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2001年12月30日読了。以下、過去の日記から抜粋。
「見れる/見られる」「答えれる/答えられる」「覚えれる/覚えられる」等、
今ではすっかり社会的地位を確立した「ら抜き言葉」が作品のテーマである。
私事で言えば、教育実習でまず指導の先生に言われたことが、
・方言を使うな
・ら抜き言葉を使うな
恥ずかしながら、確かに私は言葉遣いが悪い・・・ということで、
実習中、特に最後の研究発表の時は非常に気を遣ったことを思い出す。
つまり、「ら抜き言葉」は聞いて解るが正しい言葉ではないという認識が、
今でも強く残っていて、この作品はうまくその部分を突いてきているわけである。
しかも作品内にはさらに現代日本語の問題点がひしめき合っている。
丁寧にすりゃいいってもんじゃないだろっ、の敬語表現。
それ、意味違ってるってば、のことわざの意味の勘違い。
意味なく繰返される新しい接続表現、男言葉と女言葉、方言コンプレックス。
戯曲を読みながら、我が身を振り返ることの何と多いことだろう。
言葉はまずは相手に意思を伝えることが第一に仕事である。
だから、相手が理解できれば何を話していてもいいという考え方もできる。
しかし、言葉は文化であり、歴史である。
「ら抜き言葉」が認められたという事実は軽く捉えられがちであるが、
実は歴史的には大転換であって、おろそかにはできない問題であるということは
私達は忘れてはいけないのだろうなと思わせてくれる作品なのであった。
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ら抜きが許せない人、ら抜きを使ってしまう人、コギャル語を使う人、敬語が使えない人、方言をひたすら隠す人、女言葉を放棄した人。
などなど、
個性的な登場人物たちで、日本語の乱れを面白おかしく描いている。
1998年に書かれた戯曲。12年たち、ら抜きはその当時よりもより市民権を得、逆にコギャル語は死語になってしまっている。
今だと、ら抜きはNHKでも使っているし、許せないと思う人もあんまりいないだろう。
本当に言葉は生き物のようだ。
ぐんぐん形を変えていく。
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見れる、食べれる、みたいに今じゃ普通に日本語になじんじゃってる「ら抜き言葉」。
ら抜き言葉がどうしても気になってしょうがない国語教師と、それを取り巻く崩れた日本語を使う人々。それらの葛藤がたまらなくおもしろいです。
「チョベリバ」など死語の羅列が、作品が生まれて十数年というタイムラグを感じます。それがまた滑稽で、こういう楽しみ方もあんだな。と思う一方、この劇をリアルタイムで見てみたかったなあとも思う。
ぜひやってみたい演劇の一つです。 とにかく日本語の崩壊について考えさせられる一冊。
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翻訳を生業とする人の書評で高く評価されていたので、読んでみた一冊。
言葉って本当に面白い。
言葉の乱れなどと目くじらをたてる人がいる一方で、伝わればOKと次々に新しい言葉を生んでいく人々。
でも結局、どんな言葉を使おうが伝わらなければ言葉自体の存在意義がない。それを笑いと皮肉の中で教えてくれた一冊だった。
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今更ながら読んだ。すっごいおもしろい!
台詞の応酬はリアリティとフィクション性のバランスがよくて凄く気持ちがいいし、二人の人間関係とやりとりに気を取られてたせいで、ちょっと考えたらもしやと思い至れたはずのオチにもまったく気づかなかった。日常もうまく描けば十二分なはったりになるんだなあ。詩的な台詞、リアルに固執した台詞も凄いけど、この人の台詞回しも素晴らしく日本語への愛を感じた。
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登場人物と一緒にどの言葉遣いが正しいのか、混乱した。
はやりの言葉を文章にして本にすると、痛いな…。
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タイトルを見て「ら抜き言葉に殺意を覚える人の話」かなと思いつつ手に取ったのですが大違い、むしろそういう人にこそ読んでほしくなるような本でした。
「正しい日本語」を強要する人びとの傲慢さを描き、他方でその「正しい日本語」に対するコンプレックスから必死になって身につけようする人であったり、「女言葉」に縛られない自分らしい表現をしようと奇妙な言い回しを開発する人もいる。それらが混ざり合って混沌とした日常生活が進んでゆく面白さ。この物語は、日本語の正しい―間違いという対立すらも手玉に取って笑いにしてしまう。
この本が出た1998年と比べると、「ら抜き言葉」はますます広まっていると考えて間違いないと思う。コギャル言葉は明らかに死語になっているけれど、「ら抜き」をめぐるこのこっけいな闘争が、ますます今の時代に問題を投げかけているような気がします。
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ら抜きのバンバンと、ら抜きが許せないエビセン……
お互いがお互いを憎みあい、弱味を握り合い、バンバンは「らを抜かない」言葉を、エビセンは「ら抜き」言葉を余儀なく使用させられ……
奇抜な構想の喜劇だと思っていたが読みす進めるうちに、ことわざ、敬語、女言葉、果ては山形弁など、ことばづかいの玉手箱のような様相を呈してき……
文字通り言葉の掛け合いから登場人物の性格的弱さが浮かび上がる。結局は自分の想いを伝えるために、どんな言葉づかいを選びとるのか、それが一番大事なんじゃないかねっていう熱いメッセージ。
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確か米原万里さんの書評で知った一冊。
戯曲を読むのは久しぶりでした。
文字を追うよりも演劇を見た方が楽しめるのかもしれません。
「ら」抜き言葉をはじめ、とても正しいとは言えない日本語を使う登場人物達のコミカルな会話が続きます。
巧みではあると思うのですが、私には良さが分かりませんでした…
ただ1点、とある登場人物の
「日本語の女言葉には命令形がない。女はいつもお願いするしかない」といった内容の台詞にははっとしました。
日本語は女言葉がある数少ない言語なのは知っていましたが、なるほど、いろいろな事に通ずる事実ですね。
そろそろ満足できる本が読みたい。
2021年10冊目。
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言葉って面白いなと思わせる作品。
いやいやいや、と思っているうちに世界に入り込んでしまう感覚。
実際の舞台で観たいなと思いました。
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私が学生だった頃、大学の先生がこの戯曲のことを講義の中で触れていらっしゃった。
少なくとも2名以上の方から聞いた記憶がある。
よほど興味深い作品なのかな~と思っていたが、実際に目にする、手に取る機会がなかった。
今回古書店で見かけて、ここで会ったが百年目!の勢いで読んでみた。
胡散臭い通販会社「ウェルネス堀田」が舞台。
そこに折り目正しい敬語を使う海老名という中年男性が夜間限定のバイトとして入ってくる。
ことばや敬語をめぐって若手社員伴との間に緊張感が高まっていく。
始め、チャラい若手社員の伴、過剰に敬語を使う遠部、万事ガサツな宇藤らの言葉とキャラの重ね方があまりにべたなので驚いたが…。
社長の妻、堀田八重子の登場で、遠部の言葉が変わっていくところになるほど、と納得。
なるほど~。
単なるら抜き、さ入れの問題じゃない。
人間関係が言葉の選択につながるのか、言葉で人間関係をコントロールしているのか。
いろいろ考えてしまった。