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大昔から今まで変わることなく存在する、大自然や動植物たち。それらは、神がかった畏れ多さがありながら、多大な恩恵を人に与えてくれて、尊厳をもちながらも、人と共存してくれている。
歴史というのは、事実ではないのかもしれないが、全くの夢物語ではない。山や森の中に入って、ときに感じる神々しさを思わせる空気は確かで、神に祈願する祭りや、それに使われる雅楽の音色にだって意味がある。忘れがちだけれど、自然に生かされて感謝する気持ちは大切だと思うし、文明の発達していない昔の方が、その気持ちはより必死で強いものだったのかもしれない。
7つの娘「お葉」には父母が既に亡く、涙を流しながら叫ぶ姿は痛々しく見えるが、千松爺の厳しくも温かい視線に見守られながら、周りの自然の中に、母の魂の居場所を見いだす様には、人と自然が確かに繋がっていることを実感させられ、それが私にはとても嬉しかった。自然には、こちらから恩恵を受けさせてもらうもので、あちらから人を受け入れることはないものと思っていたから。
「山に来れば、耳がほんとうの耳になって、いろんな物音が聞こえるようになる」
という表現には、すごくしっくりくるものがあり、以前よりも剥き出しの自然の中に行きたくなる気持ちは確かにあり、そこに居心地の良さや、怖いようで懐かしい清々しさを感じると、本来の人の在り方とは、こういうことなのかもしれないと思えたが、いまいち自分の思いに確証がなかった。
ただ、作者のあとがきに、こう書かれていた。
「テレビも電車も、饒舌な自己主張も文明的な消費は何もない世界だった。耳と目と素足で草木の間を歩いていればよかった。風や水の匂いを嗅ぎながら、その声のいうところに従って、躰を動かしていれば、心が自由になれたのである。つまりわたしは登場する者たちを通して、生き直している自分を発見したのだった。」
これだと思った。石牟礼道子さんは、まさに私の言いたいことを、言葉にしてくださった。
そう、生き直している。若い頃、物に満たされていても刺々しい感覚だったのは、真に満たされていなかったからかもしれない。物がなくても、自然に囲まれて巡り歩くだけの、今の方が生きていると、心からそう感じる。