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作者のクリスタ・ヴォルフは、ポーランド領で生まれた。
第二次世界大戦の終戦間際に東ドイツから西ドイツへの脱出を目指していた。だがドイツ降伏により東ドイツの国民(ドイツ民主共和国)として留まることになる。その後作家になり、ドイツ社会主義統一党の議員になるが、次第に社会主義への失望を表明するようになり反体制作家とみなされた。それでもヴォルフが東ドイツに留まり続けたのは、小説を書く理由となる「生産的なひらめきに導いてくれる激しい軋轢」はそこにしかなかったからだ。
その東ドイツも、1989年にドイツ再統一で西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に吸収される。
題名のカッサンドラは、トロイ戦争のトロイの王女です。十年間の戦争に大敗北した国の「頭おかしい」扱いされてきた女のひとり語りなので陰鬱さもありますが、読み勧めていくうちになんだか癖になるようなリズムの良さもあるんですよ。このリズムに乗るまでは「長い〜」と思っていたが、後半くらいからうまく乗れるようになりました。
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10年に及んだトロイ戦争はギリシャ軍が勝利を収めた。トロイの女たちはギリシャに連れ去られる。
トロイ王プリアモスの娘のカッサンドラは、ミケーネ王アガメムノンの捕囚として、荒れる海を渡り、アガメムノンの居城ミュケナイに連れてこられた。一足先にアガメムノンが城に入った。彼はこの後、妃のクリュタイムネストラと、その愛人アイギストスにより殺されることになる。
カッサンドラは、城の外の馬車で待たされながら、自分もアガメムノンの次に殺される未来を見通している。そして自分の幼少期からトロイ戦争を経て今ここにいる人生を振り返る。
小説に流れる現実の時間は、荒れる海を渡る船から、ミュケナイの場外に至るまでの道のりしかない。
しかしその短い時間の中でカッサンドラが過去未来を縦横無尽に思い馳せるので、心の時間はとても長くとても広い。
この本は、ギリシャ悲劇やトロイ戦争をある程度分かっていないと理解できないようだ。(しかし小説として脚色されているので、ギリシャ悲劇やイリアスやオデッセイアに書かれているそのままではない)
とりあえず本書に出てくる登場人物を整理整頓してみる。
・カッサンドラ
ギリシャの神アポロンに「俺のものになったら予言力を与えてやるよ」と言われて了解するが、いざという時に逃げ出したため怒ったアポロンに「未来予言をするが(神様とはいえ一度与えた力は奪えないようだ)、誰もそれを信じない」という呪いを受けてしまった。
小説では、夢のお告げや未来予言の時に痙攣の発作を起こして暴れたり言ってはいけないことも言ってしまうので、気が狂った扱いされている。
・ギリシアの神 アポロン
カッサンドラの仕える神殿に祀られている神。小説では、狼の姿として書かれたり、人間の姿でも青銅色の肌をしているんだとか、非人間的に書かれる。ギリシャ神話の神様って人間的なんだが、読者としては冷たい描写だという印象を持った。
・トロイアの王プリアモスと王妃のヘカベー
カッサンドラの両親。カッサンドラは回想��「プリアモス」「ヘカベー」と呼び捨てで、彼女の冷徹さを感じてしまう。(対面では敬称付きで呼ぶのだけれど)
・カッサンドラの兄弟姉妹
妹ポリュクセネ:とても美しいが、ある出来事でカッサンドラと精神的に決別した。
兄ヘクトル:トロイ戦争では「暗黒の雲」と呼ばれる英雄だが、小説では「母に甘やかされて子供のまま成長して、戦争に出ることも嫌がり、愛する妃アンドロマケ(トロイ戦争後、ギリシャ将軍アキレウスの息子ネオプトレモスの戦利品となる)のことを心配する男」として書かれる。
兄アイサコス、デイポボス、弟トロイロス:カッサンドラは彼らのことを哀愁を持って回想する。
パリス:不吉な予言により生まれてすぐに王宮から出されていたが、ある時王宮に帰ってきた。名前の意味は羊飼いの「カバン」なんだそうだ。トロイ戦争は、パリスがギリシャから王妃ヘレネーを連れ出したことから始まる。無節操さと陰にこもった上っ面の陽気さを持つ人物。
・アイネイアス、その父親アンキセス
この小説ではアイネイアスはカッサンドラの恋人という扱い。戦火のトロイから脱出して生き残っている。この後ローマに辿り着き、その子孫がローマ帝国を築いた。おお、波乱万丈!
カッサンドラはその父親アンキセスにも心を許している。
・マルペッサ
カッサンドラの乳母の娘。カッサンドラの双子の子供の子守でもある。ある出来事によりカッサンドラは彼女に酷い仕打ちをした。登場人物の中では架空の人。
・トロイ側についたアマゾンの女王ペンテシレイアと女戦士ミュリーネ
本書では女のあり方は色々あるが、アマゾンの女戦士は直接「戦う」。
・パントオス
ギリシャ人神官で、トロイの神殿にやってきた。カッサンドラの寝所に入り、そちらの手解きもしている。トロイの女たちや女神官の「結婚」「性」についても色々書かれているんだが、どこまでが本当でどこまでが作者の創作なのか?
・予言者カルカス
トロイの予言者だったが、ギリシャに留ざるを得なくなったため裏切り者と言われた。カッサンドラはギリシャ軍への使いとして彼と言葉を交わす。裏切り者となったカルカスと、気が狂ったと思われている予言者カッサンドラは、お互いの気持ちがわかり合える。
・アガメムノン
ミケーネ王。弟がギリシャのメネラオス(スパルタ王)。メネラオスの妃ヘレネーがパリスに連れ去られたため、ギリシャ将軍として戦う。戦後にカッサンドラを戦利品として領地ミュケナイに連れ帰る。
ギリシャ神話では英雄豪傑として書かれるが、この小説では気持ちが臆病な小物で不能で妃に頭が上がらない人物として書かれる。
・アガメムノンの妃クリュタイムネストラと、その愛人アイギストス
アガメムノンを殺す。なお、この後二人はアガメムノンの息子オステレスに殺されます。
・ギリシャ将軍 アキレス、オデッセイアなど
イリアスでは英雄と書かれる彼らだが、戦争に出るのを嫌がったり、戦場での粗野な態度を取る。初めて彼らに会ったカッサンドラは「ギリシャの男は女を無礼に見る」と感じた。
小説内ではカッサンドラの心の内がつらつらつらつらと語られていく。そこで語られる「トロイ戦争」は、ギリシャ悲劇やオデッセイア、イリアスなどの豪胆さとは違う人間の矮小さが見られる。
そもそもトロイ戦争の意味からして伝説とは違う。パリスはギリシャへ使いに行って、三女神から約束された美女ヘレネーを欲して王宮からは連れ出したのだが、どうやらギリシャ王に奪い返されたらしい!?しかし女神からの約束はギリシャ人にもトロイ人にも知れ渡っていたので、顔を隠した女を船から降ろして「美女ヘレネーはトロイ王宮の奥にいる」ことにした。そのことはギリシャ人もトロイ人も知っていた。トロイ戦争とは、ヘレネー奪還を口実にして海の権利を争うものだったのだ。
カッサンドラは、ヘレネーなんていないじゃん!こんな戦争馬鹿らしい!と、トロイ議会で発言するが、父のプリアモス王から否定される。
これでは「予言を信じてもらえない呪い」というより、「大人時の事情で言ってはならないことを言って炎上してしまった」という現象ではないかーー。
しかしカッサンドラに全面的に同調できない部分もあるんですよ。痙攣を起こしながら禁句を口走るし、カッサンドラが原因で不幸になってしまった人もいるし、そりゃー避けられるよな…とも思う…(´・ω・`)
ギリシャとトロイ双方の男たちも、神話の英雄像とは違い人間的な弱さが見られる。
カッサンドラは、トロイでは頭がおかしい扱いされつつも、自由市民として自分の意志に沿って生きている。しかしギリシャの男たちは、女を自由市民とは認めず隷属し、戦場では弱い相手に暴力をふるい、しかし自分はできれば戦場に出たくない。それでも戦場では威張っているが、自国に帰ると妃に頭が上がらない。
女たちにも戦いもある。愛する男性との愛が崩れることもある。そこで我が身を犠牲にすることもある。
カッサンドラは真理を語るために誰にも相手にしてもらえない。ただ一人で無理だとわかる抵抗を続けるだけだ。
ミュケナイの城下でカッサンドラは自分の死を望むような事も考える。「さあクリュタイムネストラ、私を殺して」というように。しかし「誰からも信じてもらえない」呪いの掛かったカッサンドラは、自分自身のことも信じていない。
「クリュタイムネストラ、私を死ぬまで閉じ込めて、できれば頑丈で声の大きな女奴隷を一人付けてほしい。私の考えを伝えて、私が死んだ後も、本来伝わる話の傍流として残っていったなら」と望む。
そこで作者は思いを馳せる。カッサンドラのこと、そして誰も聞いてもらえなかった多くの女性の声を。
「ここにあの人は立っていた。この石像の獅子たちがあの人を見ていた。語りながら死へと赴いてゆくあの人を。」