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ここではないどこかを求めて煮詰まっちゃうと、現状への不満に対してその原因と解決策をぽんと出してくれちゃう宗教にはまっちゃいやすい、今楽しけりゃイイじゃん的なちゃらんぽらんはそういうのに絶対はまらない、みたいなはなし
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地下鉄サリン事件直後に書き下ろされた一冊。1998年を終わりなき日常を生きることへの恐怖と闘うという観点から解き明かした。『まわるピングドラム』と絡めて読み始めたが、あのアニメを読む為の手段にもなる。
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あの震災の日、津波で流されゆく建物や燎原の火に焼かれていく家々を、遠い九州の地からワンセグで見ながら抱いた妙な感情。明らかに「日常ではない」光景に対する、恐怖にもワクワクする気持ちにも似た気持ち。
その後様々な言論誌で見た、「『終わりなき日常』が終わった」という言葉。
例えば東浩紀は、「震災で僕たちはばらばらになってしまった。それは、意味を失い、物語を失い、確率的な存在に帰られてしまったということだ。」という(思想地図βvol.2 11頁より)。
その意味するところは、私にはわからなかった。しかしその言葉には、強烈に引きつける何かがあった。
震災以前に私がなんとなく過ごしてきた「終わりなき日常」って何だろう。そんな疑問にかられて、私はこの本を手に取った。
宮台真司は本書で、共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常こそが「終わりなき日常」であると主張する。
自分の生き方が肯定されない、何が正しいのかが分からないという、空洞となった良心には、「ハルマゲドンによる救済」という使命をオウムに植え付けられてしまう。だからサリンをばらまかないためには、何が良いことなのかという問いを一旦棚上げにして(深く考えすぎずに)、「まったり生きる」ことが必要なのだと言う。
なるほど、わかったようなわからないような。
本書を読んで、別の疑問も生まれた。
宮台が本書でその存在を喝破したような、「共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常」と、近年流行した日常系アニメの描写に見られるような、何の変哲もないぼんやりした日常とは、本当に同一なのか、ということである。
両者に同一性がない場合、震災後の問題に「終わりなき日常の終焉」を引き寄せて立論するあらゆるサブカルチャー言論は、一種のこじつけの操作を行っていることに他ならないのではないだろうか。
結局、「終わりなき日常」という言葉をアドホックに運用すると、私のように混乱する人が出てくると思う。
(余談)
自己同一性について浮動的な若者は現代に多い。そんな若者が、終わりなき日常の断絶を奇貨として、自らを社会の中に定位させようと試みる。
多くの学生が被災地ボランティアに向かうのも、そういうところに意図があるのかもしれない、といえばあまりに斜に構えた見方であろうか。
(抜粋)
『私たちに必要なのは、「終わらない日常を生きる知恵」だ。「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。その知恵を探るために、私は「終わらない日常」に適応したブルセラ世代を調べてきた。その私を「不道徳だ。非倫理的だ」と批判してきた「倫理的な」あなた。あなたのような知恵のない人たちが、「偽物の父親」を登場させ、サリンをばらまかせるのだ。』(114頁)
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アダルトチルドレンが良い子になるのは家の中にセキュリティがないから
失敗しても帰るところがないので予測可能なことをやる
オウム信者は失敗したり薄汚れた自分に耐えられない<アダルトチルドレンぽい
幸せになれるかどうかは個人のコミュニケーションスキルにかかってくるのは難しすぎる
勉強できてもコミュニケーションスキルがないと生きていけないということか…
(勉強もできないが)
恋愛はアダルトチルドレンをリカバリーする 子供の頃からやり直せる
より多くの人間が等身大のコミュニケーションを享受するようになれば、それが出来ないものは、そのコミュニケーション「からの」自由を求めるようになる<だから自分は人と関わりたくないのだろうか?
お金もなく勉強もできないから不幸だと思うよりも、お金もあり勉強もできるがコミュニケーションスキルがなく一人だというほうが追い詰められるほどに不幸
コミュニケーションスキルがなくても、そのままで大丈夫と言ってくれるのが宗教と恋愛
永久に輝きを失った終わりなき日常でそこそこ腐らずまったりと生きていく修行が必要
終わりなき日常を生きるとは何が良いのか悪いのかもわからない世界で腐らず生きること
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読後に読んで面白かったブログリンク
http://blog.goo.ne.jp/interpret-story_around_us-0624/e/67060dbb2efeec324b3edad547e7bd6b
http://misoshiru.ko-me.com/本/宮台真司「終わりなき日常を生きろ」読了。
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表現が理解できてない部分が多々あったものの、なかなか楽しく読めた
でもオウムを肯定することはできないし、自分がオウム側の立場に立つ可能性、これに限っては絶対にないと断言できる
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著者は、もはやユートピアを思い描くことが不可能になった「終わらない日常」を生きるために自意識を持たない道を選んだ女子高生たちの実態を解明した社会学者です。本書では、「終わらない日常」の閉塞感から逃れるためにオウム真理教にのめり込んでいった信者たちの軌跡をたどることが試みられています。
速水由紀子のコラムや、オウム真理教の村井邦夫と著者の架空の対談などもあって、興味深く読むことができました。ただ、著者が長く考察をおこなってきた女子高生の「終わらない日常」を生きる戦略とオウム信者たちの姿を対比させるという構成に、最初から結論が決まっているのではないかという印象もあります。
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『14歳~』を借りた時に隣にあって面白そう♪と思い背表紙借り。
よって、家に帰って初めてオウムと知った(^^;
あとがきに、緊急声明的な本…と書かれてたけど、充分普遍的。とっても興味深く読んだ。
『透明な存在の不透明な悪意』に先に出会ってる自分としては文庫版あとがきが、特に面白く感じた。
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オウム真理教の一連の事件にあまり関心を抱かないのは世代だからなのか、同時期に読んだ斎藤美奈子、姫野カオルコ、中村うさぎ、そして宮台に手を伸ばすきっかけだった上野千鶴子が、揃いも揃って「東電OL事件」をネタにしていてそっちに強い関心を持っていかれたからなのか、それとも単純に頭が弱くて意味が全く浸透してこない社会学の専門用語の羅列とオウム関係の写真に付されたわけわからんポエム的なものがうっとうしくてあまり読む気にならなくてポイしちゃったからなのか、いったいどれなのか。
③だな。
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本書はオウム完全克服マニュアルとなっている。内容はなぜ1995年当時にオウムという悪夢が発生したか?を問う。以下に詳しい感想が有ります。http://takeshi3017.chu.jp/file6/naiyou23001.html
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日経エンタムックでお勧めされていたのを見てから気になっていて、ようやくそれをゲット&読了。何となく、オウムの歴史的な読み物を思い描いていたけど、全然違いました。オウムを通して見る現代社会の病巣というか、あくまで作者の論文でした。当時、社会とは隔絶された環境に生きていたこともあって、マスコミでどんな取り上げられ方をしたとか、擁護派も少なからずいたこととか、当時の雰囲気を味わえた点では良かったですが、読み物としては、やっぱり古臭さが否めず、結構読み飛ばしてしまいました。
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私にとっての90年代は0歳から7歳までの間だけで、しかし私は年賀状に「21世紀」と手書きで何度も書いた記憶があるので、90年代のことはうっすらと覚えている。不景気・そして社会不安・凶悪犯罪により、幼い娘を持つ両親は私に「知らない人は何をするか分からないから絶対に信用しては駄目だ」と教え込んだ。私はこの社会はディストピアであり、見知らぬ他人は容易に殺人犯に変容し、そして日本は永遠と不景気なんだと幼心にインプットしたおかげで、90年代は非常に灰色の記憶になっている。(あとから記憶を上塗りしているかもしれないけれども)
という、その私の90年代と地続きになっているはずの、オウム事件から日をおかずに出版された本らしく、内容は今読むとかなり雑多で幅広い。途中にコラム・写真なども入り込んでいて、本全体としては論として時間をかけて練られたものという印象はなく、気鋭の若手社会学者が事件に応答をすべく動いた即応性を感じさせ、また宮台真司という人物の幅を見せる面白みにもなっている。「過渡的な近代」から「成熟した近代」への移行プロセスで共同体が空洞化し、承認が得にくくなった社会で、承認から見放された人間たちがどこに承認を求めていったのかというフローを、オウム事件だけではなく、その後の事件も含めて分析したあとがきが、とてもクリアで良い。「終わりなき日常」は、21世紀に突入して早19年もたってしまった現在でも非常に示唆的なワードな気がしてぞっとする。おそらく「成熟した近代」への移行に失敗したままである日本社会の「承認の供給不足」という事態は変わっていないはずで、社会の外はますます肥大しており、コミットすべき現実との乖離は拡大しているように見える。私の友人などは「会社にいるときの自分は自分ではないようだ」とまで言い出す始末だけれども、オタク的な消費行動に熱をあげることは「まったり生きる」ということに繋がるのだろうか?などという疑問はおそらく『制服少女たちの選択』などを読めば少しスッキリするのでしょう。
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「終わりなき日常を生きろ」宮台真司著、ちくま文庫、1998.03.24
206p ¥609 C0136 (2019.06.14読了)(2019.06.06購入)(1998.10.05/2刷)
【目次】
はじめに
第一章 「オタク論・連赤論・二重組織論・邪宗論」はデタラメ
第二章 「さまよえる良心」がアブナイ
第三章 「終わらない日常」はキツイ
第四章 コミュニケーション・スキルという知恵
あとがき
文庫版あとがき
(「BOOK」データベースより)amazon
「さまよえる良心」と「終わりなき日常」をキーワードに、今最も活発な発言を続ける著者が、オウムと現代社会を分析する。社会が成熟し、幻想が共有されなくなった時代、人はそれぞれの物語を生きるようになっている。その後の事件、状況分析を加えたあとがきを新たに付す。
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僕が今生きる地平はどのようになっているのか。
とりわけ戦後からの日本。現代日本とは何なのか?
失われた30年
日本が停滞していたことしか経験として知らない僕にとって過去の世代の断念がどのようなものなのか
オウムに魅せられた当時の若者
全共闘の終わり、シラケ世代、60年代生まれ
終末思想
アニメや漫画で描かれる終末後の共同体
あるいは現代の終わりなき日常
80年以降の生まれは世代としての断念を知ることなく、ゆっくりと衰退していく日本で終わりなき日常を生きている。
積極的な未来の希望があるわけではない。
むしろ未来をしっかり直視するのであれば、日本の将来は不安だらけだ。しかし、なまじ今の緩くて悪くない生活を感受していると、わざわざ大それたことを考えなくもいいと思えてしまう。
断念という経験すらないのだから、それは悲劇には成り得ない。共同体も最初から存在しない。あるのは学校や職場で作られる人間関係とSNSだけだ。
かつての若者がオウムに共振したのは、共同体の破壊と、未来への断念、終末思想、そうした背景があったからだろう。オウムの教えにあったような、破滅からの救済。
リセット願望。
追記
オウム以後。酒鬼薔薇聖斗事件についても触れられている
再びオウムのように宗教団体が力を持つかは分からないが、今の日本を見渡せば、失われた共同体、将来への不信、それらは何一つと解決されていない。
私たちが問題に慣れすぎて、むしろ問題を問題として十分に捉えることはなくなった。
終わりなき日常の適応化を果たしたといっても、将来は暗いばかりだ。いずれテロは起きるだろう。湯は冷めるのだから、ぬるま湯にいつまでも使ってはいられない。
社会の変化は水面化で起こり、私たちがそれを実感する時は急激な変化として見える。
それがテロによって引き起こされる可能性は無視できない
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面白かったが、20年以上も前になると忘れ去れたら古い理論やアイデアに感じた。アカデミズム、社会学的なものにもある時を機会に断絶があるように感じた。