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理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法序説。当時の世の中に流布していたスコラ哲学に対して、もう一度、前提を問い詰めたところにたどり着いたコギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)。不思議に満ちた時代に、世の中の諸事に興味を持ち、己を信じぬいて、新たな地平を切り拓こうした意志が文章から伝わってくる。さらに、デカルトの考え方や人柄もその文章から少し伝わってくる。現代の人々が享受している近代科学主義、その始まりを告げる古典。
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大学時代、この本を原書で読む輪読会のようなサークルに参加してました。
ものすごい苦労しました(笑)。
それはともかく、この本によって多くのものが中世的呪縛から解き放たれたわけでした。
序説なんで、原典ではそのあとがあるのですが、これはデカルトが「私はこーやって考えてるんですよー」というマニフェストでもあるのです。
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近代科学の原点。
通常の仕事・業務を遂行していく上での糧になります。
また、生きていく上での標でもあります。
更に、眼前に広がる困難に立ち向かっていきたいものです。
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おもしろくはないし、別にためにもならない
読んで得するとか、損するとか、そういう次元ではないことは確か
ということは覚えている。
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デカルトの根本原理は、さまざまな物議をかもし出した。
人間はだれしも、「私」について興味がある。
デカルト「コギト」は、一時期、反論の中にあったが、今こそ、見直すべきかもしれない。
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とうとう「近代哲学の父」とも言われるデカルトの著書を読みました。
ある雑誌で、社長さんや、それないりの肩書のある人に百冊の本を挙げてもらうというインタビューをしたところ、一番多くの人が挙げたのが「デカルト」だったそうです。なかでも「方法序説」が一番。
その理由はこの本に書かれた、すべての人が真理を見出すための方法、が現代の経営などで応用できるからだそうです。
原理的なものや、普遍的なものって古ければ古いほど「使える」って言いますが、たしかにそうかも。座右の書にしよう。
もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
1、明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと
2、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること
3、わたしの思考を順序にしたがって導くこと
4、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、何も見落とさなかったと確信すること
上記したものは思考の方法論で、デカルトをもっとも有名にしたのは、「我思う、ゆえに我あり」というあまりにも有名な思想の独立宣言であった。
P.46
しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このように全てを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何者かでなければならない、と。そして「我思う、ゆえに我あり」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほどけんこで確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。
これらのことからわたしは、次のことを知った。
「私は一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない。」と。
これは、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以はここにある。
デカルトってほんとコツコツ型ですね。それだけでも尊敬しちゃう。
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とかく難しかった。
第一部は学問についての様々な考察が
第二部は著者の探求した方法の主要な規則が
第三部はこの方法から引き出された実践道徳の規則が
第四部は神ならびに人間精神の存在の証明が
第五部は自然学の諸問題の順序や医学などの難問が
第六部はこれまでよりさらに前進するために必要なことが
第三部までは楽しく理解できた。
しかしそれ以降は理解することすら困難だった。
ただ第四部では「我思う故に我あり」に触れている。
言葉だけが1人歩きしているので、もっと本質を理解しなきゃ。
デカルトはこの本で言いたかったことをちょこっとメモ
①真偽から善悪、美醜にいたるまで、全く未知に属する事柄をどう処置すべきか。それに必要なアプローチを示している。
②本では多くのことを学べるがどうしても表層的になる感が否めない。その理由としてリスクが少々の時間とお金を失うのみであるから。だけどデカルトは旅を選ぶ。1度道を違えば、1度の人生を棒に振る可能性を孕むのに。だけどそれだけ日々を真剣に生きられる。
③このものからあのものを演繹するに必要な順序を守り続けさえすれば、最後まで到達できぬほどの遠くにあるものも、発見できぬほどに隠されているものも、断じてありえないであろう。
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いわずと知れた、
「コギト・エルゴ・スム―ワレ思ウ、故ニワレ在リ」の本。
デカルトが発表した3つの科学論文の最初に序文としてつけられたもので、
デカルトがどのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるために書かれたもの。
デカルトの純粋すぎるほど純粋な、学問へのひたむきな思いにうたれた。
学問の発展を、自分の名声や名誉のためでなく、ただただ後世のためにと願って
ひたすら追求しようとしたデカルト。
そして絶対的な真理の探究をひたすら追い求めたデカルト。
彼の理性への絶対的な信頼、そして自然を理性で征服しようとするかれの姿勢は
現代社会において批判されることも少なくないが、
批判されるべくは、むしろ真理を追究しようとする彼の精神をまちがった方向におしすすめた
後世の私たちであり、
根本的なデカルト自身の考え方は、現在においても大いに学ぶべきところがあるように思う。
哲学者として有名だけれど、ほんとは科学とかの学者だったんですね。
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真でないいかなるものも真として受け入れることなく、
一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、
どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、
どんなに隠れたものでも発見できる
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基本文献だ。有名なコギト・エルゴ・スムの現場。
久しぶりに読んでみたのは、彼が旅に出たのは何故かを探るためだ。古典を読んで過去の賢人と対話を交わし、同時代の凡庸な世俗的人々に背を向けるというショーペンハウエルであれフリードリッヒ・ニーチェであれエリート的な人間にありがちな態度を取らなかったのはなぜだろう?というもの。つまり「我思う故に我あり」の前段階の話を今一度確認したかった。
旅に出た理由は要するに人文系の学問に見切りをつけたからである。例えば、古典を読むことはその国への旅行であり、余りに長く滞在すると自分の時代に対して無知になるというものだ。あるいは、哲学的考えは未だに決着がついていないのに、それを土台にしている諸学問はさらに怪しいものだというもの。あるいは、書斎で文字を相手に思弁的な学問=人文学に耽るよりも、より真実に近いと思われるような世界という書物を読破したいというもの。等々(超・長文になるので略)。個人的にいろいろな学びがあった。
あと、興味深かったのは建築家や法律の例だ。要するに複数の人間の手によって作り上げたものよりも、一人の人間の手によって作り上げたものの方が完成度が高いというくだり。コギトエルゴスムという言葉における覚悟は半端ではない。自分の理性的吟味を通して授けられなかった「教育」の一切に対する不信感も含まれている。様々な教師によって教育されたものの多くは、それが本当かどうか自分で確かめて受け入れたものではない。真偽の判断と明晰性を追求するデカルトはそれら全ての原理を括弧に入れる。さすがはコギト・エルゴ・スム。ザ・確実な自分しか信じない人。学校で「デカルトはあらゆるものを疑ったが、疑ってる自分は疑い得ないと気づいた」と教えられた時、言っている内容ではなく、どうして彼はそのようなことを言い始めたのかという社会的動機にまで関心が及べば、教師の背筋を冷たい汗が流れたのかもしれない。教師は「え〜確かに教師に質の差はありますし、思想・宗教の信条も様々であります、それに我々教師も自分で確認したというより大抵のことは本に書いてあることを教えているわけで、実際にそうかどうかは分からず、それを基礎に勉強を進めるというのは足場の脆弱なことこの上ないとは確かにそうかもしれませんが、でも君そんな全部調べることなんて一生ものの労力と時間がかかるし、毎度実証していたら全然進まないので一度立証されたら何か反証されるまではとりあえず真とみなすのが人の知恵・世の知恵・通例であり、君の意見は現実離れしすぎている」、と言うのかもしれないが、デカルトはその現実離れし過ぎていることを追求した人だ。ここに来て彼のすごさがわかるし、コギトの意気込みも分かる。著作を読んでいると「真偽の区別」「明晰な判断」に類する言葉が頻繁に出てくることからも伝わってくる。まさに複数の人で作り上げたものではなく、一生を通して、自分一人で作り上げようとした人だ。いずれにせよ、教訓はある、僕らは様々な教員から教育されてきたが、教師の質が全員一律に最高度で全てが最善だったわけではなく、時には教師同士で説明が違っていたりしたこともあった。教師に教員だけでなく研究者や学者や評論家、政治家等々も含めていいだろう。馬鹿にされるのが嫌で言えないためにデカルトの傘を借りるからこそ言える発言だが、混乱するのも当たり前だ。自分自身の確かめられるところで、つまり確実性に基づいた明晰な判断を下したければ自分の思想の範囲で満足することが幸せなのかもしれない。
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「コギト・エルゴ・スム」とは、「考えている自分自身が存在する」事以外はたとえ何かが起ころうと、それが存在することとは別の事であると説く。
そんな西洋思想の源流の一つである。
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副題に”理性を正しく導き,学問において真理を探究するための方法序説”となっている。
ただし,デカルトは論文の中で,その方法について万人向けのものを教えるのではなく,自分の努力の結果を示すとし,強制するものでもなく,逆に人によっては従わない方がよい例もあると言っている。
なぜそのようなことを言うのかと言うと,デカルトは若い頃,学問をしたら物事の真理が分かると思っていたが,一つとしてなく,教師達による文字による学問を放棄してしまった。そして,デカルト自身あるいは世界という大きな書物の内にあるかもしれない学問だけを探求しようとしたのである。現在の学問をしても学者となり,虚栄心を満足させるだけになるからだ。デカルトが欲したものは,自分の行為をはっきりと見,確信をもって真と偽を区別することを学びたいと。
そのために,デカルトは今まで教えられてきたこと,真と言われてきたことを全て無にして,まっさらな状態から自分で築き上げようとした。それは,論理というものは,はじめから一貫していることが必要で,しれが一番強いと信じたからだ。昔,スパルタが隆盛を極めたのは,その法律一つ一つが良かったからではない。ひどく奇妙な法律や良俗に反する法律さえも多かったが,それらの法律がただ一人によって創案され,その全てが同一の目的に向かっていたからである。
我々の意思は,知性がものの善悪を表示するのに応じてのみそれに従ったり,避けたりするのだから,よく行うためにはよく判断すれば十分であり,したがって,最善を尽くすためには,あらゆる美徳とともにわれわれの手に入り得る他のすべての善を獲得するためには,出来る限りよく判断すれば十分だと言う。それを確信する限り,心の満足を欠く事は無いだろう。
デカルトは,まず全てを無にして,全て真で無いと仮定してから考えていこうと考えた。その時,次のことに気が付いた。このように全てのことを偽と考えようとする間も,僧考えているこの自分は必然的に何者かでなければならないと。そして,”我思う故に我あり”という真理が堅固で確実なものと認め,この真理を哲学の第1原理としたのである。わたしは一つの実体であり,その本質ないし本性は考えるということだけにあって,存在するためにどんな場所も要せず,いかなる物質的なものにも依存しないと。したがって,わたしを今存在するものにしている魂は,身体(物体)からまったく区別され,しかも身体(物体)より認識しやすく,たとえ物体がなかったとしても,完全に今あるままのものであることに変わりは無いと。
哲学がなにものかも知らない私にとっては,非常に分かりにくい本であったが,よく私が考えるに,自分というものは何なのかと。例えば,爪を切ったあとの爪は自分なのか,髪の毛は自分なのか,例えば,事故で指等を落としてしまったら,その指は自分なのかと。そうではないであろう。自分とは,まさしく,考える自分や魂が自分であり,身体は自分ではないのかとも思うのである。移植手術を受けた場合,自分でなくなるわけでは無いだろう。もしかしたら,人間の脳の事をよく知っている人は違うというかもしれないが,ふと考える事があるのである。
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デカルトって記憶力が悪かったので、こんな本を書いたのだろうという話を中村雄二郎氏の本で読んだ記憶があります。ゲームクリエイターの飯野賢治氏が愛読書として紹介していたことも何となく覚えています。当時の仕事がこんな感じに近かっただったので通勤電車の中で読みました。
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「我思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトの著書。
すんなりと頭に入ってくることはないが、
時々「これわかる!」と思う場面も登場して面白い。
~第一部より~
きわめてゆっくりと歩む人でも、
つねにまっすぐな道をたどるなら、
走りながらも道をそれてしまう人よりも、
はるかに前進することができる。
~~~~~~~
こんな具合に。
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Cogito ergo sum 我思うゆえに我あり
実に分かりやすく記述してある哲学書のテッパン!!
真と偽
誤謬と真理
自らの思想
存在と完全性と欠陥
心身二言論・・・神と宗教についての記述にはハテナ??と思ったが、
やはりデカルトの思想、思考には脱帽。
好きだなぁ~~。