しなかったことに原因があるわけです。デカルトは400年前に、こんなことが起こるのではと予想していたのでしょうか。訳者である谷川氏の言うとおり、今だからこそ原典に触れるのも価値あり、と納得したのでした。
(再読)