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オウムのような新興宗教にハマる人たちは、いったい何に惹かれているのか、自己啓発やヒーリングといったブームも根底は同じであり、終わりなき日常を生きる知恵を持たないものが引き寄せられる。
70~90年代のSFの変遷などと絡めた内容は、10年前の著作ながら、
今でも十分な説得力をもっていると思う。
現在のスピリチュアルブームも同じように理解できそうだ。
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90年代を考える上でオウム外せない。そしてオウムを含む90年代論を考える上でこの本を欠かすことは出来ない。終わりなき日常をまったりと生きることは許されなかったわけだが、そう断言させる空気が90年代にはあった、ということがわかるだけでもこの本にはとても意味がある。
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いまさらオウム真理教ですか?という印象を持つだろうけれども、いやいや、読む価値はある。「制服少女の選択」に続いて読んだので、目新しさはなかったし、あまりに世代論が出過ぎる気もするが、よい本。
自分自身の中にあるものも含めて、若者の感覚に近づくことができたように思う。
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オウムの問題を切り口に、当時の社会を分析する。共同幻想が崩壊した後のどのように生きていくかを述べている。要所々々で挟まれるコラムは意味不明だけど、当時の空気をよくあらわしている・・・ように思える?
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オウムを知るというより、オウム真理教の構成員の中でとりわけ人数の多かった、
新人類またはバブル世代が、どうしてこの「神秘主義」主体の宗教に惹かれてしまったのか。彼らの生まれ、育った時代背景の雰囲気がよく描かれている。
流行の宗教の背景には、かならず時代の持つ特有の雰囲気があり、
今でこそ、宗教学の流れでは、新しい「分類」にわけれられるオウムだが、
16年前の著作である本書は、まだ生々しさを残しながらも、適切な分析をしていると感じる。この時代に宗教にハマッってしまった人は多いのではないかと思う。
オウムに限らず、この世代を理解するのにはとても判りやすいと感じる。
☆が3つなのは、もう少し掘り下げた内容でも充分読み応えがあったとおもう、という残念票。
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宮台先生のM2で宮台教に入信
触発されて、これまでの読書で引用が多かった(批判的な引用)この本を読んだ。
副題の通りオオム真理教・サリン事件の社会学的考察
時代的な系譜学としてサリン事件を位置づける。連赤から新人類〜ブルセラ〜オウム〜酒鬼薔薇聖斗
そしてその原因を社会学者・若者フィールドワーカーとして、宗教学等の豊富な知識を引っ張ってきて説明している。
今の所それらは説得的に思える。
本書に対する反対する本もあるし、余裕があったら読んでみようかしら。。
僕は何故彼に憧れるのか??
彼が僕の人生を知るのに役立ちそうだから?天才という超越の香りするからか。それ以上にもありそうである。言葉の端的さに惚れてるのかもwwww
あと僕の論理トレーニングとしても読んだ、途中で寝たり、中華食いに行ったりして、断絶したけど最後まで読めた。しかし、僕の国語能力は低いな。この書物から知識を得たい、これが知りたいと心から思って読書した事ってないな〜
宮台氏的に言う「試行錯誤の身につけさせる」教育が僕の国語教育では決定的に失敗してるな。。
まあ、いいや
内容は
最初に事件のキーワード「終わらない日常」「さまよえる良心」の提示
第一章で これまでのオウム分析批判 (宮)連赤との差異・オタク文化が要因となる条件にこそ注目すべきだ(ここは流石!!唸った)・宗教学者がオウム>幸福科学だったのは自我が弱かっただけ。
第二章
「さまよえる良心」:善き事をしたいという良心への志向が強ければ強い程、「何が善き事なのか分からない」という不透明感が切迫し、透明な真理への希求が高まる
↓
「善きこと」が不透明な理由
内面的な「倫理」がもともと存在しない日本に置いて、共同体的な「道徳」が共同体とともに喪失。 「良心」の空洞化・・・(良心ー(倫理+道徳)=?)
↓
神政政治の出現
世代問題
第三章
「終わらない日常」と「核戦争後の終末性」という終末観
前者:輝かしい進歩もおぞましき破滅もない、日常のかでの永遠なる戯れしかない。→ディストピアに映る
後者:廃墟の中での団結や共同性というファンタジー
革命→輝かしき未来→脱力→
終わらない日常を生きる知恵という解決策の提示
第四章
終わらない日常が一番堪えるのは?
①外部がより必要な人②コミュニケーションスキルのより無い人
恋愛も宗教の代替物足り得ない
↓
全体的包括要求を放棄
「まったり」生きる これが「終わらない日常」を生きる知恵・・・農村的な自意識の自足時給
あとがき
社会比して無我複雑になればななるほど、コストの低い認識方法を人々(各人各システム)は選ぶ
予言的中:①援助交際②AC(エヴァ)③親父(マッタリ生きられない)の迷走(失楽園、歴史教科書?)
酒鬼薔薇聖斗は反社会ではなく「脱社会的」。
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僕らの生きている日常は決して終わりそうにない(それにたぶん、近々終わることはないと思う)。
そこから逃避することは各々の自由だが、それによって救われるかどうかは人それぞれである。しかし、逃避したくなる気持ちや、何らかの救いを求める想いは、多かれ少なかれ僕たちの中にあるのだろう。人がそんな心境にあるとき、社会(=私たち)はどんな反応を示すであろうか。「あの時代」を振り返るとともに自分を見つめ直すのにはよい本かもしれない、と思う。
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15年後の今だから分かることもあったり。終わりなき日常という概念はイマイチ感得できなかったのだが、コミュニケーションを全面的に背負わされる環境というのはやはり卓見だったと。テレクラ、ブルセラ、援交という宮台の初期の仕事は、出会い系にSNSそしてツィッターという流れのなかで、読み返してみる価値があるのかないのかw
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とても面白くて読みやすかったです。
永久に輝きを失った世界のなかで、将来にわたって輝くことのありえない自分を抱えながら、そこそこ腐らずにまったりと生きていく知恵を身につける……酷だなぁ。私たちニート世代はどうなんでしょね。でもFBやTwitterで承認欲求を満たしてるひとは多いんじゃないかな。。
宮台さんが、後半の対談の中で「ひとは大人になっていく過程でそこそこの自分とそこそこの世界に耐えていくことができる。それを阻む装置を、観念であれモノであれ制度であれ、徹底的に破壊しつくすことが、僕の目的なの。」って言ってるのがカッコいい。
3.11は、ハルマゲドンだった?
あと、「コクリコ坂から」を観たときに抱いた憧れのような、もう永遠に手に入らないような気がしたものが一体何だったのか良くわかった。全てが暴かれてしまう前の、あの希望に満ち溢れたかんじ!まだムラ的な共同体が根付いているかんじ!全てが羨ましい。
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アダルト・チルドレンと宗教の関連性はもっと掘っていきたい。例えば八王子に創価学会があるのもその関係と言えるのだろうか?
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震災が起こればボランティア活動が活発になる。多くの人が現地に出かけるが、不思議なことには地元では活動しない。彼らが必要としているのは「廃墟の中の」ボランティア活動である。非日常の中に彼らは自分を映し出す鏡を見る。
宮台は言う「終わらない日常を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。私たちが生きている社会は、条件次第で評価されるしかない。しかし、条件は不透明だから、何が良いのか悪いのやら、よく分からない」
私たちは、そうしたよく分からない世界に生きている。終わりなき日常を何となく忙しそうな装いをして。
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何かにすがって生きていかなければならないという状況自体は、特に珍しい現象ではない。むしろ、資本主義というある種のイデオロギーで生きて行き易い人たちの存在も居るだろう。特に、この本で描かれているようなブルセラ少女、ナンパ族とは、一体何処の誰で、どういう属性を持ち合わせているのかが重要になってくるだろう。例えば、援交少女という現象を一つ取っても、それ自体には、「少女」や「女性」といったような集合的な主語を使う事は無意味だろう。なぜなら、いくら学校制度が、外部の学者によって、その制度が批判されようとも、幾分かの生徒には、その制度に適応し、無事平穏な生活を営む事が出来るだろうからだ。つまりは、この本でいわれているような「終わりなき日常」という集合的な主語の使用による、二次的な暴力性が露呈する事もあり得るという事だ。この本でいわれているような「終わりなき日常」とは、何処にあるのだろうか。この本に登場する人物達の素性は、何処までが、その汎用性という観点に置いて、有効性を発揮するのだろうか。終わりなき日常という現象自体は、珍しい事ではないように思われる。歴史を見渡してみれば、そもそも仏教や、その他の宗教にも、個人という閉鎖された場所からの解放や、他人という異世界との結合、そして、「頭」という器官から生み出される、「無間地獄」という概念も、「終わりなき日常」を模写したような意味合いを含意しているような気がするからだ。では、なぜ、「終わりなき日常」という現象が、一部の人には、苦しくて辛いものなのだろうか。それは、既存社会という「集合的な主語」的な環境によって、社会から弾かれ、裸身になった事による寒さに耐えられないという事態が引き起こすものではないか。つまりは、「繋がり」や、「安堵」「居場所」の喪失により、自分という存在を相対化出来ずに、自己の絶対性から逃れられない、そういう事態が、辛く堪えられない現象を生み出すのではないだろうか。自己を絶対化する事によって、無限の自我の連鎖を生み出す。無限の自我という現象は、いわば、「不動」という固持を意味する。何処まで行っても何も見えないのは、逆にいえば、その部分から、一歩も進歩していないという事である。人間は、物理概念的に、思考を「空間」として、認識してしまう癖がある。それは、人間という生物が、三次元の物の見方をする所からの、一種の癖である。それを、意識的に、思考的にも「三次元」的な見方をしてしまうのだろうと思う。本来思考や、思想というのは、ある意味での「自己完結性」なのだと思う。そこに意味を見いだすのも、救いを見いだすのも、総ては、ベクトルを持たせるという意味に置いて、三次元的であるといえる。そもそも、何かに意味を見いだしたり、救いを見いだすというのは、それに置いても「自己完結性」である筈だ。しかし、その自己完結性が、総てを統括する「全体性」になってしまうとすれば、本来の意味で「自己完結性」という、「個人」または少数に分類されていた概念が、「暴力的な汎用性」を生み出す事になる。この暴力的な汎用性の被害者が、この本で描かれているブルセラ少女達なのではないか。
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タイトルになっている「終わりなき日常を生きろ」というフレーズはとても共感するし、素晴らしいものだと思う。ただ、本の内容からすると、筆者はこの「終わり無き日常」に永遠の若さが前提となっているような気がして違和感を感じる。
終わり無き日常が本当に何も変わらない日常であるならば、そこから抜け出すためにハルマゲドンを願う人がいるのは想像の範囲内だろう。しかし実際の「終わり無き日常」は毎日少しづつ変わってゆき、数年もすれば多くの場合すっかり様変わりしているものだ。なぜなら、時は公平に流れてゆくものだから。その中で多くの人は変化に翻弄されながら生きてゆく。「終わり無き日常」が実は同じもののように見えて少しづつ流転してゆくものだと感じながら。もしかすると「終わり無き日常」を本当に終わりのない繰り替えしとして生きたがるのはオウムのような集団なのではないだろうか。
オウム後を生きる我々には、このようなメッセージが必要なのではないだろうか。
「終わり無き日常を生きろ。なぜなら、日常はかわってゆくものだし、その中には美しいものもきたないものも色々あるけど、その日常を自分の人生として生きることができるのは自分だけなのだから」
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ポストモダン的な90年代解釈。終わりなき日常は戦後を通じた日本全体の前提として存在していたが、世代によりその対処方法が異なっていた。高度経済成長、全共闘世代、しらけ世代、新人類、オタク、そしてオウムなどの宗教、ブルセラ。
日本の大きな物語は東西冷戦構造共に崩壊したのではなく、戦後常にそこに存在し、個人をより小さな物語へと突き動かしつつあった。
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オウムの事件から見る現代社会の「終わりなき日常」を指摘した本である。
奇抜なファッションの写真にあるコメント、コラムなど、読んでいてユニークさもある本だったと思う。
日常から逃げて、最後まで純白であり続けたいという想い、
工場の排水が汚す河や、金や欲で汚れた人の心を憎むことで自分の中に純白を保とうとして、サリンを撒くことでそれは達成させられる。
著者は、「終わらない日常を生きる知恵」が必要であると主張する。
すなわち、すっきりしない世界を生きるということ。
ファンタジーの世界を生きることでありえない外部を想定してしまう。
最後に、著者は「本書の予言的中は学問の勝利」であるとしている。
確かに私たちの人生も、小学校時代から、会社に入るまで、死ぬまでが何も面白いことのない「日常」に縛られて、汚れた心や、金銭の問題と向き合っていかなければならないというのも事実だろう。
我々は、束縛から逃れることができない生を死ぬまで生きなければならない。
その「終わりなき日常」に穴を開けようとする動きが、たとえばオウムであったり、尾崎豊であったり、「完全自殺マニュアル」だったりするのではないか。
どこか、現実と違う世界に逃げ込もうとすることで救いを求めようとしていたのではないか。
我々の多くはオウムの問題に対して、自分とは関係のない日常を離れたおかしな集団が起こした異常な事件くらいにしか思っていないのだろうが・・・。