紙の本
上山学の精華
2002/11/30 22:44
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
神学・法学・医学という西欧中世に確立した「書かれた理性」の裏面に脈打つもう一つの西欧精神史。法制史家の著者が前著『フロイトとユング』に続いて、バハオーフェンの『母権制』とウェーバーの『古代ユダヤ教』のねじれた接合の上に、古代地中海世界のマグナ・マーター(太母神)とケルト・ゲルマンの樹木崇拝の混淆による魔女の成立とマリア信仰の意味、そして魔女狩りの狂騒からアダムの最初の妻リリトに依拠するフェミニズム神学まで縦横に論じ尽くした「上山学」の精華。
ここでは第十九章「魔女の祖型」から二つの文章を抜き書きしておく。
《私は、日本の宗教がアニミズム的な多神教や祖先崇拝の性格を持つのに対して、キリスト教が一神教と救済宗教の性格を持つといったたぐいの、彼我の対比を試みる意図はもっていない。そういう図式的理解が教義という表層の解説にとどまるにすぎないことは、キリスト教研究に入った者は誰でも感得している。私がヨーロッパにおける「魔女とキリスト教」というテーマに取り組んだ動機は、キリスト教の教義はどの程度民衆の心性をつかまえ、民衆の民俗信仰はどの程度キリスト教化したのか、これを解くことが、ヨーロッパの精神史を語る重要な鍵ではないか、と考えたからである。
これまでヨーロッパイコールキリスト教というイメージが強かったのは、キリスト教が教育体制を独占したために、司祭、法律家、医者という中世以来のエリート層を傘下におさめ、「書かれた理性」が口頭伝承の文化を圧倒してしまったからであった。民衆文化はキリスト教教養層によって「翻訳」され、したがってヨーロッパの精神史の底流に生き続けた民衆の信仰は表層にはでないのである。》
《世紀末のアスコナ・グループ、シュヴァービングの宇宙論サークルは、ニーチェ、バハオーフェンから知的刺激をうけ、ヨーロッパの生きた信仰であるユダヤ=キリスト教(旧約聖書、新約聖書)の神話の世界に大胆に踏み込んでいった。彼らはユダヤ=キリスト教を父性宗教、バール、モロク、アスタルテ信仰を母性宗教として両者を対比した。後者には宗教行為としてのオルギアがあり、女性が巫女として仕え、豊饒信仰に普遍的にみられる人身御供、寺院売春が附随していた。これに対してユダヤ教は、神官職を男性が独占し、供犠とオルギアを禁じた。
ユダヤ=キリスト教を、母性宗教、太母神、地母神、多神教の側からとらえ直す思想が、世紀末の社会に広く共鳴して受け取められた。このことは、ヘルマン・ヘッセ、ホーフマンスタールの作品を読めば明らかだし、ユイスマンの『さかしま』やボードレールの『悪の華』にもうかがえる。》
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非常に興味深いけれど、魔女妄想だけでは魔女狩りの全ては明らかにされないと思う。
エリートと民衆の魔女という分類が最近では一般的だけど、エリートの魔女にも二通りあるというのが、私の考え。一つは、宗教的な魔女、もう一つは近代国民国家と結びついた魔女。この本は、前者に関してはよい本だ。
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魔女を視野に入れて、ヨーロッパ文明の古層からヨッコラショという感じで、引っ張りあげて見せてくれる本。裏の説明書きほどスケールはでかくないが(いわく「民俗学、神話学、宗教学、精神分析学等々」本文中ではそれに人類学だの美学だのが入っていた)、それなりに素晴らしい本。裏の解説さえなければ、文句なく素晴らしいんだけどなぁ・・・。これがあるために少し、期待しすぎた感もある。でも、決して悪い本ではない。
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魔女とは何か?魔女の淵源は古代地中海世界の太母神信仰に遡る。それは恐怖と共に畏敬にみちた存在であった。時を経て太母神はゲルマンやケルト等の土着の神々と習合し、キリスト教との相克の過程で「魔女」に仕立て上げられていく。そして中世の異端審問、凄惨な魔女狩り・・・・・・。民俗学、神話学、宗教学、精神分析等々、広範な学問の成果に立脚し、魔女を通じて探った異色のヨーロッパ精神史。
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魔女という存在を通して俯瞰するヨーロッパ精神史。現在の我々が「魔女」と聞いて思い浮かべるイメージ像が形成されていく過程がとても興味深い。
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第五章まで読んだ(2009/11/14)
今のところ、魔女とキリスト教というより、キリスト教と民間信仰という感じ。
目次からみるに、魔女はこれからのよう。結構おもしろい。
第六章まで読んだ(2009/11/15)
1つ疑問。森島恒雄『魔女狩り』のいう『司教法令集(Capitulum episcopi)』と、この本のいう『司教法令』は別物?性格が真逆。「集」に違和感を感じていたから『司教法令集』と『司教法令』は別物な気がする・・・。あと、偽書の可能性があるだなんて言われて途惑った。
ちょっと待て。P119L6・・・。P115はどうしてこんな書き方をしたのか?混乱した。『司教法令』は、「空想的な魔女」を否定しているの?肯定しているの?否定のため例を紹介したら、悪魔学者たちに利用されて、結果、魔女のイメージ固めに貢献してしまったのか?
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魔女狩りについての先駆的作品である森嶋恒雄『魔女狩り』は「魔女の歴史を仔細に検討すれば、それは人類学や民俗学の長い別の物語となる。だが、幸いにして私たちの魔女裁判の歴史にとっては、そうした長い歴史を仔細に辿る必要はない」としている。これに対して「人類学や民俗学の長い別の物語」を仔細に辿ったのが、上山安敏『魔女とキリスト教』である。
キリスト教は、地中海世界において母性宗教との闘争と妥協を繰り返しつつその勢力を拡大した。母性宗教との妥協は、ヨーロッパ精神の底流に古代異教の魔女崇拝を残存せしめた。近代へ向けて飛翔せんとする先進ヨーロッパ諸国において、なぜ魔女狩りが猖獗を極めたのか。上山は、この問題を考察する上で魔女についての人類学的・民俗学的知見は不可欠であると考える。
こうした森島と上山の見解の相違は、魔女狩りとプロテスタントとの関係を論ずる際に顕著に現われる。森島は、「新しい魔女概念を創作したのも、またそれを異端審問に適用して魔女裁判を開始したのも旧教徒だった」「しかし、その魔女概念をそっくりそのまま受けつぎ、それにもとづいて魔女裁判を盛大なものにしたのは新教徒であった」と断ずる。ここでは、新旧教徒間に魔女概念の本質的相違はなく、魔女裁判が「盛大」になった理由は新教徒の宗教的不寛容に求められている。
一方の上山は、プロテスタントはカトリックの魔女概念を本質的に変更したと考える。プロテスタントにとって、自然的災厄の原因はあくまで神意(自然の因果性)であり、魔女の悪行など迷信にすぎない。その結果、カトリックの宗教儀式に見られる対抗魔術的要素は排除され、迷信に基づいて社会的害悪を行わんとする魔女は徹底的に断罪された。こうして、一時的には魔女狩りを激化させたプロテスタントが、長期的には脱魔術的近代思想への道を開き魔女狩りを鎮静化させるという「複合的な役割」を果たしたのである。
その背景には、南欧と北欧との民俗学的な魔女概念の相違がある。南欧型魔女はサバトや性的狂躁など集団的性格が強く、北欧型魔女は森などの周縁部に住み呪術によって天候や家畜に損害を与える孤立した存在であった。ドイツのプロテスタントにとってカトリックの南欧型魔女概念は重要ではなく、呪術によって社会的害悪をもたらす北欧型魔女こそが標的とされたのである。上山が民俗学的知見を重視した所以である。
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キリスト教発生初期から現代にいたるまでの、キリスト教と「魔女」の対立・取り込み・弾圧および反逆とその収束を纏めた一冊。
とりあえず自分の知識が追い付いていない感が大きく、再読が必要か。
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「魔女迫害は果たして資本主義の誕生のさいの陣痛に過ぎなかったのか。ヨーロッパ資本主義の成立と魔女迫害とは、同時代の双生児ではなかったか」 p. 379
それが起きている時代背景をどれだけ考慮に入れられるかっていうのは、意識しようとしてもすぐにスッポ抜ける。ついつい個人に還元したくなってしまうような認識のバイアスというのは確実にあって、それに対するメタ視点を持つだけで充分なのか否か?というのは最近気になるところ。
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キリスト教に関する講義のレポートを書くために読んだ本ですが、個人的に魔女裁判とかも興味のあるテーマなので、少し難しかったけどおもしろかったです。聖母信仰が古代の多神教における地母神信仰の流れを汲み、その地盤を踏襲する形で聖母信仰が広く受け入れられたという考えに、なるほどと思いました。
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キリスト教が、魔女という概念をどのように認識してきたかを論じた本。キリスト教誕生以前、ユダヤ教の紀元前から遡って、現代までを網羅している。
360ページほどだけど、馴染みない単語も多く。内容もギッシリと詰め込まれていて、読むのに2日を要した。
内容は面白かったけど、読み進めるのは難儀した。
キリスト教がヨーロッパ中に普及していくなかで、どのようにして土着の信仰に影響され変質していったかがわかる。
キリスト教・伝道史の視点も大きい。